2022年7月11日月曜日

ここ数日のしんどさはどうだ、やがては良くなるのかな

  昨日は友人とエッとぶりの鳴門スカイラインを通って島田島の古代ハスを見に行けたし、話も弾んだのでずいぶん気晴らしになった。しかし金曜からの気持ちの落ち込みと虚脱感は紛れることなく芯の部分で消えず続いている。やはり安倍さんの暗殺がそうとう影響しているようだ。ネットで現場の瞬間の動画など見たこともそれに拍車をかけていると思う。テレビなどでは銃弾が直撃し崩れ落ちる動画などは寸前で編集されぼかされ直接は見えないようにされている。だがネットではいろいろな角度からその瞬間の動画がアップされ見ることができる。寸前まで元気に演説していたのに二度目の発砲で前のめりに崩れ落ちるように倒れている。

 「生が断ち切られるのはこんなにも瞬時でかつ容易なのか、死はまるで瞬きのように訪れるのか」

 貧富賢愚に関わらず「死」ほど平等性のあるものはない、と言うことを聞いたことがある。多分宗教書じゃないかと思うが、多病で70歳をこえ、いつ死が訪れるか、そろそろ近いと思う私である。それがそのような「死の平等性」を聞いて、暗いぞっとするほどの恐怖をもたらしこそすれ、ああ、そうでっか、死はみんな平等やから、ちょっと気ぃが癒やされまんな。とは絶対ならない。

 70歳をすぎて、私と同じ歳か少し若いくらいで死んだ有名人の訃報に対し極めてナーバスになっている。どうゆうわけか去年から今年にかけて、私と同年齢、それより若干若い有名人の死が相次いだ。その都度、ちょうどガソリンが切れかけ、エンジンがプスプスいいながら回転をとめる寸前のような終末感、これは絶対後のない、まさに一巻の終わり的なもの、終末&「無」を私は感じてきた。

 まだ気力、体力があれば、そのような暗い情感も紛れ、あるいは晴れるかもしれないが、ここ数年で、気力体力の衰えの決定的で不可逆的なこと、すなわち悪い方には向かっていくが絶対望ましい方には向かわない一本道である、ということを思い知らされた。

 常に漠然とした不安、そして抑圧され表には出ない死への恐怖は心の奥に存在しながら、それでも心が紛れたり、ひととき忘れたりして楽しめる時間もあるにはあったが、それも年齢とともに確実に短くなり、心の中に真っ黒な雲が広がる時間が長くなっている。

 そういったときに起こった安倍さんの暗殺テロである。「暗殺テロ」という言葉をマスコミなどは使っていないが(なにか定義や放送倫理があるのか知らないが)少なくとも私の心にもたらしたものはテロ(恐怖、混乱、不安、絶望感をもたらしたもの)であった。

 光を見よ、闇を見つめるな!という言葉もあるが、人生の黄昏は次第に闇が支配的になる。ロウソク(人工灯)を求め、光を作り出せば良いのだろうか、しかし闇の中、衰えた一人暮らしのジジイにはロウソクを探すのも容易でなく、付け火のマッチも見当たらず、なんとか一本見つけてもマッチを擦る手がふるえる。

2022年7月10日日曜日

島田島に古代ハスをみる

  友人の車で島田島に古代ハスを見に行った。大賀ハスと呼ばれている。



動画


 帰り、島田島スカイラインの絶景の場所に喫茶店がオープンしていたので(といっても聞くと2年にもなるらしいが、前来たときは廃屋のレストランだった)、入って眼下の内海を見ながらお茶を飲む。


