2023年8月31日木曜日

諸物価高騰、ななな!なんと12倍の値上げ

40年以上使っている「電気スタンド」蛍光ランプの寿命が尽きたようで点滅しだした。蛍光ランプは40年以上使っているわけではなく、何度か蛍光ランプだけ取り換えた。取り換えてから7年、いや10年はたつかもしれない。自分で取り外し取り換えができるので蛍光ランプを買ってくれば電気スタンドはまだ問題なく使える。

 取り換えるのは棒状の15Wのランプである。前に交換したときは百円ショップで買った。それ以前も百均で手に入れている。品質に問題なく、7~10年も使えたのがそれを物語っている。さて、それで百均へ出向いたが、無い!、違う百均の店のいくつかも探したが全く売っていない。ある百均の電気小物コーナーには「蛍光ランプの販売は終わりました」の表示が出ている。もしかして蛍光灯ランプは製造・販売中止か、ランプはLEDに代わったのだろうか、とするとこの電気スタンドそのものがもう廃物である。

 しかしランプを取り換えればまだ使えるし、愛着もある。百均以外の量販店などで売っていたらすこし高くても買おうと、何軒かの量販店へ行くと棒状の15Wのランプはあるにはあったが、値札をみて、おぶけた!なんと1280円、まえに百均で手に入れた値段の12倍である。結局買うのはやめた。もう十分使った電気スタンドはお払い箱となる。

 棒状蛍光ランプの12倍の高騰というのは、LEDランプの普及にともなって絶滅寸前になった棒状蛍光ランプの需給状態のゆがみからきているので、特別に高騰したのだろうが、それほどではなくても庶民の味方、百均ショップでも値上げ(定価は百円だが減じたり劣化させたりしての実質的値上げ)が目に付く、袋に入ったものの内容量は著しく(中には半分減ったのもある)少なくなり、数が減ったのや、小ぶりになったもの、またよりチャチいものに劣化したのがほとんどである。中には100円では引き合わなくなったのか、もう扱わないグッズもあるし、そして百均とはいいながら、300円。500円、1000円の値札のあるのもある。これなどをみると

 「百均ショップって、ホントに安いのかしらん」

 と疑問に思ってしまう。

2023年8月29日火曜日

晩夏とスーパーブルームーン

  あと数日で九月だが、まだまだ暑い。さすがに猛暑と定義づけられている35℃以上の日はなくなったが、毎日のように33℃~34℃の最高気温が続いている。それでも朝夕涼しくなったし、日影も延び、日差しもこころなしか柔らかさを増したこの頃は、夏の終わりを感じさせる。まだ秋というには暑いが、このように夏の衰えを感じさせる今日この頃を「晩夏」と呼んでいる。

 最近、ここ徳島でも稲刈りが早まっている。私の子供の時の稲刈りは秋も深まりつつある頃だったが、今は八月下旬に稲を刈るところが多い。「稲刈り」は秋の歳時記の季語だが、今では「晩夏」と「稲刈り」が矛盾なく同じ時期の季語としておさまる。

  苅田(私の家の近く)



 明日30日は旧暦のお盆(陰暦7月15日)である。陰暦の15日はだいたい満月だがこの月の満月は一日だけずれていて明後日の31日(陰暦16日)となる。この日の満月は月と地球の距離が近くなるため(楕円軌道のため)、とりわけ大きくなる。最大で大きさは約14%増し、明るさは約30%増しになるそうである。今年最も大きく、もっとも明るくなる。このような大きな月を「スーパームーン」と呼んでいる。そして明後日の満月はまた「ブルームーン」でもある。ブルームーンとは、私も誤解していたのだが、月がブルーっぽく色づいて見えるのではない。同月(つまり今の8月に)満月が二回あるとき、後の満月をブルームーンと呼ぶのである。つまり明後日の満月はスーパーにしてブルームーンなのである。天気が若干心配だが、明後日の夜空には大きな月が見られるはずだ。

