セイタカアワダチソウの輝くような黄色の花が目立ってきた。特に汽車の沿線に群生していて、所によって百メートルほど続き、その黄花がゆれている。この草は帰化植物で鉄道によって運ばれたといわれているが、その群生地を見ると納得できる。
ついこの間まで沿線沿いに目立っていた赤いヒガンバナはセイタカアワダチソウの黄花と入れ替わるように見えなくなった。しかし鉄道をまたぐ橋の壁面部分には、まだヒガンバナが咲いていた。ずいぶん遅咲きである(本日は10月15日)
セイタカアワダチソウの輝くような黄色の花が目立ってきた。特に汽車の沿線に群生していて、所によって百メートルほど続き、その黄花がゆれている。この草は帰化植物で鉄道によって運ばれたといわれているが、その群生地を見ると納得できる。
ついこの間まで沿線沿いに目立っていた赤いヒガンバナはセイタカアワダチソウの黄花と入れ替わるように見えなくなった。しかし鉄道をまたぐ橋の壁面部分には、まだヒガンバナが咲いていた。ずいぶん遅咲きである(本日は10月15日)
先月から図書館の本でエントロピーについて知りたいという動機が高まっていた。専門的なことはいまさら無理でも、その言葉は環境問題、宇宙の行方、情報科学から社会科学まで幅広くあらわれる。そればかりではなく注意してみていれば、身近な現象にも常にあらわれる。そのため「エントロピー」の概念について、素人なりに理解したいと思い、何冊(もちろん入門、初歩編)か読んでみたが、チンプンカンプンとまではいかないが、わからない!結局、エントロピーとは何か、理解するまでには至らず、本を読むのもやめてしまった。
なんで初歩・入門編でもエントロピーについて理解することができないかを考えてみた。老化による論理的思考力の衰えもあるが、いくら優しい解説の本といっても、熱力学の基礎、そして統計学の基礎、は理解していないと、その本における説明についていくことは難しいとわかった。
理解には至らなかったが何冊かの本に共通するあるエントロピーについて概略的な説明は印象に残った。それは
「整理されたもの(ある程度整理されたものも含め)は、乱雑に向かう、つまりすべては自然に乱雑になる(乱雑については定義もあろうが、私はそう難しく考えないことにした)」
「だから宇宙もエントロピーの増大(つまり乱雑)に向かい、それは最大になり、宇宙の終焉となる(熱的死とも言うらしい)」
そして次の言葉にはなにか哲学的というか、全宇宙の本質が隠されているのではないかというフレーズがあって、これはより強く頭に刻み付けられた。
「(乱雑に向かう)エントロピーの増大は不可逆であり、常に増大の方向に進み、それは時間が一方向(過去から未来へのみ)にしか向かわないことと一致する、言い換えればエントロピーの向きの矢印は「時間」の矢印である」
この三番目のフレーズをみて思い出すのは、二つの言葉である。一つはお釈迦様が涅槃(死)に向かう旅で、「(80歳を超えた)自分の体は、ちょうど長年使っている荷車のように、もうバラける寸前である、なんとか動かしているが、もう壊れる時が来た」
そしていま一つは源氏物語にでてくる「時はさかさまに流れない(ので老化や無常の死は避けられない)」という言葉である。
このようのに考えると三番目のエントロピーの概略的説明は、これは「老化」について言っていることではないのか?老化現象もエントロピーが本質的に関わっているのではないかと思ってしまう。
目に見えない老化現象の内部的なもの(生物的、医学的にもエントロピーの法則はあるのかどうか)は私にはわからない。しかし老化現象を目に見える外部的現象としてみると納得できる。何のことかというと身近な我が家のことである。老化による体、気力の衰え、そして先日からの腕の痛み、などでこのところ家の乱雑さ(つまり整理できなくて、ゴミ、日用品、雑貨などが机や床に乱雑に広がっている、阿波弁でいうと、ヒコズリさがしている!)が増している。これなどはエントロピーの概略的説明の一番目にも当たるんじゃないだろうか。
上にも書いたが先日、二週間くらい前から左腕の、関節痛、筋肉痛が起こっている。激痛ではなく鈍痛ないし普通の痛み程度ではあるが、痛みを避けるため本能的に腕を庇う動きをするため、左腕の自由度が低下している。原因は思い当たらない。神経痛、慢性関節炎、ロイマチスなどの、高齢者特有の完治しない宿痾じゃないかと思っている。まだ整形外科へ受診にはいっていない。これもエントロピーの増大現象の一つか、とエントロピーに責任を押し付けたくなるが、押し付けたところでなんの気休めにもならない。