2022年7月9日土曜日

池谷のレンコン畑

  去年の今頃もブログでレンコン畑をアップしたがそちらは立道駅(鳴門線)近くのレンコン畑だった。今日行ったのは池谷駅南に広がるレンコン畑である。

 池谷駅、無人駅である。


 駅跨線橋から南を見る、レンコン畑が広がる。



 紅白の蓮の花が開いている

 動画、列車の中から撮る
 

2022年7月8日金曜日

あぁ、われら西側諸国の脆弱性よ、暗澹たる気分になる

  今朝は寝苦しかったせいもあり眠り浅く気分が良くなかった。70過ぎると朝の気分の悪さは一日中続くときが多い。しんどいなぁ、と思いつつ携帯のワンセグで正午のNHKニュースをつけると間髪を入れずに飛び込んできたのが「安倍元首相、奈良市内で銃撃を受ける」との速報。驚いてそのままニュースを見ているとやがて「心肺停止状態」で病院に運ばれるとの報、そして先ほど「死亡」のニュース、なんと言うことか、気分が悪い上に、この衝撃的なニュースで地の底に引きずりこまれるような絶望感でいっぱいになった。

 なぜ、なぜ、戦前の昭和じゃあるまいし、首相を務めた人が暗殺されるって、まさかこの時代にあるとは思われなかった。好き嫌いはあるにしても日本国という大きな船の船長さんとしてのべ8年以上にわたって舵取りをしてくれた。ワイのような取るに足らない国民でも、国の船長さんとおもえばそこは頼りにしたものである。引退してからもテレビや言論誌などでよく安倍さんの主張にお目にかかっていたし、拉致問題や靖国参拝でも違う意見はあるにしても、がんばっているなぁ、となんか親しみがわいていた。それが、今日、選挙の応援演説に立っていて、まさかの銃弾で命を奪われた。はやい、早すぎる、ワイでも71歳まで生きたのに、かれまだ67歳にしかならない。ひどすぎる無念の死である。

 この暗澹たる気分、地に引きずり込まれるような絶望感、ワイだけでなく多くの人々も似たような気持ちになっているのではないか。英語に「terror」という言葉がある。一義的には「恐怖」と訳される。多くの人にたいし「恐怖」をもたらし、人々を混乱に陥れ、国民を暗い絶望に突き落とす行為は「テロ」terrorと呼ばれている。まさにワイの心を暗澹と絶望的気分にさせたのはその目的を達したことになる。

 それにしても西側の民主主義国の脆弱性はどうだ?昨日は英国のジョンソン首相がコロナ中に官邸でパーティーなどの不適切な行為があったことに対し国民から嫌われ、辞任することに追い込まれた。民主主義国では選挙によって政権が交代するのは当たり前だが、このように国民に極端に不人気となれば辞任せざるを得なくなる。日本でも選挙に関わりなくそのような状況でやめる首相が多い。日本や英国などの民主主義国では支持率を気にするゆえんである。

 そして今日、民主主義のもっとも重要な根幹の行為の選挙期間中、暗殺された。国民の前で演説し親しく接するその機会にである。だからどうしても警備に隙が出てくる。ケネディは多くの国民の歓呼に応えるためオープンカーの車上で狙撃暗殺された。民主主義国ではこのように国民と政治家とのふれあいは市井の中で大切にされる、そこを暗殺者は狙うのである。

 強権政治のロシア、一度も自由選挙など行ったことのない中華人民共和国、くじけない恐ろしい意思を持って突き進んでくるこれらの政府を我々ははたして押しとどめることができるのだろうか。ヨーロッパ大陸で戦争が起こっているときに英国は不人気で首相を交代させる、そして日本では影響力のある元首相が選挙期間中にやすやすと暗殺される。この民主主義国の脆弱性はどうしようもないのだろうか。

 「ほ~れ見てみぃ、西側の自由民主主義なんどという制度はこんなにもろいんじゃわだ、やっぱ、ワイらの国の制度の方が優れとるわ、どんどんやったるでぇ」とロシア・中国の首脳はほくそ笑んでいるんじゃないだろうか。

2022年7月4日月曜日

もどりつゆ、台風もきよる

  先月、28日に梅雨あけ宣言が出た。そのあと3~4日はお日ぃさんカンカンの真夏の暑さ、35℃越の猛暑となった。いまからこれだと、最近は秋のお彼岸あたりまで暑いのでそうすると3ヶ月近く暑い夏が続く、こりゃぁまぁ、どないなろうに。と思っていたら今週はもどりつゆのような天気がつづくそうだ。そしていつの間にやら台風4号がきよる。こっちくんのかなぁ、とおもって台風予想進路をみりゃぁ、あさってくらいにウチの真上をとうるやないかい。幸いに勢力は強ぉない、水不足が心配されていたので被害がない程度に大雨がふればちょうどいい。