2023年8月22日火曜日

提灯と旧盆


  友人の親が最近亡くなったので友人の家では今年は初盆になる。先日友人の家を訪問した時、美しい絵柄の吊り提灯がぶら下げてあった。昔から「初盆の提灯」と呼んでいたが、このような提灯は一般的に何と呼ぶのか、前のブログで紹介したモラエス著「徳島の盆踊り」の中にこのような提灯を『岐阜提灯』と呼んでいる。モラエスさんの説明によれば、「美しい卵型をしたちょうちんで、花鳥風月を巧みに描いて、きれいに飾ったもので、死者の魂を案内して、この世に残した家庭に導くものです」とある。暗くなって友人の家をお暇するときに見たが、たよりないろうそくの光(ろうそくを模した電池の豆球なのだが)で絵柄がぼんやりと浮かびあがっている。なるほど、御霊を迎えるにふさわしい幻想的かつ神秘的な雰囲気の提灯だなとおもった。


 我々の生活から提灯が実用から遠ざかって久しい。七十数年生きてきたワイの小ンまいときでも、闇や夜道にはすでに懐中電灯が用いられていた。だから提灯は飾り(祝儀、不祝儀)しかしらない。時代劇なんどで提灯が夜道の照明用に使われていたのを見るくらいである。さきほど美しい絵柄の吊り提灯は「岐阜提灯」と名付けられていたが、江戸時代夜道に携行する提灯は何というのか、以前聞いたことがあったのを思い出すと「ブラ提灯」と呼んでいるようだ。調べると確かにそうだ。ぶらぶら揺れるからブラ提灯なのだろう。

 時代劇でこのブラ提灯を持った人が出てくると、だいたい辻斬りや闇討ちにあうシーンが多い。そして惨殺がなされ、ブラ提灯が地に落ちて燃え上がるシーンが印象深い。そうそうそんな時代劇のシーンを思い出していると、また違う提灯の種類が思い浮かんだ。このようなシーンである。ブラ提灯を番頭か手代が持って先導している後ろには、駕籠に乗った店の大旦那が乗っている、そこで襲撃となるのだが、駕籠には提灯がぶら下がっているが、円筒形の特異な提灯である。これは「小田原提灯」である。前二者の岐阜提灯、ブラ提灯を知らない人でも小田原提灯の名は聞いたことがあるだろう、童謡「おさるの駕籠屋」に出てくるためである。

 みんながよく知っている提灯の種類にはもう一つある、もっとも○○提灯という名ではなく「回り燈籠」あるいは「走馬灯」いう呼び名で知られている。飾り灯篭の一種だから今でも吊るす場合がある。見たことのない人でも走馬灯云々の言葉はよくフレーズ中に使われる。映る絵柄がクルクル繰り返される、そして追う人が追われる人になる、その果てしなく動く影絵を見ていると何か不思議な気分になってくる。この走馬灯も夏の夜、盆の宵、というイメージがある。この走馬灯(回り燈籠)は飾り燈籠なので、必ずしも亡者の供養のためではないが地方によっては追善のためにつるす場合もあるようである。


 ここ徳島では提灯として現代も需要が多いのは「阿波踊りの提灯」である。踊り連の前を行く提灯には連の名前が入っている。立てた竹竿の上に提灯を二つ並べ、高く掲げた男衆(おとこし)が先頭きって練り歩くのである。調べると「高張提灯」が正式名称である(提灯一つの場合が多いが)、大昔を知るものとしてはこれが阿波踊りの提灯であったが、今はそれに加え踊り子の個人の手持ち提灯も一般的になってきた。これも正式名称は弓張提灯であるが、阿波踊りの手持ち提灯として普通に呼びなれている。特に動きの激しい男踊りには、弓の弾力で提灯を引っ張っていて揺れないから、持って踊るのに都合がよい。

 いろいろな提灯あふれる阿波の盆の夜はすぎさった。しかし何百年にもわたって行われていた旧盆はまだ去っていない。モラエスさんの随想に出てきた大正四年の旧盆の15日は太陽暦では8月25日になる。今年令和5年の旧盆の15日は、8月30日となる。これから旧盆をむかえる。「それでどうしたの?」といわれそうだ。もう今や旧盆で盆行事をする人もいまい。神社仏閣でさえ今の盆(月遅れの15日)で行事を行っている。旧盆を知ったところで無意味であろう。それに普通の人は旧盆の日を知ることもない。暦や占いに興味のある人が買っている「高島暦(暦注)」の日付の注に小さい字で「旧盆」と書かれて、それで認識する。

