2022年5月31日火曜日

徳新の記事から

  一昨日の新聞に阿南で竹下景子さんの童話朗読会があったとの記事が載っていた。主題は「あらしのよるに」これ、ワイが40代の時にこの童話がでて世にもてはやされていたので読んだ覚えがある。中年になっていても結構いい童話だな、と思ったのを覚えている。ただこのときは1話のみで完結だったが、ずいぶんと人気が上がり続編も切望されたためか2、3~となんと7話までできてしまった。

 それでちょっとその続きはどうなっているのだろうと、今70歳を超えた爺になってオリジナルの1話とその続きの2~7話まで読んでみた。40代の1話を読んだときとは違う感想を持ったので、そのことを昨日友人に話したその内容に基づいて以下のワイの粗略な感想を書いておきます。(ガブは狼、メイは羊の、二匹のあり得ないような友情を描いた作品)

 『最後悲劇的な結末かとちょっと憂鬱になったが、なんと!オオカミのガブは大雪崩に遭って助かるが、そのかわり記憶喪失って・・ちょっと待てい!、三昔前の韓国ドラマかと突っ込みを入れとうなったわ。この7話のはなしは、全体的にはよくできた作品だが、その(7話)部分は不自然すぎる。二人の取り決めた合い言葉で思い出し記憶喪失は霧消するが、なんやらやっぱ韓国ドラマ風の感じがする。7話まで二人の友情はこれでもかという具合に繰り返されちょっとうんざり感も漂うから、それに対し緊張した山場を作るためか、ここで危機を持ってきたのかもしれない。7話まで話を延ばせばどうも新鮮味がないというか安易に危機を作りすぎるような気がする。

 結局、私が読んだ一話が一番よくできた作品だと思う。それにしてもこの童話・というからには子供向けだろうが、一体何歳が対象だろう。これかなり深読みができる作品だから、作品にちりばめられている何かの象徴を読み取るとすれば、子供向けと言うより、大人向けであっても不思議ではない。

 その隠れた象徴だが、第一話で闇の中で、チョンチョンと手を触れあうところなどは、初めての「愛撫」ととれないこともない。またガブとメイの性ははっきり出てこないがこれ両方オスである。嵐の一夜、天地を引き裂くような雷の中、二匹の言動を見てみると、友情の芽生えともとれるが「同性愛の一夜」ともとれないことはない。

 禁断の友情、というのはあまり例を知らない、禁断の愛、というのはテーマとしてはよくある。ロミオとジュリエッタのように敵同士の異性愛もあるが、その場合、少なくとも同族は二人の結びつきには反対しても、いざとなって相手から狙われれば匿い保護するだろう。同族からも完全に排除され、天地に二人の身の置き所がないと言うことは、キリスト教圏の同性愛のようだ、

 それなら、ガブがメイを食べるのを、友情のため我慢するのはどういう位置づけか、というとこれは男同士の肉の交わりを意味し、そうならないよう純血でプラトニックな愛に昇華させようとする努力や苦悩の象徴とも見ることができる。

 一話の最後は太陽がでて、果たしてこの二人の行く末は、太陽でも知らない、という終わり方。そして7話の最後は、まぁるいお月様が出て、それが二人のシルエットを浮かび上がらせる、これは単なる友情の耽美というには濃厚すぎる。

 で、私は象徴としてプラトニックな男同士の愛、と見たわけだが、実際そのような分析も評論家にはあるのだろうか、私は知らないが私独特のいびつな解釈ではなくかなりそのような読み方はできる気がする。

 でも、もしかすると、昔、母を亡くした小猿が、里に下りてきて飼い犬の背中にしがみつき離さなくなった。どこへ行くにもしっっかり背中にしがみついている。犬も嫌がることなくむしろ、小猿が離れたら、近寄って背に乗せる、というような動物の行動をテレビで見たことがある。犬猿の仲と言われるがこんなこともあるのかと思った、作者も、禁断の愛云々、というより案外このようなニュースを見てヒントをえたのかしれん。

 歳ぃ行くと何でも単純に考えずひねくれた見方をするもんじゃわ。

 あ!それと、ガブは山羊を食べずに生きていけるのか、という疑問にはちゃんと、隠れて小動物(ウサギや鳥)を食べるのが出てくる。これも単純な童話ではなく、生き物は他の生き物の命を食べて生きるという、生物の宿命が象徴されている気がする。ただし、これも幼児向けの話ではない。があえて入れている。』

2022年5月25日水曜日

徳島城公園のバラ園

  今日の徳島新聞の花だよりはお城のバラ園だった。昼飯を市役所の食堂で喰ったあとロビーで新聞を広げているとその掲載写真が目に入った。お城のバラ園ならこっからじゃとすぐ近くじゃ、行ってみよう、と出かけた。