 雨の中だが、先日の猛暑続きで、すっかり枯れしぼみつつあるアジサイ


 こちらは真夏の花カンナだが戻り梅雨のような天気の中しおれたようになって元気がない。

2022年7月3日日曜日

ウチに眠るセピア色の写真より

  徳島空襲のブログを書いていて、ふとある写真を思いだした。それで古いアルバムを押し入れから引っ張り出し(頁がちぎれてバラバラになったいた)その写真を探した。あった!それが下の写真である。正確な年月はわからないが、終戦近くの我が家(私が子供の時に住んでいた家)であることは確かである。「じいちゃん、ばぁちゃん、ふるばぁちゃん、お久しぶりでございます、わたしもジジイになりました、もうじき、ほっちへ行くけんな」

 写るのは祖父母と祖父の母親、つまり私の曾祖母である。小さい子供がいるが私の親父ではない、近所のこどもだと聞いているが詳しいことは知らない。わたしの親父は当時、長崎県の大村か諫早の航空隊の訓練生だったのでここにはいない。

 多分私が小学校時代の時、この古いアルバムを見て、自分が生まれる前の古い写真にたいする好奇心からいろいろ聞いたと思われる。そのとき徳島大空襲のことを聞いたことをおぼろげながら思い出した。

 我が家は鴨島町にあったので徳島からは20km離れているからもちろん被害はなかった。しかし東の空が異様に赤かったと言うようなことを話してくれたような気がする。なぜこの写真から祖父母が徳島大空襲についての話をしたかというと、この写真を見ながら私は祖父の右後ろに立てかけてある箒を逆さまにしたようなものについて聞いたのである。「これって箒ぇ?」、その説明はおおむね以下のようなものであったと思う。

 これは空襲で火災が起きたとき(焼夷弾攻撃で)、その先についているビラビラの縄か布に水をたっぷりしみこませ火炎をそれで叩いて消すのだそうである。『火はたき』と呼ばれる手作りの防火用具だそうである。それらは各家庭でめいめい作って備えるだけでなく、それを持って近隣住民全員参加の防火訓練が度々おこなわれ、隣組(町内会)のみんなと協力して火はたきをつかったり、集団のバケツリレーの訓練をしたということも話してくれた。

 人の記憶とは不思議なもので、昨日徳島大空襲のブログを書き上げそれを読み返していると、そういや、子供の時一枚の古い写真をみて空襲や防空防火のはなしを祖父母から聞いたことを思い出したのである。今まで完全にその記憶は眠っていたのに。

 このような準備や訓練も、前のブログで紹介した「徳島大空襲の手記」によると、極めて発火性が高い液体が吹き出し、爆発的に発火し、花火のように火炎が周りに飛び出す焼夷弾に対しては、日頃の防火訓練や防火用具は、ほとんど無力だったことを大勢の人が証言している。

2022年7月2日土曜日

明日は何の日 その2(徳島大空襲)

  明日は7月3日、77年前のその日、戦時下でもあり統制下の耐乏生活ではあったが徳島市では日常の生活が営まれていた。市民が就寝につく時、明日も同じような日常が繰り返されるであろうことを疑った人はいない。この日は平日の火曜日、多くの大人は明日も仕事に従事し、子供たちは学校、または学徒の勤労奉仕に精を出すことになろうと思ったに違いない。

 しかし翌朝の(4日)の朝日を迎えるころ町は一変していた。深夜から未明にかけての焼夷弾攻撃により町の中心部はほぼ壊滅、まだ炎が残っているところもあったが、木造の建物は焼失、鉄筋の建物も外壁は残していたが内部は焼けていた。一面と言っていい焼け野原になっていた。無念にも翌朝の朝を迎えることのできなかった死者が千人近く、火傷、怪我などを受けた人は数知れなかった。このころになると他の大都市の空襲による大被害も聞こえてきてはいた、徳島もやがては、と覚悟する人も多かったが、実際の空襲の受けて、まさかここまでひどいとは思わなかったのではなかろうか。3日夜から明け方近くまで絶え間なく焼夷弾攻撃を受け、人々は必死で逃げまどい、明るくなって目にする前日と比べあまりにも変わった地獄のような町の姿、黒焦げであちらこちらにころがる死体、火傷で苦しむけが人のうめき、地獄絵図がここ徳島で現実となったのである。

