朝、庭へ出ると、ちょうど地平線から朝日が昇るところだった、午前5時43分。天気予報では今日は快晴、最高気温は夏日以上(25℃)になるとのこと。
庭の雑草が勢いよく伸びだした。高齢になっての手での除草作業はキツイ、もう無理。除草剤を撒こうかなと考える。
朝、庭へ出ると、ちょうど地平線から朝日が昇るところだった、午前5時43分。天気予報では今日は快晴、最高気温は夏日以上(25℃)になるとのこと。
庭の雑草が勢いよく伸びだした。高齢になっての手での除草作業はキツイ、もう無理。除草剤を撒こうかなと考える。
阿南市那賀川町古津にある八幡神社の境内に足利義維(改名後義冬)さんの建立した石灯籠があるというので一昨日見に行ってきました。阿波公方(将軍家)の初代といわれている足利義維(義冬)さんですが、厳密に言うと(朝廷から)正式な征夷大将軍には任じられていません。しかし一時は泉州堺にあって京都に勢力をのばし、将軍の命令書である「御教書」などをだしていました。正式な将軍の足利義晴は京都から逃れていないこともあり、義晴に対抗した足利義維(義冬)を、各地の大名の中には彼を公方と認めた者もいたので、「堺公方」とも言われています。なお彼の父は11代将軍足利義澄、子どもは14代将軍となる足利義栄である。
古津八幡神社、思っていたより小さな神社だった。
この石灯籠が足利義維(義冬)が建立したといわれているもの
昨日、徳島城公園を横切ったが、花見の人が大勢いた。イベントも開かれていて立ち止まって見ている人、桜並木をそぞろ歩く人、桜の下の芝生で一座になって宴会をしている人、らで賑やかだった。
前のブログで足利の十四代将軍の義栄はんはわが阿波の平島荘(阿南市那賀川町)で誕生したことを紹介したましたが、終焉の地もこの阿波でありました(異説もあり摂津富田で亡くなったとも)。さらには十代将軍義稙はんの終焉の地も阿波鳴門の撫養であったといわれています。そこで昨日、天気も良いしぬくい日なのでその二人の終焉の地と言われる鳴門・岡崎あたりを歩いてきました。
足利将軍家は徳川将軍家と同じく15代まであります。中には在位が短く、幼少で亡くなったりした将軍もいて影の薄い御代もありました。14代の足利義栄はんは成人して将軍になったのですがその在位は短くわずか8ヶ月、織田信長と足利義昭連合に攻められながら、病死したと伝えられています。
そして少しさかのぼって10代の足利義稙はんはなんと二度も将軍宣下を受けたこともあり、通算30年余りにわたって将軍位を11代の義澄はんや12代の義晴はんと争ってきました。だから京都にいた時より、全国各地の大名をたよって流浪していた時期が長く、世に「流れ公方」と言われています。そして最後に流れ着いて死去したのがこの阿波の地でした。
そのお二人の終焉の地は鳴門(撫養)の岡崎ではないかと言われています。ただし、現在、その確たる遺跡・遺物はなく、歴史的にきちんと証明されたものではありません。義栄はんは摂津富田かもしれないという説もあります。義晴はんは阿波撫養でなくなったことはほぼ間違いなかろうといわれています。
鳴門の岡崎は中世の時代、畿内から海を渡って阿波に入る玄関口でした。その岡崎には海岸を見下ろすように小山の妙見山があり、要所であるため山には城や砦、麓には館が築かれていました。将軍お二人の終焉の場所はその城あるいは館ではないかと言われています。伝承ではその妙見山の一峰に江戸時代は将軍塚があってその将軍の墓ではないかと言われていました。現在ではそのような墓に類する遺跡はありません。これは江戸時代に那賀川町の中島の西光寺にお二人の墓を移転したためではないかともいわれています。
下の立体地図が昨日あるいた岡崎妙見山~岡崎海岸です。黄色の楕円の域にお二人の墓が大昔に築かれていたのではないかと言われています。
①から撮った写真
②から撮った写真