 しかしなにも暦注の本を見なくても、我々が旧盆を知ることは普通にできる。旧暦でも一年は12ヶ月であり(まぁたまに閏月もあるが)、そして秋を3ヶ月にあてると、それぞれの月は初秋月、仲秋月、晩秋月となる。その初秋の満月が旧盆の15日にあたる、だから初秋、つまり立秋をすぎて夜空を見ていると月がだんだん膨れてきて十三夜から満月になるころが旧盆の期間である。つまり夜空の月を見ると旧盆はわかるのである。

 昭和九年のポスターが残っている(下図)。文字が右から左へと書かれているのと「をどり」の旧仮名づかいがレトロな時代の雰囲気を醸している。このころは旧暦で盆踊りをしていた。この年の旧盆15日は8月の24日がそれにあたる。そして注意してもらいたいのは、左上に大きな満月の明かりが見えていることである。旧盆は満月であることがよくわかる。

 今日夕方、西の空をみあげると五日月(三日月より少し厚みがある)がみられるが、月末が近づくにつれだんだん膨れてきて満月となる。そのころが旧盆となる。静かな環境で亡き人を偲びたいのであれば、旧盆のころがふさわしいかもしれない。さすがに八月末ともなれば、夜には涼しい風も吹くだろう。また盆などという観念をはなれて、初秋の月を愛でるのもいいかもしれない。

2023年8月20日日曜日

モラエスさんの『徳島の盆踊り』を読んでわかること

  モラエスさんの著作『徳島の盆踊り』は大正3年から大正4年の徳島の「盆」(方言ではボニとも)について書かれている。外国人の目から見ているので、同時代の徳島の人がみて当たり前すぎて書いていない(つまり見落とされている)ようなことについても書いている。その幾つかを取り上げようと思っている。

 まず、盆の時期であるが今とは違っていて八月の下旬になっている。というのも110年前の大正時代は盆は旧暦で行っていたのである。大正四年の盆、すなわち旧暦7月15日はこの年の太陽暦では8月25日となっている。ので以下旧暦の表示は月に一ヶ月、日に十日を加えると太陽暦の日付となる。

 モラエスさんは「盆」を死者の祭りととらえていて、大正四年の7月12日と13日(陽暦8.22日、8.23日)は墓や仏壇の先祖供養を行うこと、そして14,15,16日(8.24~26日)は「ぼんおどり」が行われたことを書いています。まず先祖供養は12日の数日前から墓参りをして墓を洗ったり、花をかえたりして墓を清浄にすると述べています。モラエスさんは先祖の霊は各家庭へ行く前に墓で休息するので、と書いています。そして続いて13日(8.23日)は死者の霊はその家族とともに静かだが楽しく過ごし、そのため家庭の祭壇である仏壇を美しく飾りあの世からの賓客をもてなすためごちそうを美しくて小さな器に盛り、またもてなしのお経を読むため、お坊さんや尼さんが各家庭を訪問すると書いています。これは110年たった今でも(日は違うが)やっていることです。

 あれ?と意外な記述もあります。13日(8.23日)の夜まで霊は家族と楽しく過ごした後、その夜、帰るとあります。その夜はかがり火を焚いて(送り火)死者の帰り道を照らすとあり、所によって川や海の近くでは小さなおもちゃの船に火を灯しながすとあります(灯籠流しでしょう)。今日では新暦で行う月遅れの15、あるいは16日に送り火や灯籠流しが行われるので、大正初めのここ阿波では13日に早くも霊を送り出すのかなと思いました。これは当時の風習としてそうだったか、モラエスさんの記述が合っているかどうかはわかりません、モラエスさんの思い違いか、あるいは当時の徳島ではそうだったのか、これは確かめるまでは疑問のままです。

 モラエスさんの記述では盆まつりは前半の「死者のまつり」とその後に続く後半の「生者のまつり」とに区切っています。生者のまつり、すなわち「ぼんおどり」です。ここ徳島では特に(大正時代から)有名であると書いています。つづく14、15,16日がそうです。大正四年の新暦では8.24,8.25,8.26日です。ただし時々台風で中止されることがあると書いています。しかし大正四年は運良く開かれています。

