『太古』、『古代』と同列に並べ歴史ロマンと言ったが、歴史といってもこの二つは次元と言おうか、その対象が大いに違う。『太古』は100万年を一単位とするような時代で、対象は「地質時代の生物の歴史」である。『古代』のほうは「日本列島の人」の歴史で100年、いや10年刻みで記述されうる弥生時代の歴史である。
前々日とはうってかわってあられが降るような寒い昼頃、眉山麓の天神社へ紅梅を見に行ったがせいぜい二分咲きくらいで被写体にはならず、社殿の石段をひきかえしてきたが、あまり寒いので石段下横にある阿波踊り会館に入った。そこで二枚のビラと何やら奇妙な生き物の模型が目に入った。
「これは一体なんだろう」、恐竜のようでもあり、恐竜の手に当るところをよく見ると羽のようにみえから原始的な鳥なのか。高校の時、地学の教科書に載っていた「始祖鳥」のようだ。そうすると恐竜でもありまた鳥類の祖先か?下にビラが貼ってあった。
ビラをよく読むと、一億年も昔に生息していたイグアノドン類の恐竜の模型のようだ。県南の勝浦町で昔から恐竜らしき化石が発見されていたが、だいたい骨のごく一部で全骨格が見つかったとは聞いていない(世界でも全骨格が見つかるなどは希なことらしい)、恐竜らしきものの一部の爪や歯から地質時代の歴史好きの人は、個々に想像力を働かせて、こんな恐竜だったんじゃないかとそれぞれ頭の中に想像上の恐竜を描いていた。まさにそれがロマンである。
しかし、このようにずいぶんとリアルに再現すると、え、ほんとかな、科学的根拠はあるのかしらん、と思ってしまうが、このリアル恐竜再現もまたロマン(多分に観光としての魅力)じゃ、と目くじらを立てることでもあるまい(学術論文じゃないんだからな)。
恐竜も昔想像していたのと現在とでは大いに違ってきている。昔のイメージの恐竜では皮膚はうろこ状で、蛇、ワニ、トカゲのようで、色は暗色(灰色、黒茶など)の一色(腹のみ明色)だった。しかし、最近の研究の成果か、恐竜は実は、現在生息している鳥のように、派手な色彩を、それも縞、まだら、各部分それぞれに色を持っていたという説が有力になり、さらには上のように皮膚は羽毛も生えていたとされるようになった。
それで上にある勝浦出土の恐竜さんはまるでトラさんかキリンさんのような模様をもっていたように想像されている。疑ったり、突っ込みを入れようと思えばできそうだが、これも太古のロマンとして、私は受容したい。
そして次は弥生時代といわれている「古代のロマン」である。ここ阿波国に天孫降臨の地があったというのである。これは阿波に「邪馬台国」があったというのと同じ郷土史の古代ロマンである。恐竜のビラの次に見たのが下のビラである。
うぅ~ん!なんと言っていいのか、真ん中の、美豆良を結い、七支刀をもつ太めの古代人らしき人をみると、思わず微笑んでしまった。こういう兄ちゃん好きやわ。取り囲む(どこかで見知ったひともいる)皆の笑顔もいい。十年以上前に、神山が卑弥呼の里とかいって、卑弥呼らしい美女の御当地ビラをみたが、そうすると、阿波天孫降臨地説だと、この古代人の兄ちゃん、神武天皇と言うことになる。見たところやさしげなパパで、まつろわぬ熊襲だの土蜘蛛だの、退治したようには見えない。笑いと和でもって仲良く統一したのかもしれない。
これもまた、学術的には云々かんぬん、などと固くならずに、一つの夢多い我が郷土の歴史ロマンとして楽しんだらいいと思う。ビラのタイトルの横にはちゃんと「フェスタ」とあるから、まぁ歴史ロマンの楽しい祭りである。なおもおもしろいのは(?失礼)、協賛する阿波古事記研究会の支部の多さである。ビラの下にあるが106も支部があって、よく読むと今ホットな話題の国、ウクライナ古事記研究会というのがある。いやぁすごい研究組織である。