 このバラ園はたくさんの種類を植えていてほとんど四季を通してバラの花がみられるが、やはりバラは元々の原種がそうであるように5月が盛りである。まえにこの横を通ったときはまだ寒かったからかバラの花の数もそう多くはなかったことを記憶しているが、今日は数といい色といい大きさといいド派手に咲きまくっている。



 いっちょうバラらしいのはやはり深紅のバラである。写真ではちょっとわかりにくいが自然にみた感じではその深紅の花びらはまるで天鵞絨(びろーど)のよう。お!この「天鵞絨」ってなんか漢字がカッコいい。そういやバラもバラっちゅうより、「そうび・薔薇」と呼び、漢字で書いた方が俄然かっこいい。バラっちゅう呼び名、外国由来っぽいけど、イバラから来ているのだ。赤いバラの花言葉は「愛や美」なので深紅のバラは恋人に送ったりするとよろこばれる。ま、ジジイには関係ないか。


 バラはもともと原種から品種改良されていろいろな種類ができた。花弁の色は赤~ピンクが主だったが、長年にわたる品種改良の努力の結果、黄色いバラも誕生した(18世紀頃といわれる)。ここの花壇にも美しい黄色いバラがある。そうそう来月の第三日曜(6月19日)は父の日ですね。母の日の花はカーネーションっちゅうのはみんな知ってますね(ワイらが小学校の時、母の日に造花のカーネィション買わされたわ!)。じゃぁ父の日の花は?母の日と違いごく近年に知られるようになったから、カーネーションほど一般化していないが、おおむね黄色い花が選ばれるそうで、その中で黄色いバラが一番人気だそうです。これも子泣き爺には関係ないか、ショボン。



 白薔薇もありまっせ!

2022年5月24日火曜日

オロシャその4 平均寿命 え!そんなに短いの

  前のブログで紹介した週刊誌に(ニューズウィーク)にロシア人の男性の平均寿命が載っていた。驚くなかれ66.92歳である。日本人男性の平均寿命と比べると約15歳も短い。日本では法的に満65歳から(前期)高齢者、75歳から後期高齢者と呼ばれている。ロシアでは高齢者になるまでに大方の人は人生を終えてしまうことになる。ただし女性の平均寿命は78.3歳である。世界各国の平均と比べてそう低いわけではない。男性のみが短いのである。

 なぜだろうかと考える。週刊誌にその大きな原因の一つが載っている。寒い国なので度数の高い酒で体を内部から温めるようとするのだろうが、酒の飲み過ぎによる影響で死期が早まるのである。そんなに誰も彼も大酒を飲むのかと疑問だが、どうも誰も彼もが大酒ないし度数の濃い酒を飲んで中年以降内臓を壊す人が続出するとのことである。そういえば日本にまで聞こえてくるニュースとして酒がないため代わりに工業用アルコールを飲んで何人もが中毒したとか、さらには化粧品、溶剤、化学薬品などに入っているアルコールを抽出して飲んで、これまた中毒になるという。なんとおバカな、と思うが、アル中体質で理性までぶっ飛んだ人が多いのだろうと推測する。

 65歳になるまでに大方の男性が死亡すると言うことは、相対的に若い人の比率が多くなる。老人が多すぎる日本社会からすると一見うらやましい社会に見えるが、自分に当てはめて考えると高齢者になるやならずで死ぬのはいやだろう。年金なんかももらえずに死んでしまう確率が高い。それなら酒なんか控えればよいと思うのだが、ロシアでは飲まずにいられない事情もあるのだろう。飲まない私はそのような心情は理解できないが、やけのやんぱち、憂さを晴らす、いやなことを忘れる、ために飲むというのはよく聞く。ロシアもそうなのだろうか、むしろ体質的に飲酒が常習化しているほうが多い気がする。

 ロシアの平均寿命の短さが生きとし生けるものに対する慈悲(愛)を深めるものとして作用すればよいが、どうせみんな最後には死ぬんだ、と妙な悟りを啓き、(ウクライナ戦争の結果ますますロシア社会が悲惨になれば)こうなりゃ核兵器でみんな一緒に仲良く昇天しましょうなんどと言うことにはまさかなるまいな。

オロシャその3 今週発売のある週刊誌からロシャの国民性をみる

  ユーラシア史(北方民族から見た中国史も含む)そしてそれから発展してロシア史を勉強していると、ユーラシアの大国、中国とロシアの、「国柄」が見えてくる。では学習した結果、その歴史的な国柄とはどんなものかについて(ブログでの)私なりの説明を考えていると、今週発売の『ニューズウィーク 日本語版』にまさにそのとおり、うんうんと納得できるロシアの国民性について、かなりまとめて簡潔に説明がされていた。私が思うことを代弁してくれているようなものである。

 左の雑誌が今週号発売のニューズウィークである。タイトルに「歴史で読み解くロシア超入門」とある。歴史からみてなぜロシア人(現今のロシアの国際的な対応を見ていると西側諸国からは?がつくような国民性)は独特の心性をもっているのかが簡単に読み解けるようになっている。

