2012年8月16日木曜日

花火で送り火


 一か月ほど前、スーパで買い物をしたら

 「これ、サービスに差し上げています。どうぞ」

 といってこんなものをくれた。

 今日は我が町の阿波踊りの最終日であるとともに送り火で先祖の御霊を送る日だ。京都の大文字山の送り火(大文字焼き)も今日だ。
 9時前に鴨島駅前に行って少し踊りを見た後、家に帰って、以前もらった花火があることを思い出し、送り火代わりに花火をした。

 派手な花火より


 線香花火が『送り火』にふさわしい。

休み明け

 薄明時、蜩(ひぐらし)のカナカナという侘しい声を聞きながらブログを書いています。

 5日におよぶ休みも終わり今日からまた訓練再開です。休みが多いのはいいのでしょうが、休み明けのどうしようもない気分の落ち込みは困ります。

 何度も夜中に目覚め、4時過ぎればもう寝られません。早朝起きて、シャキッとしててきぱき行動できればいいんでしょうが、ぼんやり過ごす時間が多いです。老化・衰えをひしひしと感じています。

 年齢にあわせライフスタイルをかえなければならないのでしょうが、まだ慣れることはできません。体は老化の一途ですが、頭はまだ若さを追い求めているところがあります。

 これからいったいどうなるのだろうか。人生あと老・病・死が待っています。穏やかな終末を迎えたいと思います。

 朝から陰気な話になりました。

 陽気な1日を心掛け、楽しい訓練になるようにしたいです。これから昼の弁当を作ります。

2012年8月15日水曜日

8月15日津田海岸町

海を見に行こう
 ここしばらく海を見ていない。海を見たいが、以前、佐古や蔵本においてあった自転車は家に引き上げたので駅から海へと遠出するにはバスを使わなければならない。

 バス定期が使えるところを探した。津田海岸町の木材団地でバスを降り、しばらく歩けば海へ出られるので、そのコースで海を見に出発した。
 海岸町木材団地前でバスを降り、歩き出した。始発駅の徳島駅前は、嫌になるほど人や車であふれていたのに、ここでは直線道路を延々2キロ歩いても人っ子一人いやしない!車が数台通るのみである。

 曇っていて、ぜんぜん蒸し暑くない。人気がなく、ゴーストタウンのようなので、荒れ果てた荒野を突き進む感じだ。幅広い道路はさえぎるものがなく、帽子が飛ばされそうな強い風が吹きまくるもので、夏とは思えぬ涼しさである。
 20分ほど歩いて海の見えるところに出た。
 
 動画もあるでよ

2012年8月13日月曜日

雨の中でこそ踊ろう あわ踊り


 まさか、雨というのでやめたんじゃないでしょうなぁ
 雨こそ、あわ踊りにとって環境抜群です。
 大雨ならなおよろし。

 蒸し暑い夜の大雨は天然のシャワー、気持ちよい。
 みんな裸になろう。そして踊り狂おう。

 ボディーソープやシャンプーをふりかけよう。
 むくむくと泡立つ泡の中で思い思いに裸踊りをしよう。

 これがホントの泡おどり

2012年8月12日日曜日

禅問答


 未熟な学徒に真理を教えるのに問答法は有意義である。しかし、これは時間と教師の気長な善導、そして工夫が必要である。そのような回りくどい方法を排して、これが真理だと、一方的に押し付けることは教師としてはたやすいが、それでは本当に学徒が真理に達したとは言えない。

 古代ギリシャにおいても我が東洋の禅においても問答法真理・悟りに達するため教師が用いた方法である。
 古代ギリシャの哲学者、たぶんソクラテスだったと思うが、無知と思われていた奴隷相手に問答法を用いで正方形のきっちり2倍の面積を持つ同じ正方形を作図させた。教師自ら真理を教えることなく、奴隷から問答法によって真理(答え)を引き出したのである。真理を生み出す元は奴隷の中にあるのであり、教師はそれを生み出す手助けをするのみである。真理を赤ちゃんに例えるなら、産むのは母親(この場合奴隷)であり、教師はいわば産婆の役である。ソクラテスはこれを産婆術と名づけた。

 仏教、特に禅宗においても問答法は真理・悟りに導く方法であった。しかしギリシアのそれとはずいぶん違っている。
 ギリシャの問答法は、公理・定理を立て、また概念、定義をはっきりさせ、その上で論理に従って緻密に言葉を積み重ね真理に近づいていくものであった。

 これに対し禅の問答は???、意味不明の飛躍、なんでそうなるのとしか言いようのない問答がつづく。そして真理。悟りに到達する時はわずか一語の問答であってもパッとワープするように終着点に着く。

 わたしらの凡人にはちょっと理解しがたい問答となる。これを
 『禅問答』
 という。
 しかし凡人には理解できぬ高邁な問答は、おバカな問答と紙一重である。これをおちょくった有名な落語がある。
 引用しておくから是非読んでみてください。
 ここクリック