 踊りの姿態についても書かれています。女性の衣装についての記述がほとんどです。なかにはめずらしい色染めのキモノや絹地を身につけ、鳥追い笠や昔の白拍子のかぶった青い麻の笠で深く顔を隠しているものもいる、と書いています。今のようにユニホーム的な同一の浴衣ではなく、思い思いの派手な衣装を身につけていいたことがわかります。また鳥追い笠を被っているのもいるし、白拍子のような笠もあると書いてますから、今女性の被り物はほとんど鳥追い笠一色になりましたが当時はいろいろな被り物を女性はつけていたのでしょう。いずれの笠も深く顔を匿していたようで、今のように鳥追い笠を上に跳ね上げるように被り、顔全体が見えるのとは違っています。


 踊りの様態はいろいろだったようで、今ほど画一的ではなかったことがうかがえます。鳴り物は、三味線と唄で流して踊る人たちが(ゲイシャと呼んでいる)印象深く書かれていますが、今のように騒々しい一団もあったようで、鉦や太鼓の騒々しい群れが小路からあらわれ、口々に大声で唄いながら、大勢混み合っている群れをかき分けて踊っていく、あります。これらの人々はおそらく普段着(ほとんどが単衣の浴衣)でしょう。今と通じるのは、「高く掲げた提灯」がそれらを(当時は街灯もほとんど無く暗かったので)幻想的に照らしていると書かれています。ほとんど全ての市民が踊りに参加していました。モラエスさん自身は踊ったかどうかはわかりません。(おそらく私は踊らなかったのではないかと思っています)

 彼は死者のまつりにつづいてほとんどの市民が賑々しく参加した盆踊りについて次のように書いています。

「みんな、今の今まで死者の霊と精神的に接触しあったし、楽しくて幸福であったと感じているし、遊び戯れて踊っているのですが、夜が明けて明日になると、元の日々の仕事に喜んでもどります。」

 そして彼は自分をふりかえり

「僕はそうではないのです、僕は精神的に死者と付き合わなかったし、誰も、死者の誰も話しかけてくれなかったし、心からおまつりに参加することも出来なかったのです」

 カトリック国で生まれ育ち、異教の死者のまつりと踊りだから、突き放したような覚めた印象かとも一見思えますが、そうではありません。つづく彼の記述でそれは明らかになります。

「僕は打ち明けなかったが、いたく胸を打つ悲痛な希望を抱いて死者と親しく交わろうとして、この徳島に来ました・・・」

 しかし異邦人であるモラエスさんは当時の徳島の人のように死者を身近に感じることはありませんでした。できるのは「追慕」で、それは僕を苦しめるだけだと、哀しそうに、この「徳島の盆踊り」を締めくくっています。

大正時代の徳島のぼんおどり

2023年8月16日水曜日

雨の盆踊り、やまさんの色ぼけ妄想

 


 某地方で「盆踊り」が開かれていた。ちょうどその時刻、私は図書館のパソコンブースでパソコンをしていた。道路を挟んで6階下は最大の盆踊り演舞場が設定されている。外は台風の影響で雨、今夜は中止かと思っていたが、先ほどから♪~ドンガラガッチャ、ドンガドンガ、ドンガラガッチャ、ドドン♪~、とうるさく響いてくる。

 「えぇ?この雨中でもやるんかいな」

 しばらくして6階図書のテラスから下を覗くと、なんと土砂降りの雨となっている。さすがに太鼓の音は小さくなったが、それでも♪~スッココッコ、ドスドス~♪、とちょっとコモったような打楽器の音は響いてくる。土砂降りでもしよんかい!