③から撮った写真、岡崎海岸から撮る、赤い灯台の先の岬の向こうに「沼島」がかすかに見えている、ここは阿波に来る前に十代将軍義稙はんが短期間だが滞在したところでもある。
写真➀のあたりで人懐っこい黒猫にあう、私が声をかけると「ネウ、ネウ」と甘えてないていた。この猫、妙見山を下り、岡崎海岸を見て、妙見山の横を通っている撫養街道を帰っていると再びあった。これは!お二人の将軍の御霊が憑依した黒猫かもしれないなと、チラリと思った。
3月28日に足利将軍ゆかりの遺跡(墓)に行ってきました。下の写真が阿南市那賀川町の西光寺にある足利14代将軍義栄の墓とその父足利義冬、義冬の養父・足利義稙の墓。
14代義栄はんは、西光寺より歩いて15分の地・古津にある旧平島館で誕生した。下の写真の人工的な丘がその館跡である。
行くときはバスで行ったのですが帰りは汽車で帰りました、帰る途中の赤石駅(無人駅)の片側の山際にはほぼ満開の桜が咲いていました。
3月27日には埋蔵文化財センターで出土銭を見学しました。出土地は徳島市上八万寺山遺跡、埋められたのは鎌倉時代末期のようである。出土銭は53種・3,699枚で13kgほどある。何のために埋められたのか、あるいは秘蔵保管の目的だったのが何らかの原因で掘り出されず、忘れられたのか、今もって謎である。
石井町のいの川の土手に植えられている水仙を見てきました。水仙といっても日本原産の日本水仙ではなく洋水仙です。ニホンスイセンに比べると大輪で黄色の色が鮮やかです。土手に沿って延々2km近く植えられています。今が真っ盛りです。天気が良く風もないので端から端まで歩きました。写真ではわかりませんが水仙の甘いちょっと酔うような独特の香りが漂っていました。
東の端から撮る
西の端から撮る
今日は春分の日、先祖供養のためどこかお寺を、と思い、地蔵菩薩さまが本尊の立江寺へお参りに行ってきました。私が小ンまい時は切幡寺へ祖父母に連れられてバスで行ってお参りしていましたが、しかし切幡行のバスもとうの昔に廃止になり、また自家用車も持たない現在、列車とバスで行ける立江寺にしました。
少し手前のバス停、旧遍路道入り口で降り、江戸初期の巡礼僧「真念はん」がたどったいわゆる真念道を歩きました。椿、早咲きの桜、その他の花々が道を彩っていました。写真右上に見えている白い花は白木蓮。
立江寺
今朝は霜が降りるほど寒かったが日中は穏やかな晴天となった。城山の助任川沿いの蜂須賀桜も満開を迎えていた。すこしぶらついて写真を撮影した。
城公園の機関車展示の前にある椿のトンネルの椿も花をつけているが桜にくらべると花の数は少なく、艶のある葉っぱの方が目立っていた。
下浦駅の裏に城跡を示す表示があった。轟城跡らしいが、聞いたことのない古城名だ。ネットでみても詳しいことはわからず、城主は近藤氏ではないかということと戦国末にその居城であったらしいということだけである。下の写真のように城跡を示す石柱が数メートル隔てて二本立っているのみで、説明も何もない。
この周りを広く歩いてみたが、石垣、土塁、堀などの跡は見つからなかった。すぐ近くを飯尾川が流れているが、その土手から撮った写真が下、城跡は周囲より若干高くなっている。そばの飯尾川の流れを利用して堀をつくり、微高地を利用して城郭を作ったのだろうか。(写真の右上方土地が少し高くなっているあたり一帯が城跡)
地図(赤丸が轟城跡)
今月でガラケイ(携帯電話)のサビスが終了して使えなくなるので、しぶしぶ、いやいや、スマホを持ちました。私はワープロ時代からだともう40年ちかくもうち叩くキーボゥドに慣れ親しんでいるので、このスマホのタッチパネルは好きになれません。スゥワイプじゃの、なんたらだのゆぅて、いろいろスマホのタッチパネルの愛撫の仕方があるようですが、その愛撫というか指の力の加え方じゃの手の滑らし方の違いがよ~わかりません。二回に一回は押し間違いをしてやりなおします。先月から持ってますが、なんどブチ切れそうになって叩きつけようと思ったか。