 図書館でそのタイトルの主題に魅せられて本をとって一瞥したとき、その表紙の絵が何なのかすぐ分かった。16世紀にモスクワ大公国にその身分を置くコサック兵の一団がウラル山脈を越えて、シベリアの(モンゴル系のシビルハン国に戦いを挑み勝利を挙げ、シベリア領有の端緒を開いた戦闘を後の画家がそのエポックメーキングを記念した描いた絵画である。

読む前にそれを見て思ったことだが、もともと現代のロシアの起源はキエフ・ルーシにある。約1100年ほど昔である。それから中心は東に移り、モスクワ公国が有力になり、15~16世紀にはイワン3・4世が現れ、完全にモンゴル帝国のくびきを脱し、逆にユーラシアの東方に向かって膨張していくのである。その打ち立てとなる記念する戦いが上記の絵なのである。16世紀からヨーロッパ諸国は海外に植民地を領有し領土を広げてきた。しかし今はどうだ?ほとんどの植民地は独立し、現在のヨーロッパ諸国は本来の領土の広さになった。

 ところがロシアだけは違う。地続きで植民帝国を広げていったため、それを見る我々はあまり自覚はないが、ロシアは16世紀以来の領土の膨張を求めて広がる「帝国」であった。上記の絵に見えるように火器で武装し軍事的優位により広大な東の領土、シベリアから満州北方、沿海州にかけて植民地をして支配したが、現在になってもその広大な植民地を領有している国なのである。イギリスもフランスも前世紀の中頃まではあった広大な植民地はほぼ手放し、本来の国の形になっている。これは何度かの大戦を経て植民地の民族の独立の動きが強まったためもあるが、ヨーロッパ諸国の内的変化も見逃せない。広範でより深化した民主化、人権尊重、異民族に対する平等意識、などが高まり、20世紀後半になると旧来のような帝国主義時代の植民地領有は本国政治の上からでも妥当とはみなされなくなったことが大きい。しかしロシアはいまだに16~19世紀にかけて他民族の上にのしかかり領有した広大な領土をいまだに引きずって今日に至っているのである。(ソ連も20世紀の最後の10年になって連邦が崩壊し、中央アジアの南方のイスラム教徒の多い地方や、ヨーロッパの影響の大きい西側の自治共和国、コーカサス諸国などの一部は独立したが依然ウラル以東から太平洋までの広大な領土はそのままである

 このように、ロシャはいまだにある面では旧帝国としての「体」(てい)・国体といったほうがいいか、をひこずっているのじゃないかと、まず読む前にこのシベリア制服の表紙の絵を見ながら思った次第である。膨張し一ミリでも領土を獲得することを使命とした帝国主義は第一次世界大戦直前ピークを迎えた。その時点で多くの帝国が存在した。しかし第一次世界大戦でドイツ帝国、オーストラリア帝国が崩壊し解体された。そして第二次世界大戦が終わると大日本帝国も崩壊解体され、最大の帝国であった大英帝国もインド独立とともに帝国としては実質終わり、第二次大戦後もまだ多くの植民地を有したフランスもやがて多くの植民地が独立しフランス本来の大きさになった。

 ロシアはどうか、確かに1917年の二度の革命により帝国はなくなったが、帝国の領土、特にウラル以東のユーラシアはそっくりそのままソビエト連邦に引き継がれている。上記に述べた植民地帝国はそれが解体されると同時に植民地も放棄(多くは独立した)されたのに比べるとロシアは旧帝国の大きな図体をそのまま引き継いでいるのである。ロシア以外の旧帝国諸国はその植民地のほとんどが海外領土(つまり海によって隔てられていた)であったが、ロシアはどこまでも(植民地は)地続きであった。これがよかったのかどうか、地続きであるため植民地領有しているという意識が薄くなる、そのことは21世紀まで広大な旧帝国領を維持するのに有利に働いたかもしれないが、ロシアは多くの民族を含む世界一の広さの領土を統治しなければならない、その場合、植民地という贅肉を落としこじんまりした本来の国の大きさになった英国、フランス、ドイツ、そして日本のように民主的で分権的な統治がロシアにできるか、と問えばこれはどうも不利に働くのじゃないかと思ってしまう。

 そのように考えながらこの本を読むと、やっぱりだ!私の予想したようなロシアの国体、社会、国民性が記述されて説明されている。興味がある方は読んでもらうのが一番良いとして、その概略を知るためにあえて紹介するとすると、その論文の文節の見出しに注目したい。

力でしか治められない悲劇、中世のモンゴルの支配、そして近世になっても長く続く農奴制を基本としたツァーリ(聖俗両権を持つ専制皇帝)制、そしてそれが倒れても続く共産党の一党支配と権力集中、それらが世界一広大な領土を治めるのである。上から力による統治が基本になるのは自然である。それをロシアの悲劇と呼んでいる。