 市内焼失地図


 焼け野原となった市街

 今、ウクライナではロシアによる都市への爆撃が行われている、ロシアは誤爆と主張したいようだがかなり怪しい。学校、病院、劇場、ショッピングモールが攻撃され大勢の市民が犠牲となっている。悲惨なことこの上ないが、多くの日本人にとってはそれは1万kmも離れた外国の出来事、絵空事とは言わないが、テレビでよくみる紛争地域の一つを放映してるなという感覚であろう。これが死体や断末魔に苦しむ人々のリアルな映像・動画にでも接していれば現代日本人も市民生活への爆撃がいかに悲惨なものかより知ることができると思うが、ご存知のようにテレビの編集ではそのよう映像は事前にカットされ(心的な病気にでもなると思っているのだろうか)流されないので、より切迫した悲惨な映像はあらかじめ除かれている。

 徳島の(特に若い人に)市民への爆撃がいかに悲惨なものになるかを知るには、何も1万kmも離れたウクライナの都市を例に出すより、我々が住しているこの土地で77年前に起きた徳島大空襲のことを知ってほしいとおもう。しかしほとんどの人はそれを知らないし、また「徳島大空襲」というのを言葉として聞いても、それについて詳しく知ろうとはしない。現代の人々は戦争で亡くなった鎮魂の日そして悔悟の日として8月15日を記念し、悲惨だった戦争についてあれこれ考える。しかしこの徳島においては戦争の最大の荒廃・犠牲のピークは7月3~4日であったのである。徳島の人としてはもっと知られかつ偲ばれて良い日である。

 私は昭和25年度生まれであるから空襲の体験はない。しかし、直接体験している人があれば話を是非聞いて徳島大空襲がいかなるものであったかその口から聞きたいと思っていた。しかし空襲時、物心がついた小学生であっても、今生きていれば85歳以上となる。先日知り合いの母親で、長寿で元気でいる人に徳島大空襲のことを聞いた。しかし当時は徳島近郊とはいえ郊外の村だったところに居住していたし、小学校低学年であったため「市内の空が真っ赤になり、滝のように落ちる火花(焼夷弾が)が多量の花火みたいななぁ~」との感想しか聞けなかった。本当に火炎地獄のような市内中心地にいておそろしい体験を刻んだ人はほぼ死に絶えた。

 しかし徳島大空襲とはいかなるものかもっと知りたいという私の欲求に答える手段は今でもある。図書館の古い蔵書から探した一冊が左記の本である。今から51年前、昭和46年に出版された。約60人の実際に被災された方が書いた、あるいは口述筆記の「体験談」である。登場する人はごくごく普通の市井の人、商業の人もいれば勤め人もいる、主婦、隠居さん、公務員・教師、通信運輸関係の人、などなど、要するにほぼすべての分野を網羅して話を集めてある。戦災当時50歳、60歳を超える人でも昭和46年当時はまだまだ活躍していて生々しい体験談を述べている。大方の人は自分の体験など文章にしたことのない人である(そのため口述が多い)。それだけに素朴な文、方言を交え、体験したことを述べ、感じたことを直截に自分の言葉で述べた訥々とした文章に真に迫る臨場感を感じた。

 体験談のどれにも当時すんでいた現在もほぼ同じ地名が残る住所、そして本名が記載されている。77年前に市内で生活していた私の大叔父、大叔母、あるいは親戚の名前がその中にみられても不思議ではない、そう思わせるくらい同じ方言をしゃべり、共通の地方色をもった人々である。しかし本名を見たところ私の親戚はいない、しかし郷土の体験談だけあって私との意外なつながりも発見できる。以下はその一つ