若い衆みたいにスマホを自在に操ろうとするからイラつくもするし、癇癪も起こすのだと思い返し、とりあえず3つの機能だけで使うことにしています。「無線電話機能」「メール機能」、「ニュスと天気予報を知ること」です。
下がワイのスマホです。
今日、また翼山温泉に行ってきました。何回か行ったのですが、前から気になっていたことを温泉のスタッフの人に聞きました。
「翼山温泉というネーミングは、翼山という山にちなんでいると思うのだけれども、どの山がそうですか、温泉から見えますか?」
確かに翼山はこの引田町にある特徴的な山で、町内では温泉以外にも公民館やその他の施設のネーミングにも使われているそうである。その「翼山」という名から、多分、鳥が羽を広げた形になっているんじゃないかと思ったのですが、ネットで調べるとやはりそうでした。下はネットに張り付けてあった正面から見る翼山です。どうです、鳥が翼を広げているように見えますか?鳥と言っても、200m近い高さのある山ですから、小さな鳥ではなく、中生代にいた翼竜のプテラノドン、または怪獣映画の「ラドン」が翼を広げていると見た方がいいでしょうね。
「たしかに空飛ぶ怪獣ラドンが地上に降り立ち翼を広げているようにみえるわ」
「京都人の密かな愉しみ」といっても、国営放送でやってるドラマ『京都人の密かな愉しみ』には全く関係ありませんし、現代でもありません。だから正確に言うと「中世の京都人の密かな愉しみ」かな。もう少し時代を狭めれば室町後期、将軍でいうと12代の義晴はんか13代義輝はんの時代。
なんでそんな大昔の京都人の愉しみがわかるのか。それがわかるのです。その理解のもととなっているのが『洛中洛外図屏風』、原色で描かれた京都の町の風俗図となっているので、中世の京都人の生き様、風俗を知るうえでこの上ない史料となっています。
さてこれからその風俗図をみて「密かな愉しみ」を知ろうと思うのですが、最初に断わっておきますが、密かな愉しみといっても、「何か」に幽玄・枯淡を味わう上品な「密やかな愉しみ」ではありません。品性下作にできている私ですから、密やかな愉しみときいては、すぐ性的なことを思い浮かべましたので、率直にそちらの方を、洛中洛外図で探してみました。
今だと「性的な密かな愉しみ」なんどといえば、その半分以上は性犯罪になってしまうかもしれない。別の言い方をすれば性的な密かな愉しみは「危ない楽しみ」になってしまう。しかし、中世はそんなことはない。まぁ、これ以上ゴチャゴチャゆうよりまずは洛中洛外図よりそれを探してみましょう。
遊女との愉しみ
この一画は中世京都の遊女街である。近代でも昭和33年までは赤線があり、それまでは売春が行われていたが、以後罰せられるようになった。ただそれ以後もすぐにはなくならず、赤線地帯は違法売春地区として存在した。他所は知らないが、ここ徳島の秋〇町の場末では今もって細々とその伝統を守って営業を続けている。その伝統だが、戸口にたたずむ女、遊客を口説き落とそうとする女、しかし時としては道行く遊客を強引にひっぱってくる、そして交渉成立かはたまた無理やりか、いずれにしても室へ男を導く女の姿態なんどは、500年以上前の中世末の上記の風俗図と変わらない。
上図の遊女を見ると、どれも白粉で化粧してそれなりに美しい赤いおべべを着ているが、全員美女揃いではないようだ。客をとっ捕まえ早くも腕を回している遊女を見ると、顔も体も、男より倍以上あるのではないか。女プロレスラーにつかまったカマキリ男か。なにやら恐ろしげぇなセクスが室で展開されそうだが、そこは男と女、他人が推し量れない「密かな愉しみ」があるのかもしれない。石臼のような大女に上に乗られて責められて、ぐぇぇぇ~、苦しぃぃ、じゃがもっとやってぇ!