 さて、この禅問答を踏まえたうえでこれをご覧ください。先日(8月10日)の我が郷土の新聞に載った記事です。

 よくわからない木造ですが、膝の下に猫を抑え、短刀を振り上げ猫の首に振り下ろそうとしているところです。この人は禅宗のお師匠さんです。

 禅宗には公案と呼ばれる問答の研究課題のテーマが昔から多くあります。その一つ『南泉斬猫』(なんぜんざんみょう)です。私は禅宗には詳しくはありませんが、三島由紀夫の小説「金閣寺」にこの『南泉斬猫』が出てくるので有名になり、それで知った人が多いのです。私もその一人でした。

 かなり難解なテーマらしく私などは全くわかりません。

 上の記事ではネコに仏性があるかどうか言い争っていた弟子に対し無益な論争はすべきでないと戒めた、とありますが、その戒めのため、なんとこの写真の像のように

 『スッパリと猫の首を落としてしまったのです』

 老師がそれをやったのですから、かなり深いさとしの意味があるはずですが、あなたわかります?私などはこの老師に対し、慈悲の実践仏教者として

 「なんちゅうことをさらすねん!」

 と思いますが、いまだにあ~だのこ~だの後の宗教家、哲学者がのたまってますから、なにか深遠なわけがありそうです。

 そしてこの論争の時、居なかった老師の第一の弟子が帰ってきて、老師がその第一の弟子に向かってお前ならどうした?と聞いたそうです。
 そうするとその弟子は、自分のはいていた履(はきもの)を頭にのせてすたすたと山門を出て行きました。
 それを見ていた老師は

 「ああ、あの時、お前がいてくれたら、猫の命は助かっただろうに。」

 と慨嘆したそうです。

 私にとっては老師が老師なら弟子も弟子、まったくわけのわからぬ行動です。

 小説に取り上げた三島由紀夫によればこの猫はこの上なく美しくかわいい子猫あった。それは美のエロスの象徴であり、それをめぐって禅寺の僧侶たちの争いになった末、老師が迷妄をたつため子猫の首をスッパリ斬ったのである。

 そうならばわかりやすい。でもそうとすると次の疑問は、第一の弟子の履を頭にのせる行動はなに?
 う~ん、履は足に履くもの、頭に載せるのは、『倒錯』している。つまり

 「子猫をエロスの対象とするような倒錯した性欲の寺にはいられぬとすたすた履を頭に出ってたわけか。」

 昔から寺、修道院などに飼われていた豚、羊などは僧たちの性欲のはけ口として使われたとはよく聞くが・・・・
 猫では穴がちっさかろうに・・・・・

 ととと、おっと、これも禅問答!わけのわからぬ自己問答でした。お忘れあれ。

2012年8月9日木曜日

本日のやまさんの心象風景


 真夏は暑いから辛抱するんだ。曼珠沙華の咲くいい季節になったら、人生最後の旅をするんだ。だらだらと長期はいけないな。けじめをつけて10日から2週間ってとこかな。

 九州の温泉巡りがいいな。もう一度長崎の坂を歩いて、夜、山から夜景を見るんだ。いいだろうな。

 今はひたすら行と瞑想にふけり、曼珠沙華の咲く時を待つんだ。

 曼珠沙華の歌を聞いてじっと我慢のやまさんです。

明と暗のあわいに咲く二つの花


 立秋も過ぎこころなしか朝夕は涼しくなったような気がする。

 早朝列車を待っていた(私はやたらと早く駅に行く、まだ6時台である)、無人の小さな駅で、最近はホームのまわりの手入れをする人もなく、雑草がホームのあちこちに生えている。柵には、たぶん栽培のため植えたのであろう植物が、手入れするもののないまま、繁茂し、からみついている。

 元は柵のそばに花壇があったらしいが茂る葉っぱに隠れて見えない。多くの種類の多年草があったに違いないが、見たところ生存競争に勝った植物だけが葉を広げ、花を咲かせ、実をつけている。

 目立つのは朝顔である。野生化したためか花の数は数えるほとしかないが、葉っぱが葛や蔦のように混み合って繁っている。これも野生化したためだろうか、やたらと葉が大きい。

 葉の陰に隠れるように咲いている縹色(はなだ色)の小さな朝顔を写真に撮った。

 いつもこの駅では13分ほど待つ。列車を待つ間、線路ぎわをみた。線路といっても非常に小さな駅であるため対向列車のための入れちがいの分岐線がなく、一本の線路のみでそれがすぐ畑に接している。
 そこに一本だけ雑草の花が咲いていた。去年の夏にも取り上げた月見草(ホントは白い品種なんだけど)である。
 夜暗くなると咲き、朝日とともにやがてしぼむ夜の花である。

 まだ夜の名残を味わっているのか、朝日を恥じらうことなくポッカリ咲いているが、日とともにしぼむ花である。

 片や朝日に咲く花、片や朝日とともにしぼむ花、花どうし、顔を合わすこともないと思ったが、明と暗のあわい(間)のこのひと時、二つの花を同時に咲かせ見せてくれる。

 自然の絶妙さには感心するばかりである。