 焼夷弾攻撃は火災を起こすだけではない、なんと徳島中心市街地に354,664本も焼夷弾が上空から落ちてくるのである。その数と市街面積をおもうと密集して落ちているのである、そのため焼夷弾が人に直接当たる確率は高かった。直撃すれば多くは即死した。頭にあたり、まるで噴水のように脳漿が流れ落ちる人もいた。体験談中、直撃を受けたが肩に当たり即死を免れた人がいた、しかし腕は大きく損傷を受けちぎれそうなぶらぶら状態、それでもなんとか応急手当を受け、避難した先がなんと私が子供の時祖父母と住んでいたウチのすぐ近く、そして急いでみてもらった医師が私が小児のときお世話になった同じ先生だった。その方、壊疽を起こしかけ腕切断も一時は決断したが家族の必死の介抱(貴重な氷を手に入れずっと冷やし続けたそうだ)で半年間の療養のあとようやく肢体無事のまま危機を脱したそうである。もしウチの祖父母が生きているときならばこの人のことをよく知っていたと思う。これはわたしと意外なつながりを感じさせるエピソードであった。

 本の出版の昭和46年当時なら、あ、これ私の親戚、あるいは知ってる人じゃ、と思いながら我がことのように思い読んだ人も多かったと思う、しかし半世紀以上たって直接知る人がほとんど絶えた今、本から想像力を駆使してこの悲惨さを(本の上だけだが)知らなければならない。

 それにしてもこのような都市の一般住宅密集地の焼夷弾による絨毯爆撃は人道上目に余るものがある。東京下町では周りからまるで取り囲むように最初に焼夷攻撃をしかけ、火炎が取り巻き、人々が逃げられないようにしてからくまなく絨毯を広げるように、焼夷弾で人も家も焼亡させていった。まったく信じられないような鬼畜の行為である。いったいどんな理屈、どんな意思でこのようなことを行い得るのだろうか。

 都市に住む無辜の住民に対する無差別爆撃の最初は1937年、スペイン内乱時においてフランコ政権を助けるためイタリアとドイツのファシスト党がスペイン北部にある小さな町「ゲルニカ」であると言われている。第一次世界大戦の時の初期の飛行機は布張りの双葉機で小さく馬力も弱く、積載量もうんと少なかった、飛行機から操縦士がレンガを落として地上の敵を攻撃したというような嘘のような本当の話がある。しかし戦闘が激しくなるにつれ航空機の攻撃力は格段に進歩し、すぐに機関銃を備え、また小型爆弾を航空機から落とせるようになる(初期は操縦士が手で小型爆弾をつかみ目測で落としていた)。そして第一次世界大戦が終わり、ナチスドイツが再軍備を行う1930年代になると、空襲で爆弾を目的地に落とし破壊することに特化した「爆撃機」が現れる。その目的地が都市に選ばれたとき(ゲリラ、パルチザン掃討という名目はあったにせよ)それが都市無差別攻撃になったのである。史上初といわれる「ゲルニカ爆撃」である(ピカソがこれに怒り、有名な作品ゲルニカを書いたのは有名な話である)

 日本軍も都市無差別攻撃については拭えない汚点を残している。1937年から始まった日中戦争で中国の首都南京を落とし、これで停戦かと思いきや蒋介石政府は奥地の重慶に逃げそこを拠点に戦争を継続する。そこで日本軍は爆撃機を用いて重慶爆撃を行ったのである。それが無差別都市爆撃となり、あちらの言い分では1万余の民間人が死んだことになっている。これについては日本人の私として弁護するつもりはない。戦争行為だから軍人やゲリラ、パルチザンなどが死ぬのは仕方ないとしても民間人への無差別行為は許されるべきではない。ただ初めから無差別都市攻撃を意図したかは疑問がある。