 さすが翌日の15日は中止となったが、この14日の雨中の盆踊りについては、今日の全国紙やネットニュースをみるとその強行に批判的な記事が載っていた(なぜか地方占有率一位を誇る我が郷土紙はあまり批判的ではなさそうである

 口の悪い「阿波雀」は

 「ド高く設定された有料観覧席の払い戻しを嫌がって強行したんとちゃぁうんえ?」

 「中止にすると損する人の声が大きいから、そっちにひこずられて強行したんとちゃぁうんでかぁ?」

 また、高齢者で、優美で古体な阿波方言を使う人は

 「ほててんごのかわをひろいでからにぃ、びしょこになってどなんするんぞぃ」 

 とかいっていた。

 これから地球温暖化で台風の発生時期も変化して、今後も夏祭り時期の雨が多くなりそうである。それなら、ワイの提案だが、盆踊りの「雨中バージョン、雨の盆踊り」をやるというのはどうだろうか。

◎風邪をひきそうな年寄りはのけて若い男女のみの踊り子連

◎衣装は男性は海水パンツ一枚、女性はビキニの水着

◎お囃子連はナシ、ラウドスピーカーで、エロティックなタンゴ、ルンバを流して踊る

 ワイの「雨中バージョン、盆踊り」のイメージとしては、60数年前日活映画のアクションものに必ずといっていいほど出演していた踊り子白木マリ後に時代劇・仕事人で武家の妻女のような堅い役となっていて驚いたが)の踊る振り付けでの総踊りとなる。こんな踊りなら傘さしても見たい。

2023年8月12日土曜日

ボニじゃ

  70数年生きてきてボニの推移をみていると、昔とはずいぶん変わったものだとおもう。第一、ボニという言葉なんぞこの阿波国の人でさえほとんど使わなくなった。ボニとは「お盆」のことであるが、私の子どもの時はみんなお盆のことを「ボニ」と呼んでいた。

 またボニは家にとっても重要な行事であった。おじゅっさん(御住持・檀那寺の僧侶)を呼んでお経を上げてもらい供養をしてもらうので仏教行事でもあったが、また家の先祖祭りの意味もあった。子供の頃は仏壇や、あるいは時によったら、特別の棚や檀をつくってハスの葉、ダンゴの棒(オガラか)、キュウリや茄子の作り物、ダンゴや地のブドウや梨、のお供え物、を仏画の掛け軸(お不動さんかお大師さん)、そして位牌の前にならべ、またボニ特有の料理も作ったりと、かなり賑やか(?)なおまつりであった。

 しかしそれも時とともに簡略化していった。今は墓に香華を手向け自ら供養するのと、仏壇にスーパーで買ってきたお供え物をちょろっと置いて祈るだけである。また亡父がキリスト教による葬儀を望んだため、親父の死後は檀那寺の僧侶を呼んでの読経もやっていない。私は別にキリスト教に帰依したわけでもないので寺との関係を引き継いでもよかったのだが、私には子もなく他に男子もいないこの家は私一代で断絶するので寺との関係を再びは求めていない。永代供養という手もあるが永代供養料の莫大な費用を考えたらそれもしていない。

 この阿波ではボニ踊りとして「阿波踊り」が藩政時代から有名であるが、これも時代と共大きく変わってきた。男女の浴衣はワイの子ども時代とあまり変わっていないが、大きく変わったのは女性の編み笠である。昔は頭頂部は水平に被っていたが今はほとんど垂直に立てるように被るようになっている。このため頭の格好がずいぶん尖って見える。そのほうがカッコよく見えるというのもあるのだろう。

 踊り方も特に若い人の踊り方では「これは別物ではないのか」と思うほど変化してきた。まぁ歌や踊りは一般的に言って、時とともに変化するものである、これも仕方ないのかなぁと思うが、藩政時代からの伝統のボニ踊りというなら、基本の(どれが基本であるかは議論の余地はあるが)型は守って欲しい、そうしないとまさに別物となるであろう。またお囃子も打楽器が主流になり、おかげで笛や三味線の音が消されてしまっている。だから最近の阿波踊りの音を擬音的に表現すると私には「♪~ドンガラガチャ、ドンガ、ドンガ~」のようにな聞こえる。はっきり言ってうるさい。

 踊りの形態で一番寂しいのは、昔は、小さな町、村単位で、衣装になどはあまりこだわらず、普通の浴衣、また簡単服などで気軽に、手作りのボニ踊りに参加できていたが、今は、徳島市、鳴門市、その他の市町村合併によって出来た大きな市以外ではボニ踊りとして開催できなくなっている。そのため市井の人々(特に田舎の町や村)の参加は殆どなくなり、手作りの、あるいはおらが町のボニ踊り、という意味は無くなってきている。その分、観光化は進み、見た目は派手になり見る人を多く集めるようになったが、昔を知るものとしては寂しい。