稚児との愉しみ
この愉しみは現在では凶悪性犯罪、幼児強姦は数十年の懲役刑、しかし中世の京都ではおおっぴらに行われていた。主に寺院の僧侶が身近に男児を弟子としてはべらせセクスの対象とした。仏教では、出家者は女性とのセクスを忌避したため、その代償として男児をセクスの相手としたという説が有力だが、武家でも稚児は性的に可愛がられたため、たんなる代償ではないだろう。主人と従者、先輩と後輩、師匠と弟子、兄貴分と弟分、なにか特別な絆を求める性的な衝動が両者にあったのだろうか。その絆は言葉や気持ちの上にとどまらず、まさに体を合一することにより高められたのだろう。
上図で先頭を行く白面の若者が後ろを行く禅宗の僧侶の稚児、つまり性的な愉しみの相手、額に銀杏形の前髪をたらすのが特徴。この幼児との性愛は「稚児灌頂」という儀式に昇華され(?)ている。その絵巻(史料ですぞ)を見たが、幼児が受け身の赤裸々な肛門性交の描写があり、本人また両人にとっては密かな愉しみかもしれないが、私も含めた他人には見たくない想像したくない密やかな儀式(愉しみ?)である。
男同士ガチの愉しみ
現代では幼児性愛はどのような条件でも許されざる凶悪性犯罪だが、成人男性同士の、相思相愛、つまり同意の上での性愛・セクスは違法でもなんでもなく、むしろ明治以降、男性同性愛が抑圧される方向にあったが、今では大いにその自由度が増している。
もちろん中世京都でも稚児愛・小姓愛ほど広まらなかったが、男同士ガチの愉しみはあった。ただこれが稚児愛・小姓愛のようにおおっぴらにできたか、また非難されるものではなかったか、については、浅学の私には何とも言えない。ただ、咎を受けるようなものではなかったことは確かである。これこそ(男同士の)「密かな愉しみ」であったかもしれない。
上図をよく見ると、男同士が手をつないでいる。先を行く男が引っ張っているようにみえる。ただならぬ雰囲気が漂っているようにも見えるが、二人の表情を見ると、嫌な表情ではない。後ろの男はむしろなにやら期待して喜びをかみしめているようにも見える。そう見ると、先を行く男は、一刻も我慢できず、せかすように、しかし、後ろの男を気遣いながら、手を引いているように見える。この辺りは大通りではなく、狭い路地である。どこかすぐ近くの目当ての家に急いでいるようだ。そこにしけこみ、間髪を入れず、むしゃぶりつくのだろう。
幼児性愛の場合、ほとんどは幼いほうが受け身となるが、成人男性ガチの性愛だと、どちらがタチ(起ちから来ている、つまり勃起の男性器をぶち込む方)か、はたまたネコ(受け身で、たいてい肛門性交だが、口の場合もある)か、はっきりしない、状況によってタチとネコが逆転したりもする。しかし上図の場合、せかしている先に立つ男がまさにタチで後ろの細面の優しそうな男がネコとみるのが自然であろう。腰にぶら下げている袋にはもしかすると「ふのり液」(海藻から作った粘り気のある潤滑剤で、これにより肛門性交がスムーズになり快感が増す)が入っているのかもしれない。これから二人だけの密かな愉しみが待っている。
青春18きっぷは昭和58年から存在する。学生の春休み、冬休み、夏休みの期間中にあわせて発売され、5回まで全国の国鉄(現在は各JR)の普通列車が終日乗り放題となるものである。
これを私が知ったのは昭和の末年(昭和63年1988年)ころだった。一日乗り放題切符が五枚がセットになっていて、8000円という安さだった。期間中はセットをばらして任意の日に五回(五枚)使えた。生来放浪好きの私には、安さといい、時刻表が許せばどこまでも(普通車だが)行くことができるし、ちょっとしたあてどのない旅をしてみたいとおもうには、もってこいの切符であった。
この年、私は38歳で、「青春18(きっぷ)」の旅というにはあまりにも薹が立ちすぎていたが、気持ちは青春18のつもりで、購入し、何日かにわたる「旅」を楽しんだ。泊まるところも安く上げるため「ユースホステル」を選んだ。最初は四国からわりと近い九州や近畿、そして40歳を迎えるころまでには、舞鶴発小樽着のフェリーと青春18きっぷを組み合わせ、北海道までの普通列車の旅を二度も楽しんだ。さすがに1セット五回のフリー切符では足りず、2セット分の青春18きっぷを購入した。それでも日本海航路の三等フェリー運賃と組み合わせで、どの方法よりも安く北海道を旅できた。
