モラエスさんの著作『徳島の盆踊り』は大正3年から大正4年の徳島の「盆」(方言ではボニとも)について書かれている。外国人の目から見ているので、同時代の徳島の人がみて当たり前すぎて書いていない(つまり見落とされている)ようなことについても書いている。その幾つかを取り上げようと思っている。
まず、盆の時期であるが今とは違っていて八月の下旬になっている。というのも110年前の大正時代は盆は旧暦で行っていたのである。大正四年の盆、すなわち旧暦7月15日はこの年の太陽暦では8月25日となっている。ので以下旧暦の表示は月に一ヶ月、日に十日を加えると太陽暦の日付となる。
モラエスさんは「盆」を死者の祭りととらえていて、大正四年の7月12日と13日(陽暦8.22日、8.23日)は墓や仏壇の先祖供養を行うこと、そして14,15,16日(8.24~26日)は「ぼんおどり」が行われたことを書いています。まず先祖供養は12日の数日前から墓参りをして墓を洗ったり、花をかえたりして墓を清浄にすると述べています。モラエスさんは先祖の霊は各家庭へ行く前に墓で休息するので、と書いています。そして続いて13日(8.23日)は死者の霊はその家族とともに静かだが楽しく過ごし、そのため家庭の祭壇である仏壇を美しく飾りあの世からの賓客をもてなすためごちそうを美しくて小さな器に盛り、またもてなしのお経を読むため、お坊さんや尼さんが各家庭を訪問すると書いています。これは110年たった今でも(日は違うが)やっていることです。
あれ?と意外な記述もあります。13日(8.23日)の夜まで霊は家族と楽しく過ごした後、その夜、帰るとあります。その夜はかがり火を焚いて(送り火)死者の帰り道を照らすとあり、所によって川や海の近くでは小さなおもちゃの船に火を灯しながすとあります(灯籠流しでしょう)。今日では新暦で行う月遅れの15、あるいは16日に送り火や灯籠流しが行われるので、大正初めのここ阿波では13日に早くも霊を送り出すのかなと思いました。これは当時の風習としてそうだったか、モラエスさんの記述が合っているかどうかはわかりません、モラエスさんの思い違いか、あるいは当時の徳島ではそうだったのか、これは確かめるまでは疑問のままです。
モラエスさんの記述では盆まつりは前半の「死者のまつり」とその後に続く後半の「生者のまつり」とに区切っています。生者のまつり、すなわち「ぼんおどり」です。ここ徳島では特に(大正時代から)有名であると書いています。つづく14、15,16日がそうです。大正四年の新暦では8.24,8.25,8.26日です。ただし時々台風で中止されることがあると書いています。しかし大正四年は運良く開かれています。
踊りの姿態についても書かれています。女性の衣装についての記述がほとんどです。なかにはめずらしい色染めのキモノや絹地を身につけ、鳥追い笠や昔の白拍子のかぶった青い麻の笠で深く顔を隠しているものもいる、と書いています。今のようにユニホーム的な同一の浴衣ではなく、思い思いの派手な衣装を身につけていいたことがわかります。また鳥追い笠を被っているのもいるし、白拍子のような笠もあると書いてますから、今女性の被り物はほとんど鳥追い笠一色になりましたが当時はいろいろな被り物を女性はつけていたのでしょう。いずれの笠も深く顔を匿していたようで、今のように鳥追い笠を上に跳ね上げるように被り、顔全体が見えるのとは違っています。
踊りの様態はいろいろだったようで、今ほど画一的ではなかったことがうかがえます。鳴り物は、三味線と唄で流して踊る人たちが(ゲイシャと呼んでいる)印象深く書かれていますが、今のように騒々しい一団もあったようで、鉦や太鼓の騒々しい群れが小路からあらわれ、口々に大声で唄いながら、大勢混み合っている群れをかき分けて踊っていく、あります。これらの人々はおそらく普段着(ほとんどが単衣の浴衣)でしょう。今と通じるのは、「高く掲げた提灯」がそれらを(当時は街灯もほとんど無く暗かったので)幻想的に照らしていると書かれています。ほとんど全ての市民が踊りに参加していました。モラエスさん自身は踊ったかどうかはわかりません。(おそらく私は踊らなかったのではないかと思っています)
彼は死者のまつりにつづいてほとんどの市民が賑々しく参加した盆踊りについて次のように書いています。
「みんな、今の今まで死者の霊と精神的に接触しあったし、楽しくて幸福であったと感じているし、遊び戯れて踊っているのですが、夜が明けて明日になると、元の日々の仕事に喜んでもどります。」
そして彼は自分をふりかえり
「僕はそうではないのです、僕は精神的に死者と付き合わなかったし、誰も、死者の誰も話しかけてくれなかったし、心からおまつりに参加することも出来なかったのです」
カトリック国で生まれ育ち、異教の死者のまつりと踊りだから、突き放したような覚めた印象かとも一見思えますが、そうではありません。つづく彼の記述でそれは明らかになります。
「僕は打ち明けなかったが、いたく胸を打つ悲痛な希望を抱いて死者と親しく交わろうとして、この徳島に来ました・・・」
しかし異邦人であるモラエスさんは当時の徳島の人のように死者を身近に感じることはありませんでした。できるのは「追慕」で、それは僕を苦しめるだけだと、哀しそうに、この「徳島の盆踊り」を締めくくっています。
大正時代の徳島のぼんおどり