ワイも後期高齢者の年齢に近づいている、お釈迦様の言うように、無理をして長年走らせてきた荷車のように、体のアッチコッチぼろぼろでようやく動いているようなものである。まさに体でエントロピーを体現しているのではないだろうか。
とまぁ、これは私なりの(たぶん科学的には間違った)エントロピーの解釈である。さて昨日でエントロピーの本は投げ出した。今日からはどっち分野の本を読もうかな。
それでも映画館での鑑賞は迫力あるし、集中して見られるから、いい映画をたまに見るのはいい。後に残る印象も家での鑑賞とはちがって大きいものがある。感動深い映画はなおさらである。
見たのは「沈黙の艦隊」、漫画が原作のようだが、昨今の波乱を含んだ国際情勢を考えながらの鑑賞はお勧めである、との映画評につられて見に行った。なるほど現代のシーバトルとはこんなものかと改めて知らされる面白さがある。しかしこの一作で完結ではなく、やはり大沢たかお主演の「キングダム」のように、次回、次々回作に続く、となっているのが、あらかじめ知らなかったせいもあり、ちょっと残念だったが、おおむね満足できる映画だった。
帰りは暗くなっていたので、映画館のあるモールの中にある食堂で、これも久しぶりに夕食にステーキを食べた。
とはいえまだまだ昼間は暑い。一昨日、ここ徳島では真夏日(最高気温30℃以上)が78日間続き史上最高記録の期間更新したといっていた。これからも30℃以上の日が続けばさらに記録更新となる。さすがに夜と朝は涼しくなったが、締め切った寝室は、まだすこし暑苦しいので、寝付くまではタイマーをかけ、まだエアコンを動かしている。熱い夏の傾向は全国、いや世界的傾向であるようだ、いわゆる地球温暖化の影響の一環であろうか。近年の炭酸ガスの増加と関連付けられるが、実のところその因果関係ははっきりしない。
日の短さや、夕づく日(斜めに射す赤っぽい陽光になる)で秋らしさは感じるが、今月は曇りや小雨、どんよりした蒸し暑い日が多く、秋らしい青空、澄み渡る秋の夜空はほとんどないようだ。
そんな中、昨日は珍しく夕方から夜にかけて秋らしい澄んだ夜空になった。間のいいことに昨夜は旧暦の8月15日、仲秋の名月であるので都合よく美しい月が鑑賞できた。昨夕六時半ごろ駅を降りて駐輪場から東の夜空を見上げると、家並のすぐ上のほうに、びっくりするような大きくて真ん丸な月が出ていて、しばらく見とれていた。写真にも撮りたかったが、宵闇が迫る夕焼けの残照や月の出は露出やシャッター時間の調整が難しい、デジカメがカバンに入っていたが、見るだけの鑑賞だけで写真に撮ることはしなかった。
今日の新聞を見ると全国的にいい「名月」が見られたようだ。昨日はスーパの食料品コーナーにも仲秋の名月にちなんだ菓子が何種類か並んでいた。シンプルな米粉の月見団子もあるにはあったが、ほとんどは月をイメージした形態に似せた求肥や餡、栗、芋などでつくられた和菓子類だった。
さいごに新聞やテレビの報じないトリビアな知識を一つご披露しよう。「仲秋の名月は必ず仏滅の日となる」、知ってましたか?
墓参りは前日までに済ましていた。彼岸の中日にはどこかお寺へと思っていたが、昨日は長距離歩ける体調ではないため、寺参りはあまり歩かなくてよい寺にした。自転車で切幡寺へ行くことも考えたが、これもかなりな距離でしかも上り道であることでやめにした。
そこで行ったのが大滝山のお薬師さん、今でこそ参拝者の少ない寺だが、明治以前はお四国札所参り(八十八か所)に出かける時には、一番に参る打ち立ての寺、いわば札所0番といってもいい寺であった。もっとも当時は「持明院」といい、今その大伽藍はなくなっているが、それを引き継いだといってもいい寺が、このお薬師さん(滝薬師)である。
向かいに毘沙門さん(毘沙門堂)もあるのでそこも参拝した。
大滝山全景
別名ヒガンバナともいい秋のお彼岸頃に咲くが、近年は残暑が長く続く影響からか、その開花は早まっている。今朝、大輪に咲いた曼殊沙華の花をみた。見渡したところ、開花はこの一輪だけで、他はつぼみだが、やがて群れた真っ赤な曼殊沙華があちらこちらに見られそうである。
この花を見ると「長崎物語」を歌ってしまう。