他民族の大帝国と権威主義、上記①を別の側面からみたものでほぼ同じことを言っている。

民主主義は混乱を招くだけ、西ヨーロッパ、少し遅れてドイツも立憲制に基づく議会制度が確立する。ところがロシアはなんと日本より(憲法、議会制度は1889年)遅れて20世紀に入り日露戦争の敗北後ようやく立憲政治・議会開設を行う、日欧に比べるとかなり遅れている。そして始まった立憲政治・議会政治も結局は皇帝の専制的な権力に圧倒されてしまい根付かない。1917年の二月革命で皇帝は廃され民主的な議会制度に基づく政治が定着することを期待されたがレーニンは自らの権力奪取に強い意志を持ち、兵士農民の支持をもとに結局は10月革命でボルシェビキへの権力集中、その実共産党の独裁的政体となる。なんどか民主主義的な制度改革の機会はあったがいずれも失敗し根付かなかった。さらに20世紀末ソ連の崩壊により民主的な制度・政府ができるかと期待したが、結局はプーチンが大衆の圧倒的支持のもと、今の権威主義・専制的な統治になってしまった。結局、「ロシアでは民主主義は根付かない」ということが何度も繰り返され、民主主義は根付かないのではないかと懐疑的な見方がされるようになった。

 そしてなぜそのようになるかもこの論文は分析している。詳しい説明は省いて要点だけを箇条書きにすると

「個」がなければ「全体主義」になる

遅れた経済が「権威主義」を生む

そして世界初の「共産革命」を起こしながら、なぜマルクスの理想としたような社会に進まず、(マルクスが生きていてこれを見れば仰天するような)ゆがんだソビエト連邦が誕生しのか、を考えるうえで次の指摘は重要である。

ロシア革命はインテリによる(上記に示したように大衆の文盲率は高かった)革命運動(ボルシェビキ独裁)だったこと

上からの農業集団化により、共産主義で農奴制に逆戻り、というような皮肉が見られたこと。

 ロシアの国民性をかたちづくる上で重要なのは③、④、⑤であろうと思われる。31年前にソ連が崩壊し、西洋型の議会民主制度を採用したが、経済的社会的に混乱し、結局(選挙を通して)大衆が望んだのは権威主義・専制的なプーチン大統領であった。まさに③の失望があったのである。④も長く続く皇帝専制、共産党独裁、となじんできた大衆は自然と「個」を出さずに全体に自分を順応させるのが習性のようになったのではないか。そして⑤は並んで貧富の格差拡大ということも付け加えなければならない。ロシアは世界最大の領土を持つ国でありながらそのGDPは韓国と同程度であるという。これらの③、④、⑤が相まって今日のロシアの国民性を生んでいるのであろう。

2022年5月20日金曜日

サツキツツジ満開

  県庁前の「サツキツツジ」が満開で一面ピンクになっている。一般的なツツジの花期はすでに終わっているがこの品種は今が真っ盛りである。普通のツツジより花が小ぶりである。

2022年5月18日水曜日

病院予約日

  今日は病院の予約日だった。午前10~11時の時間帯の予約とは言いながらすぐに見てくれるわけではなくやはり待ち時間はあるし、あと会計じゃの投薬じゃので半日がつぶれるのである。

 今日は朝から快晴に近く強烈な日光が降り注いでいる。予報だと一日この状態が続きそうである。そこで万年床に近いお布団、毛布を露天で広げ、枕を太陽で焼き、シート類を朝洗って干した。昼ごろに病院が終わるので、帰って裏がやしてパンパンしてつづけて焼くのにちょうどよい。そしてそれをやった後、二時過ぎに取り込むまで近くのさんぱっちゃにいって髪を短く借り上げてもらった。

 歳ぃいくとともに常用薬が増えていく。頓服服用剤は別として60代までは泌尿器科系の薬が二つだったものが最近では消化器系の胃薬と循環器系の血圧の薬が増え、常用薬の数が3倍になった。今日の予約は循環器で血圧の薬を約二か月もらった。診療薬代合計〆て500円だった。血圧の薬は一般的でジェネリックが多いためか薬価が安い。それでも500円とはずいぶん安い、70歳以上の2割負担ということがおおきい。江戸時代は病気のお父っつぁんに高価な朝鮮人参を飲ませるため娘が吉原に身売りしたという話を聞くが、いまは高齢者の病人に日本の保険医療制度はありがたい。

