第二次世界大戦を知っている人は非常に少なくなった。そのため戦争とはどんなものであったかを知る人に聞くこともできなくなっている。残されるのは当時の文献、日記、限定的ではあるが映像フィルムなどであり、それを通じて我々は理解する以外にない。第二次世界大戦が「歴史」になるというのはそういうことだろう。
「歴史」を知るには本や写真、文献資料も大切であるが、当時に生きた人が直接手にした歴史遺物に触れることはそれ以上に重要である。だから博物館にはそのような歴史遺物が展示されている。徳島にも博物館があり歴史の勉強におおいに参考になっているが「戦争の遺物」は少ない。日本以外の国ではたいてい「戦争博物館」のようなものがある。しかし日本は永久に戦争を放棄すると誓ったためか「戦争博物館」などはない。それに近いのは靖国神社の「遊就館」といわれている。
この徳島でそれに似たものが護国神社にある。「徳島戦没者記念館」である。そこには太平洋戦争の戦争遺物が展示されている。護国神社という立地上なにか右翼的なイデオロギーに基づくものかと誤解されるかもしれないが、決してそのようなものではない。戦争についてのパネル表示の図や説明は客観的であり、当時の遺物も展示され丁寧に解説が加えられている。
下はパネル表示と戦争当時の遺物
しかしもっとも大きな部分を占めるのは、可能な限り集めた県内の戦没者の一人一人の写真である。市町村別に並べられていて、個々の写真には名前・享年と戦没年・戦没地のキャプションがついている。
広大な護国神社には人っ子一人なく、真夏の太陽が照りつけ、蝉時雨も聞こえているが寂寞とした雰囲気が漂っている。境内の記念館の前の芝生には「戦没者を見送る家族像」がある。残された老親、そして幼子を抱えた妻、みんなじっと悲しみに耐えているように見える。なんか悲しくなってくる。戦後五年以上もたって生まれた私は当然戦争遺児ではない。しかし、私の子供の頃は「恩給」をもらっている戦争未亡人もたくさんいた。私の知っていた未亡人は3人の子供を育て上げた。恩給だけでは足りなかったのだろう、日銭がかせぎる「失対」(しったい)に出ていた。「失対」が失業対策事業の略と知ったのは後のことで、内容は土木のおんな人足のような仕事だった。
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