2026年4月3日金曜日

わが阿波で終焉をむかえた足利将軍お二人

 

 前のブログで足利の十四代将軍の義栄はんはわが阿波の平島荘(阿南市那賀川町)で誕生したことを紹介したましたが、終焉の地もこの阿波でありました(異説もあり摂津富田で亡くなったとも)。さらには十代将軍義稙はんの終焉の地も阿波鳴門の撫養であったといわれています。そこで昨日、天気も良いしぬくい日なのでその二人の終焉の地と言われる鳴門・岡崎あたりを歩いてきました。

 足利将軍家は徳川将軍家と同じく15代まであります。中には在位が短く、幼少で亡くなったりした将軍もいて影の薄い御代もありました。14代の足利義栄はんは成人して将軍になったのですがその在位は短くわずか8ヶ月、織田信長と足利義昭連合に攻められながら、病死したと伝えられています。

 そして少しさかのぼって10代の足利義稙はんはなんと二度も将軍宣下を受けたこともあり、通算30年余りにわたって将軍位を11代の義澄はんや12代の義晴はんと争ってきました。だから京都にいた時より、全国各地の大名をたよって流浪していた時期が長く、世に「流れ公方」と言われています。そして最後に流れ着いて死去したのがこの阿波の地でした。

 そのお二人の終焉の地は鳴門(撫養)の岡崎ではないかと言われています。ただし、現在、その確たる遺跡・遺物はなく、歴史的にきちんと証明されたものではありません。義栄はんは摂津富田かもしれないという説もあります。義晴はんは阿波撫養でなくなったことはほぼ間違いなかろうといわれています。

 鳴門の岡崎は中世の時代、畿内から海を渡って阿波に入る玄関口でした。その岡崎には海岸を見下ろすように小山の妙見山があり、要所であるため山には城や砦、麓には館が築かれていました。将軍お二人の終焉の場所はその城あるいは館ではないかと言われています。伝承ではその妙見山の一峰に江戸時代は将軍塚があってその将軍の墓ではないかと言われていました。現在ではそのような墓に類する遺跡はありません。これは江戸時代に那賀川町の中島の西光寺にお二人の墓を移転したためではないかともいわれています。

 下の立体地図が昨日あるいた岡崎妙見山~岡崎海岸です。黄色の楕円の域にお二人の墓が大昔に築かれていたのではないかと言われています。


 ①から撮った写真


 ②から撮った写真


 ③から撮った写真、岡崎海岸から撮る、赤い灯台の先の岬の向こうに「沼島」がかすかに見えている、ここは阿波に来る前に十代将軍義稙はんが短期間だが滞在したところでもある。


 写真➀のあたりで人懐っこい黒猫にあう、私が声をかけると「ネウ、ネウ」と甘えてないていた。この猫、妙見山を下り、岡崎海岸を見て、妙見山の横を通っている撫養街道を帰っていると再びあった。これは!お二人の将軍の御霊が憑依した黒猫かもしれないなと、チラリと思った。


 帰り撫養街道から妙見山を見る。山頂に城が見えているが、これは昭和に建てられた城をまねた博物館・記念館で中世の城や館(たて)と全く関係ありません。左の電灯ポールの横に「撫養街道・遍路道(江戸時代)関所跡」と石柱が立っている。

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