 ところでコロナである。だいたい最近はみんな3度はワクチンの接種が済んだ、まだ毎日全国で3万数千人、徳島で100人近く発生はしているが以前と比べると重症化率は低くなりウィズコロナ、つまりコロナとの共生がある程度うまくいっているようだ。これに反し、いままで優等生で、我が人民共和国の制度医療は西側よりずっと優れてますわ、との態度で偉そうにしていた中国、北朝鮮はどうだ!ここにきて爆発的に感染数が上昇し、上海やその他の都市で封鎖騒ぎ、隔離される都市住民の怒りが爆発寸前、北朝鮮なんか医療が貧弱で柳の葉っぱを煎じて飲めだの、いやイモリの黒焼きがええだの、冗談のようにいっているが、どうなるのだろう。かの二国は徹底的に抑え込む政策でやってきた。日本のように感染者がある程度あるのはやむを得ず、ワクチンを広め重症化しないようビィルスとの共生を図る方針とは違う。これまではホンマかウソか知らんが建前はびっくりするびゃぁ0に近かった、西側先進国を見ながら「ざまぁ、見さらせ」と思っていたはずなのに。

 3年たってみると民主主義国のやり方は全体主義専制的な国に比べてなにごとも遅く、あぁじゃこうじゃと多様な意見、そして批判続出、最初は、防疫のように迅速に統制・隔離を要するばあい全体主義専制的な国のほうが優れていると思っていたが、ここにきて中国、北朝鮮を見ていると最終的には日本のような民主主義国の防疫方針、ワクチン対策がよかったんじゃないかと思っている。

オロシャ その2 日本とオロシャの接触(閲覧注意!18禁)

  オロシャとはロシアのことであると歴史的な国名の由来を知らない人でも推測はつくだろう。使われたのは江戸時代である。明治人になるとアルファベット(英語の)に基づいて国名は「ロシア」表記が一般的になる。江戸期の人は表記などを慮ることなく耳で聞いたままの国名を日本語で表した。だからむしろ江戸期の国名の方が実際の原語の発音に近い。例えばメリケンはアメリカの国名であるが「アメリカ」と言うよりむしろこっちが原語発音に近い。それと同じでオロシャも耳で聞いて日本語表記にしたものである。よく言われるが「R」の発音、聞き取りとも日本人には難しい。巻き舌音であるため、日本人が聞くと巻き舌でRを発する音の前に「ゥかォ」の母音が日本人の耳には聞こえる。そのためオロシャになったものと思われる。(ここでちょっとしたエピソドを!皆さん、LとRの発音をうまくできますか? 西洋人が聞いてわかるように。LとRの違いがわかる発音って日本人にはすごく難しいんですよね。ワイも極めて苦手です。そこでワイの独自の方法、Lは普通にルの頭音で発音します。そしてRは舌を口蓋の中にうんと丸め舌先がつかないようにして、少しうなるような感じでルを発音します。そうしてル音の前にゥ~ォが音頭に聞こえるようにするのです。これでもネイティブのR音とは違いますが、それでもLとRの発音は聞き分けてくれます、なるほどR音のまえにオが聞こえオロシャになるのも納得です

 私とロシア人との遭遇は約35年前の北海道であったが、江戸期の人のオロシャ人との遭遇は北海道の東北にある南千島、そして北にある樺太であった。松前藩の役人、あるいは幕府関係者の派遣(探検)の役人、御用商人たちである。一方ロシア人はシベリアに進出しさらにはアラスカまで足を伸ばした。ヨーロッパで珍重される黒テンやラッコの毛皮を求めてと言われているが、原住民に毛皮税を課し、進出したシベリヤ、アラスカにたいし一方的に領有宣言を行い領土に組み込んでいった。16世紀以降ロシアを含めたヨーロッパ人のこの「領土・領有」の感覚、500年も昔の歴史のことではあるが全くもって理不尽で理解できない。現今の日本の民法にも「無主物を発見したら所有権を獲得できる」という条理は確かにあるが、ヨーロッパ人が発見した土地はどこもネイティブ(原住民)が何千年にもわたって暮らしているところである。それを無主物のように発見し探検したら原住民ともども土地を領有宣言ってまことに傲慢に過ぎる。もっともシベリア、アラスカに住む弱小民族にロシアが小銃・大砲で武装し、かつ主権・領土・国民の概念を明確化させ押し寄せてくる力にあらがう術はなかった。

 ロシアはシベリア、アラスカを領有すると南に転じてきた。南には主権・領土・国民の概念が確立した近代国家ではないが、それでもロシア以上に強力な帝国「清」があった。そしてカムチャッカ半島の南方には「日本」もあった。さすが清帝国には力で推し進めることはできず、清とは国境の約定条約を結びさらには一定の貿易の権利も得る。そして日本である。かなり強力な政府もあるからシベリアのように簡単に併合はできない、それで最大限南下し国境をできるだけ南に伸ばし、またできれば不足する東シベリア、カムチャッカなどの衣食の料を日本との通商で得ることを望んだ。それが18世紀中期以降の日本の北方の状況である。

