昨日は友人とエッとぶりの鳴門スカイラインを通って島田島の古代ハスを見に行けたし、話も弾んだのでずいぶん気晴らしになった。しかし金曜からの気持ちの落ち込みと虚脱感は紛れることなく芯の部分で消えず続いている。やはり安倍さんの暗殺がそうとう影響しているようだ。ネットで現場の瞬間の動画など見たこともそれに拍車をかけていると思う。テレビなどでは銃弾が直撃し崩れ落ちる動画などは寸前で編集されぼかされ直接は見えないようにされている。だがネットではいろいろな角度からその瞬間の動画がアップされ見ることができる。寸前まで元気に演説していたのに二度目の発砲で前のめりに崩れ落ちるように倒れている。
「生が断ち切られるのはこんなにも瞬時でかつ容易なのか、死はまるで瞬きのように訪れるのか」
貧富賢愚に関わらず「死」ほど平等性のあるものはない、と言うことを聞いたことがある。多分宗教書じゃないかと思うが、多病で70歳をこえ、いつ死が訪れるか、そろそろ近いと思う私である。それがそのような「死の平等性」を聞いて、暗いぞっとするほどの恐怖をもたらしこそすれ、ああ、そうでっか、死はみんな平等やから、ちょっと気ぃが癒やされまんな。とは絶対ならない。
70歳をすぎて、私と同じ歳か少し若いくらいで死んだ有名人の訃報に対し極めてナーバスになっている。どうゆうわけか去年から今年にかけて、私と同年齢、それより若干若い有名人の死が相次いだ。その都度、ちょうどガソリンが切れかけ、エンジンがプスプスいいながら回転をとめる寸前のような終末感、これは絶対後のない、まさに一巻の終わり的なもの、終末&「無」を私は感じてきた。
まだ気力、体力があれば、そのような暗い情感も紛れ、あるいは晴れるかもしれないが、ここ数年で、気力体力の衰えの決定的で不可逆的なこと、すなわち悪い方には向かっていくが絶対望ましい方には向かわない一本道である、ということを思い知らされた。
常に漠然とした不安、そして抑圧され表には出ない死への恐怖は心の奥に存在しながら、それでも心が紛れたり、ひととき忘れたりして楽しめる時間もあるにはあったが、それも年齢とともに確実に短くなり、心の中に真っ黒な雲が広がる時間が長くなっている。
そういったときに起こった安倍さんの暗殺テロである。「暗殺テロ」という言葉をマスコミなどは使っていないが(なにか定義や放送倫理があるのか知らないが)少なくとも私の心にもたらしたものはテロ(恐怖、混乱、不安、絶望感をもたらしたもの)であった。
光を見よ、闇を見つめるな!という言葉もあるが、人生の黄昏は次第に闇が支配的になる。ロウソク(人工灯)を求め、光を作り出せば良いのだろうか、しかし闇の中、衰えた一人暮らしのジジイにはロウソクを探すのも容易でなく、付け火のマッチも見当たらず、なんとか一本見つけてもマッチを擦る手がふるえる。
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