 そうそう、前のブログで、「ワイのような偏屈ジジイには静謐なボニがええから、雨でも降ってくれんか」などと不埒なことをかいたが、今日になって台風7号の進路予想図を見ていると、なんと次第に西寄りに進んでいるではないか。あくまでも予想進路でまだ確定ではないが、徐々に西に進路を取るというのは各種の違う予想でも一致しているから、当初よりはこの徳島に影響があるかも知れない。

 三つの違う当局が出している予報を見てみると、日本の気象庁予想進路は潮岬から京都を結ぶ線の北上、アメリカ軍の気象予報もだいたい日本の気象庁と同じ、ところが欧州の長期予報システム「ウィンディ」をみるとなんと、紀伊水道を北上しほとんど徳島市の上空を通過する予報となっている。これだと徳島市は中心が通ることになる。14日~15日にかけてのようだ。風だけだとかなり強く吹こうが若い踊り子連なんぞは、涼しくてちょうどええわ、ちゅうて踊るだろうが、さて問題は雨である。なんぼうなんでも雨の中では踊れまい、台風独特の間欠的な雨だと合間を縫って踊るということもあり得るだろうが持続的な大雨となれば致し方ないだろう。さてどうなるか、関係者はやきもきするだろうなぁ。

2023年8月10日木曜日

台風6号の影響はまだ残っている。

  台風6号についてブログを書いたのが3日前の月曜日だったが、今(午前十一時半)外は吹き降りのすごい雨になっている。ちょっと外へ出たが、傘を差して少し歩いたくらいでも膝下から靴にかけてビショコになった。

 図書館にいるが外のテラスはプールのように水がたまっている。いつもは間近にくっきり見える眉山は、まさに「白雨」というのだろうか白くかすんでボンヤリしている。


 オープンスペースも雨のしぶきと風でごらんのように誰もいない。観葉植物が大きく揺れていた。

 この台風6号、あっちこっちにふらついた末、速度も遅いのでいつまでもグズグズと影響が残っているようだ。日本の南には台風7号も発生しているからこちらも近づけばさらに台風の影響は長引きそうだ。

 今日、明日と鳴門では阿波踊り、高知ではよさこい祭りが開かれているので、その開催が危ぶまれている。徳島の阿波踊りは12日からなので影響が残るかどうか気になるところだ。しかしジジイの私としては実のところ賑やかでうるさく、おまけに混雑するのは嫌いである。歳ぃいくと静かで安穏なほうがイイ。いっそボニは雨でも降ってくれんか。

 しかしお盆期間中の天気予報を見ると徳島市は雨のマークが入っていない。これをみると徳島は4日間阿波踊りが無事に出来そうである。台風7号は今のところ名古屋以東に影響をもたらすようだ。雨の静謐な「ボニ」を内心期待していたが外れのようだ。若い衆(わかいし)は嬉しかろうなぁ。

2023年8月7日月曜日

台風6号

  台風の影響も、私のところでは、午前中強雨が間欠的に続いたくらいで強風もほとんどなく、どうやらこの台風6号は無事にやり過ごせそうだ。家で心配なのは、我が家の洗濯物を干すところの半透明のプラスティック製のトタン屋根で、半分以上今までの台風や風で飛ばされている。積年の劣化も加わって次に強風が吹き荒れればおそらく全て吹き飛ばされるに違いない。幸い今回はなんとか持った。しかし例え全部トタンが吹き飛んでもいまさらどうする気も無い。修理するにも、自力であろうが他力であろうが、それができる余力(つまり金やわなぁ)がない。あと何年生きられるかわからぬ我が身である。少々家がぶっ壊れようが、雨露さえしのげればという覚悟である。

 被害がないうえにこの台風は涼しさをもたらしてくれた。連日、35℃近くの猛暑で、外にでると炎天に炙られていたが、今日は雨が上がった午後も厚い雲に覆われ、また台風の影響でかなりの風があり、その風も涼しい、あとで本日の最高気温をみると28℃であった。雨が上がった外を歩いても昨日までの焦熱地獄とはちがい極楽のような気持ちよさである。