 先にも行ったようにこの状況で接触するのは松前藩が最前線である。もどかしい話だがその領地にしても北に向かっては不分明な部分もあり、樺太(北蝦夷といわれていた)や択捉、国後島、そしてウルップ島以北の北千島も松前藩に(日本)に属するのか、いやそもそもそれらの土地の領有を主張する強い意志があるのか、はなはだ頼りないのである。幕府は長崎港での中国オランダ以外とは通商を、そして対馬を通して朝鮮国以外との通交は禁じており、北のフロント部分でのオロシャの接触は小藩である松前藩にとってはおっかなびっくりの態度であった。

 こんな時代、18世紀の末つ方であるが、ロシアの最深部にド~~~ンと入り、ロシア人と交流し、詳細にロシア人社会を観察し、最後にはなんとロシア帝国のラスボス、エカテリーナ2世女帝にまで会った日本人がいた。鎖国下ながら膨大なロシアの知見をもって日本に帰って来るのである。その名を「大黒屋光太夫」伊勢の船頭で江戸へ向かう回船が難破しロシア領だったアリューシャン諸島まで流されそこからロシアに深く入るのである。そして十年も滞在する。

 今その漂流記を読んでいる「北槎聞略」がそれである。左の本で岩波文庫版は当時の原文で書かれているが江戸後期の日本語なので読むのは難しくない。大変面白い本である。当時のロシアの文化、風俗のかなり細かい部分もよく叙述されている。光太夫がこの本の中で叙述するのはロシアの上層の貴族階級である(下層階級、農民、狩猟民などの記述はほとんどない)。ロシアは18世紀末になるとかなり西洋化が進み、特に貴族階級などの生活風俗はフランスなどと変わらない。産業革命前であるとは言いながら、このような西洋的なロシアに光太夫は臆するというか劣等感を持ったのじゃないかと思うが、全くそんなことはなく、西洋の科学技術もかなり理解しており、建築、土木、機械類など図示できるほど詳細に観察している。一介の商人兼船頭の光太夫がそれらの人と堂々と交流し(滞在数年後にはかなりロシア語も喋れるようになる)、それらのひとを観察し、堂々主張し、自分の意見も持っているのである。当時の日本の庶民階級のポテンシャル(能力の潜在力)の高さにおどろく。

 今後機会があればおいおいこの光太夫の漂流記についてブログでも言及しようと思うが、今日はその中から比較文化人類学的に面白いあるエピソードを一つだけ紹介しよう。光太夫のロシア社会の記述は極めて多岐にわたるが、まずワイの興味のあるのロシア人のシモの話をしようとおもう。光太夫の見聞記のすごいところはそれも詳しく記述していることである。過去に回船で度々江戸へ荷を運び、江戸の遊郭でもおそらく遊んだだろうと思われる。江戸文化は遊女文化を決して下位のものとしては見ない、むしろ江戸文化の中心をなすものである。とうぜんロシアのそれも恥じたり隠すべきものとしては見ない、表面は道学者ぶるヨーロッパ人とは大違いで色事、売春に当時の日本人として何の偏見もない。それだけに当時のロシア社会(上流階級だが)のシモの話を率直に信用できるものとして聞くことができる。

 見聞記(漂流記)では売春宿を『娼家』と表記し、訓読で「じょろうや」と読んでいる。その女郎屋に行くきっかけはロシアの友人の誘いであった。ロシアの遊女屋に行ったことがないというので光太夫は連れて行かれ、その女郎屋の遊女の様子や豪華な居間、調度、家具などを詳細に記述している。面白いのは後日また出かけ結局エリザヴェータという花魁となじみになり、ロシアを離れるまで濃密な情を交わしたことが書かれている。吉原の遊女との後朝の別れと変わらぬ風情である。この女郎屋は政府公許の売春であり、都に3カ所あると述べられている。公許売春に対し隠し売女は厳禁で罰せられるがそれにもかかわらずアチラコチラにあるのは江戸と同じである。

 シモの話でもここまではロシアの遊女屋も日本の遊女屋・吉原も変わらないが、光太夫の背負っている江戸の性文化がロシアよりももっと幅広く自由で闊達であったことについて感心させられるのは、次の項目である。

漂流記には『男色』としてあるロシア人があげられている。その人はヤクーツクの郡長(役人)であるが近隣の少年に懸想したけれども少年は承知せず、しかし金銀を与え様々に機嫌と取り結びついに「本意をとげにけり」とあるから、アナルセクスまで行ったのだろう。ちなみにキリスト教国ロシアでは男色は厳しき制禁とあるから罰せられるのである。しかし密かな二人だけの密会ならばよかったのだろうが、この少年、祭りの時に仏(キリストのこと)の前で聴聞僧に(慣例となっている)さまざまな罪を懺悔するとき、思いあまったのか聴聞僧にその次第を懺悔してしまった。少々の罪懺悔ならば聞き捨てにするところだが、男色の罪は大罪であるため聴聞僧より官(こうぎ)に訴えた。