 ここで「無差別都市攻撃」という言葉が出てきたがちょとそれについて考えたい。無差別都市攻撃の反対概念は何だろう?それは「精密爆撃」である。ピンポイントで軍事目標を狙えればそれに越したことはない。しかし今の進んだ軍事技術の粋である誘導ミサイルでも誤差は出るしピンポイントとはいえある範囲の円形の誤差はある。まして当時の日本軍の重爆撃機とは行っても爆弾は自由落下させるのである。航空機の高度そして飛行速度、機体の向きのベクトル、そればかりか飛行機から地上までの風向、風力を知り、それらを瞬時に計算して落とすタイミングを計らねばならない。それでは精密爆撃は可能なのか?結論から言うと一応いろんな変数を考慮しつつ爆撃しても誤差は数百mにもなり、精密爆撃にはならず、事実上家屋の密集する都市攻撃においては民間家屋民間人を巻き込む無差別爆撃となってしまうのである。日本軍は重慶の蒋介石政府の拠点を狙いたかったが結果として無差別爆撃となったのである。

 これは日本本土にたいするB29爆撃機攻撃についても同じことがいえる。若干の人道的配慮もあったし、何より日本の航空機産業、軍事産業をたたくのが第一義であったためアメリカ軍も最初は「精密爆撃」を意図していた。当時としてB29は最新鋭の超一級の大型爆撃機で機内にある爆撃標準器も上記の変数を入れれば即座に標準器のスコープの十字状に目標位置が目視で出て、それにあった時点でスイッチを押せば精密爆撃の爆弾が(理論上は)目的地に落下していくはずであった。しかしやはり日本軍と同じようにそれを使っても精密爆撃はかなり難しく、また高射砲などの反撃を避けるため1万メートル上空を飛んだとき経験したことのない強風に遭遇し(ジェット気流である)、超高空からの精密爆撃は極めて難しいことがわかった。結局難しい精密爆撃よりより安易な都市無差別攻撃(それも民間家屋を焼失させる焼夷弾爆撃)を選ぶようになる。

 都市無差別攻撃について、いまだにアメリカ人のいう理屈は次の通りである、その1、日本人は女性子供の別なく町中で兵器を作る作業に従事していてどこどこが軍事工場でここは民間地区だという区別はない。その2,重慶爆撃のように無差別爆撃を行ったのは日本の方が先であり、また真珠湾攻撃のような卑怯な攻撃をおこなった日本人に対し軍人民間人の区別なく懲罰すべきだ。その3,あくまで戦争邁進に突き進む狂信的な日本人を止めるのは都市を焼き払い厭戦気分を起こさせる以外にない。その4,確かに民間人は無差別爆撃で多数死んだが、それによって終戦が早まったのは事実で、これは戦争が続けばさらに増えるアメリカの軍人だけでなく、一般の日本人の命も多数救ったことになる(これは原爆投下正当化の理屈と同じである)

 このアメリカの理屈、どうだろう?とても納得できるものでない。戦争とは敵も味方もこのような理屈を打ち立てるのである。

 B29戦略爆撃機の搭乗員も家に帰ればおそらく善良な人々であったであろう。どんな理屈であれ、かれが弾倉のハッチを開き、投下のスイッチを押せば、下にいる普通の女子供が死ぬことは想像できぬことではないはずである。しかし高空からの爆撃はそのようなリアル感を喪失させる。ドローンによる自走爆撃をパソコン上で見ながらまるでテレビの戦争ゲームのように人が死ぬが現代の戦争であるが、高空の飛行機上からの爆撃はまさにそれと同じようなものである。飛びながらボタンを押すだけ、B29戦略爆撃機の搭乗員は多数の人を殺したという重みは感じないですむ。もしチクリと良心が痛んだとしても先ほどの四つの理屈がアメリカの飛行兵士の大義となりそれ以上の苦悶からは解放される。

 無差別都市攻撃でなくなった無辜の人々に我々はなんといって鎮魂したら良いのだろうか私にはわからない。広島の鎮魂記念碑に「過ちは繰り返しませんから、安らかにお眠りください」とあるが、いまでも過ちはなくならずに繰り返しているではないか、そもそも人として存在する以上過ちは永久になくならないのではないかと疑念がわいてくる、碑の文字もむなしく響く口先だけの言葉のように私には思える。