 我が地方にはほどの良い勢力、そしてコースを通ってくれた台風だが、これから台風は本番を迎える。地球温暖化の影響で台風の勢力もグレードアップしているという、今回のような適度の雨と涼しさをもたらしてくれるような優しい台風などはそうそう期待できない。私がいままで経験したスゴイ台風は昭和36年の第2室戸台風であった。このとき我が家の近くにあった青果市場の屋根が全て吹き飛んだ。これ以上の大型台風が来たら我がボロ屋はどないなるんやろか。

2023年8月4日金曜日

真夏のサイクリング

  気持ちの上では「歩き遍路」をやる気になっているが、いつかは・・と、心で思うばかりではいつまでたっても踏み出せない。そう思って、遍路の身支度を調えることにした。調えれば、やらざるを得なくなるという計算だが、立派なものをそろえても、さて実行に移せるか、と問われると自信が無い。でも思い切って「遍路衣装」を買うことにした。

 遍路衣装の必須アイテムは、白衣、金剛杖、菅笠、輪袈裟、あとは特に買わずとも家にあるか、簡単に手に入るものだ。その四つを買うと一万円びゃぁかかる。一週間ほど前にまず手始めに菅笠を買った。その時、他の三つも買やぁよかったが、例によっての逡巡!「ホントに歩き遍路にでられるのか、もし出来なかったら無駄になる」、しかし、菅笠は目深く被れて日除け効果が大きいし、またその素材や、円錐形で頭から浮くように被れるから、風通しもよく、頭も蒸れない様になっているから、真夏の帽子としては非常に優れている。菅笠だとたとえ遍路に出なくても無駄になることもあるまいとまずこれを一品をかった。一番札所境内の売店に売っているが、このときは友人が車で送り迎えしてくれた。

 この菅笠を被っている自分を見ていると(鏡で)、菅笠には梵字や仏教の偈頌が書いてあることも影響してか、他の三点もどうしても手に入れたくなった。そこで一昨日は、市内の瀬〇内仏具店へ遍路グッズを見に行った。品質はわからないがどれも一番札所売店の値札よりいずれも高い。ここで買うのはやめて札所売店で買うことにした。

 そして昨日、霊山寺まで買いに行った。行く方法であるが、車も持っていない私だから、その距離を行く場合、普通は汽車で板東駅までいくのだが、これも歩き遍路への道程の一つと思い、半ば修行するような気持ちで、カンカン照りのなか蔵本駅から自転車霊山寺に向かった。道はあらかじめ調べていた。蔵本駅から田宮街道を横切り、鮎喰川、飯尾川、そして吉野川の四国三郎大橋に通じる道を道なりにどこまでも進むと板東駅裏に突き当たる。そこからは霊山寺はすぐである。と、文字にすればいかにも短いが、ぼろ自転車で途中二度ほど10分の休憩をとっても二時間以上かかった。橋を渡るたび上下の起伏がある。そして阿讃山脈にむかって緩やかだが上りとなっている。かなり漕ぐのに力がいる。35℃近くの猛暑で大変だと思うが、昨日はかなり風があり、風によって体温の上昇が抑えられ、その点は良かったが、向かい風もきついため漕ぐ力が余計に必要でエラかった。

 着いてから菅笠を買った札所売店で残りのグッズを買おうと思っていたが、門前横の「一番街」というお店の方が品ぞろいも多く、気に入ったのがあったので、こちらで金剛杖と輪袈裟を買い、白衣は札所売店で買った。午前十一時前に蔵本駅を出発したが、蔵本駅に自転車で帰り着いたのは午後五時近かった。

 大河を四つ渡った(鮎喰川、飯尾川、吉野川、旧吉野川)が下は旧吉野川、暑くて汗を沢山かいたが、橋を渡っていると川筋に風が強く吹いて気持ちよく、自転車を押してゆっくり渡ると渡り切るまでに汗も乾いていた。


 一番札所にもお参りし


 近くにあるドイツ人捕虜収容所跡地の公園も見学した。


 当時のもので残るのは収容所バラッケの赤煉瓦の礎石のみ