 で、罰として郡長(役人で貴族)は解雇され庶民の身分に落とされ、なんと少年は獄に下して鞭打たれたのである。今だと郡長は少年強姦の罪で長期の懲役、少年は被害者として扱われまちがっても罰せられることなどないが、この少年はおそらく下層階級、農民の息子だったのだろう(だから郡長が無理矢理自分のものにしたのだろう)。当時、やる方も受け身も年齢にかかわりなく両方罰せられたのである、しかし身分による刑の多寡があった。それで貴族の郡長は身分剥奪解雇のみ、対する少年は下獄、むち打ちとなるのである。

 光太夫はこれについての感想は書いていないが、男色も陰間買いも江戸では当たり前のこととして受容されていることなので、わざわざ「・・・この国ではきびしき制禁なり・・」とかいている。性の自由度、性文化の厚みは当時のロシアいやヨーロッパ以上に日本は先進的であったことを思わせる。

 大体江戸では地方へのお土産として浮世絵が多量に販売されており、その中の「春画」は当然大人気、その中で男同士のセックスの浮世絵も何らの差別なく男色嗜好ジャンルとして同じように多く刷られ販売され買われていった。

 下は多量に刷られ人気のあった陰間(男性だが女装して性の相手をする)との春画


 下は丁稚と若主人か手代のからみの春画、ロシアの郡長も当時の日本だと問題にならなかったのになぁ


 男色作品は浮世絵の春画だけではなく、江戸の工芸の一ジャンル「根付け」にもこのようなものが作られている。ガチの男同士のシックスナイン、いやぁ~江戸の先進的な性文化ってすごい。


 明治になっても春画は作られた。日露戦争期にはこんなものも。日本兵とロシア兵


 大英博物館に収蔵の同じものには、落書きが書き加えられている。ロシア兵「ワタシ、モウシニソウデス」 日本兵「スグ、トドメヲサシテヤロウ」、なんかぁ~意味深な言葉ですね。このあとエクスタスィに達し、きっと仲良くなったんでしょうね。


 なんと濃密な日本オロシャの接触であることよ! 

2022年5月16日月曜日

オロシャ その1 イワン君たち

  二月上旬に文化の森博物館で「鳥居龍蔵と草原の遊牧王朝・遼」を見てからユーラシア史に俄然興味が出てきた。それから三か月きわめて幅広いユーラシア史の本を漁っておべんきょうしている。ただ興味も動機もそんなには失せてはいないが「寄る年波」(使い古された慣用句だ!)のせいか進行度は遅々としている。十年若ければ、いやせめて60代であればもっと身を入れて勉強できるのにと思っている。

 ゆっくりではあるが3か月もたてばそれなりに関連の本も読めたしユーラシア史の概略もだいたい頭に入ってきた。そのお勉強から今までならった歴史とは違う「視点」を提供してくれた。そもそも『ユーラシア史』』なんどという括りの歴史本は私の若いころは(あったかもしれないが)きわめてマイナーなものであったのか見たことがなかった。たとえばこの勉強の動機にもなった遊牧王朝・遼の歴史については昔は中国史あるいは東洋史の一環として位置づけられ、その範疇の中の歴史であった。遼王朝も中国の中原に侵入した北方異民族(遊牧民族)としての扱いで歴代の中国中原王朝の付録的扱いである。

 そして東洋史・中国史と対する大きな歴史の括りは西洋史である。昔の高校の歴史教科書はその大きな二つの歴史に四大古代文明、それにちょびっとびゃぁの中東史をを加えて構成されていた。だから高校以来歴史を勉強するときの視点としては「西洋史の視点」と「中国史の視点」で見ることの制約から免れなかった。このような見方からすると歴史の大歯車を動かしたフン族(ゲルマン民族大移動の原因を作りローマ帝国を滅ぼした)は西洋史からみると外部から唐突にやってきた遊牧民族であり、また同じく中国史のさまざまな転換点で大きな役割を果たす北方騎馬遊牧民族の匈奴、五胡、契丹、モンゴル、女真なども中国・中原に外部から侵入を繰り返す異質な存在であった。しかしユーラシア史という範疇で歴史を記述すると、それらの遊牧騎馬民族は外部からのエイリアン的な侵入者ではなく、主体的に動く歴史の主人公となる。13世紀に極西の西洋を除くほぼユーラシア全域を支配するモンゴル帝国がいかなるものであったかを知るには西洋でも東洋でもまた中東でもないユーラシア大陸のコアな部分(おおむね北緯40°以北、砂漠、草原、森林地帯を擁する)の古代からモンゴル勃興までの各遊牧民族の歴史を知らなければならない。それがまさにユーラシア史である。