太古ロマン勝浦恐竜は、今週末から始まる「勝浦ビッグひなまつり」の一環として取り上げられるようだし、古代ロマン(阿波は)天孫降臨の地フェスタも今週末の土曜日にある。もし私に孫でもいたら、どちらにも連れて行って喜ばしてやれるだろうが、独居ジジイではしかたない、行く足もないし入場料もいるので今回は遠慮する。
3 件のコメント:
『高天原は阿波だった』山中康男(日本テレビのプロデューサー)講談社:1977
という本を持っていた。
1980年代だったと思うが、徳島市観光協会が徳島に邪馬臺国があったというパンフレットを出していた。
*国府の気延山にある五角形の遺跡は卑弥呼の墓である。
*神山の悲願寺には卑弥呼が住んでいた。
*剣山にはソロモンの秘宝がある。
などの話が、雑誌の『ムー』でも特集されたりした。
私も信じて、現地調査した。ただのハイキングであったが。
板野の埋蔵文化財センターの職員さんに聞いてみた。考古学や歴史学では、徳島に邪馬臺国があったとか、高天原は阿波だったとか、ソロモンの秘宝が剣山にあるとかの、何らかの遺跡、遺物、伝承は今までありません、と言われた。
……えっ、そうなの。
そのあと職員さんは、にっこり笑いながら歴史はロマンですから、古代、歴史に関心をもってくださいね、とやさしく言ってくれた。
アカデミックな世界では、そんな扱いだったんじゃ。実は邪馬台国は大和朝廷には繋がらない無名の小国で、たまたま魏志倭人伝に登場したために倭国王と信じられてしまっただけではないのか、という可能性が高い。
しかし、専門家も言うように「歴史はロマンだ」
町おこしイベントとしてやっても問題はない。
カルロスさんへ
カルロスさんも日本古代史に興味があり、また調べたのですね。この時代の古代史は文献資料がなく、考古資料がその資料となるのですが、世に知られた有名な遺物だけでなく、こんな四国の辺地に知られていない遺跡や遺物がけっこうあります、地元の人もいわれがわからない物です。それなどを見ると各人それぞれに、これは古代の○○じゃったんじゃ、と想像しますね。
江戸時代末九州志賀島で漢委奴国王の金印が発見され、「倭の奴国」の存在が確定しましたが、もし徳島で「親魏倭王」の金印でも発掘されればここが邪馬台国か、と思えるのですが、可能性は低いようです。親魏倭王の金印と同時に、銅鏡百枚をもらったと魏志にはありますが、同じ銅鏡が徳島で発見されても、銅鏡は貸与や略奪で移動するから出土しても金印ほどには位置確定にはならないでしょうね。
市内の国府当たりは、歴史愛好家にとっていろいろ貴重な遺跡、遺物があります(だからここに市立の考古資料館があるのですが)、考古資料館には奈良朝の遺物がたくさん展示されているのですが、実のところ徳島の古代国府の跡はあまり研究が進んでいないようで、国府は(昔の国司ががいた政庁で)今の札所観音寺あたりではないかというくらいでちゃんと確定していないようです。邪馬台国阿波説をもてはやす割には、奈良朝の国府の跡の研究は進んでいないようです。ちなみに隣の讃岐は国府跡はわかっていて大きな石碑が建っていますが、阿波にはだから国府跡の石碑はいまのとこないようです。(国分尼寺跡はよくわかっているし、国分寺跡も国府跡よりはわかっているようですが)
卑弥呼時代の考古資料の探索などは私の能力の手に余るので、そのかわりこの国府の畑の中にある、中世の板碑についてちょっと調べたことはあります。2019年の11月9日のブログです。この近くには気延山や古墳、そのほかの石造物がたくさんあり、歴史好きにとっては興味深い土地です。
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