そして今、令和八年、私が使わなくなって久しいが、今でも青春18きっぷはあるにはある。しかし、五枚を切り離しては使えなくなり、5日間連続での一回使用のみとなった。これでは私の住んでいる四国からだと、九州や近畿、少し遠いが北陸、東京あたりまでは普通列車の旅ができても、北海道旅行までは無理ではなかろうか。そう考えると、いい時代に青春18きっぷを使えて北海道まで旅をしたなぁと、今、駅に張ってあるポスターを見ながら思う。
その駅ポスターであるが、今年の春の青春18きっぷのキャンペェィンポスターって、なんか見覚えあるぞ!とおもってよく見ると、これ、徳島線の穴吹川橋梁をディジェル列車が走っている写真である。遠くには剣山系の山が見えている。
もう半世紀近く前、「いい日旅立ち」という言葉と歌が一世を風靡したなぁ、ま、一度、青春18の旅をしたいなぁ、「いいぃ日ぃ~、旅立ちぃ~、過ぎ去りぃし、日々の~、夢を、叫ぶぅとぉ~き~」 しかし現実は・・・あの世への、いい日旅立ちを願う身となったわ
青春18の思ひ出1、北海道宗谷岬
青春18の思ひ出2、サロマ湖あたりの原生花園
青春18の思ひ出3、九州の山奥、某(幻のユースといわれた)ユースホステルで
今回紹介するのは三か所です。①蔵本城跡 ②蔵王権現神社 ③塩竈神社
下に地図で位置を示しておきます。
蔵本城跡
蔵本駅のすぐ裏、ほとんど鉄道敷地に隣接している。旧城跡といっても遺構は全く残っていない。と言うことは大規模な石垣や土壙、堀などはなく、田宮川の流れを堀に利用した中世の領主館のようなものだったのだろう。戦国時代の終わりとともに廃城となったようである。今はこのように祠と解説版があってこの位置が旧城跡であったと知られる。
蔵王権現神社
大きな神社ではないが、推定樹齢800年にはなろうかという大樟の神木がある。蔵王権現は修験道の神様である。
神社と大樟
塩竈神社
近年、元の位置より50mほど西に移転している。製塩や海事の神様である。ちょうど今の時期椿の花に囲まれて祠型の神社が二つある。一つは船戸神社の神か?
次の花を見てほしい。何の花かおわかりか?
拡大図
二軒屋駅の踏切のすぐそばの家から、まさにこぼれんばかりに鉄道沿線、道にはみ出て、満開に咲き誇っていた。これは「ミモザ」の花。今、私はブログで知ったげぇに書いているが、ミモザという実際の花を見たのはわずか数年前で、神山のしだれ桜を見に行っていた時、沿道に咲く黄色い花の灌木が、「これがミモザの花じょぉ」と教えられたからである。
「そうかぁ~~、これが、ミモザの花かぁぁ~」
その時、ちょっと懐かしい感慨にふけったのを覚えている。しかしその後、豪華絢爛たる素晴らしい「しだれ桜」の森を散策したため、それ以上はミモザについて考えることもなく、忘れてしまっていた。それが昨日、二軒屋駅から「ふれあい健康館」(ジジババの福祉娯楽施設のようなもの)に歩いていく途中、上記の写真にあるミモザの花を再び見たのである。
ミモザという名を知ったのは高校2~3年生の時であるからもう60年近くになる。それは雑誌『平凡パンチ』に連載されていた(北原武夫作)「ミモザ夫人」という名からであった。その時はミモザという名が花にちなんでいるとは知らなかった。雑誌連載小説であるミモザ夫人も読んだことはあるが、今までその内容が記憶に残っているものはなかった。しかし高校生の私にはかなりインパクトのある名として記憶に刻まれている。
これは内容は詳しく覚えていなくても、当時の純情な高校生にとっては読んではいけないエロティックな「官能小説」であることがわかっていた。そもそも連載雑誌の「平凡パンチ」が成人男性向けのそれも、おピンクやエロで味付けされた(エログラビヤ、桃色写真なんども多く入った)雑誌で、当然当時の高校生が読むようなものではなく、学校に持ち込み先生に見つかればかなりやばいことになるいわば禁断の雑誌である。
しかしそのような雑誌に興味津々となるのも思春期を迎えた男子高校生である。私は買ったりしなかったが、クラスの友達の幾人かは父親かまた本人が買ったのかそれを学校に持ち込み、みんなで回し読みしたりした。私も都のおこぼれに預かり、よく読ませてもらった。1960年代頃の高校生にとって、性的刺激を受けるメディアは極めて少なく、その中で平凡パンチは数少ない、気色の良い性的刺激を与えてくれるものであった。内容の写真、イラスト、文章にさえ、勃起をもたらす刺激となった。全くもって今どきの高校生が聞いたら「お笑い」にしかならないほど淡白で薄い性的刺激素材であった。その中にタイトルがミモザ夫人という官能小説があったわけである。それが私の頭にミモザと言いう名の刻まれた初めである。
エピソード