 そしてユーラシア史はモンゴル帝国の没落をもって終わりとはならない、これは西洋史、東洋史が現代まで連綿と記述されているのと同じである。このユーラシア史の現代において多くの叙述がなされているのは、もういわずともわかると思うが、そのユーラシア大陸の大部分を占める現代のロシア共和国とその派生国たち(ソ連崩壊により誕生した国々)である。

 とまぁ、そのような理解の上でユーラシア史をぼちぼち勉強し出した二月下旬、世界を驚かせるような出来事が起こった。ロシアによるウクライナ侵攻である。もうそろそろ三ヶ月になろうとしているが未だに国際ニュースのトップとなっていて世界の関心を集めている。

 ここで私としては俄然ロシアの歴史が気になり出した。ロシアの歴史は東欧の国々として大きな西洋史の中に入るが、これ、ユーラシア史として考えるとまた西洋史とは違った見方ができるんじゃないかと思った。ロシアは近代以降西洋の文物制度を取り入れ西洋化してきた。しかし、どうもロシアは西洋的な国家とはちょっと違うと思っている。日本より早く西洋化したのに、専制的で中央集権的、国家が強権的に国民に対している。そればかりか外部に対しては尊大でしばしば攻撃的である。その例は30年前まで存在していたソビエト連邦である。しかしソ連が解体し民主化の期待が高まったが、その後の経過を見るとどうも我々が期待したような民主化分権化には向かわなかった。自由意志の選挙が始まったにもかかわらず結局は強権的独裁的なプーチン大統領を生まれた。これはある意味国民が望んだ結果じゃないだろうか。西洋の政治文化風土とは違ったロシアの千年にわたって培われてきた民族性というものもなにか根幹の部分で作用しているんじゃないかと思っている。

 そんなことも含めユーラシア史の視点からお勉強したロシア史について私なりのいろいろな感想をブログにしてみようと思う。

 まずはその主体であるロシア人の感想からのべよう、ロシア人はスラブ民族(その中でも東スラブといわれている)である。ヨーロッパというにはかなり東にすんでいるから、見た目はヨーロッパの人より幾分東洋っぽい顔形をしているのか、まず私の記憶にある実際見たロシア人を探ってみた。もう35年ほども前だろうか夏期数ヶ月北海道で放浪の旅をしていたとき根室と稚内でロシア人の船員をよく見た。話こそしなかったがその二カ所では何日も滞在したので町中でよくすれ違った。大体数人多いときは十人あまりのグループで行動していた。最初遭遇したときは白人と一目でわかったが、白人の旅行者にしては着ているものはヨレヨレで長靴のような履き物に違和感を覚えた。背の高さは高い人もいるが私より低い人も何人かいた。そしてすれ違ったときアルコールの匂いがした。その後すれ違ったときもほとんどアルコールの匂いを漂わせていた。いったいどんな人?とわからなかったので地元の人に聞くとロシアの船員で船は日本に蟹などの北洋の海産物を運んできて、帰りは日本の中古車を積んで帰るという。停泊中は船で寝泊まりするが町に買い物や食事、そしてなぜか銭湯に行くためロシア船が入港するとロシア人が町を闊歩するのである。あとでやはり銭湯のことについてなぜか詳しく聞くと、北海道の銭湯は大体サウナがついていて、彼らはそのサウナを利用するのだが、滞在時間やマナーの点で日本人客から嫌われているため銭湯の店主が困っているとのことである。その年全国ニュースでは北海道の銭湯がロシア人お断りとのロシア語の張り紙を報じており、それが差別になると問題になっていた。買い物のロシア人にもよく会った。小物から大物の電気製品をよく抱えて歩いていた。ロシアでは需要が高かったのだろう。そしてバナナの房をまるでサンタクロースが背負うようにたくさん運んでいた時もあった。ロシアは北国、熱帯のバナナが彼の地では価値があるんだろな、と思ったのを思い出した。

 当時、日本はバブル期、対してロシア(当時はソ連)はペレストロイカの改革を行っていたが西側に比べてかなり経済的に遅れていた。そして結局は破綻しソ連崩壊となる。そのためかロシア人(船員)はみんな生活に疲れたように見え、かなりみすぼらしく見えた。しかし国での困窮を少しでもよくしたいためか、釧路や稚内で買いあさるロシア船員は野性的なたくましさも持っていた。たとえていえば戦後すぐの駅前の闇市にたむろする担ぎ屋のような雰囲気があった。それ以後、ロシア人に近接した遭遇はない。しかしそのときの印象が強烈でロシア人のイメージを私の頭に強くすり込んだ。

 そもそも日本人がロシアに接触したのは江戸時代である、最初の印象は決して悪いものではなかった。しかし明治に起きた日露戦争でロシアを敵として戦い、かろうじて勝ったためか、以後一般庶民のロシアのイメージはよくないもに変わっていく。「ロスケ」などの侮蔑語も生まれる。さらに第二次世界大戦での敗戦間際、まるで火事場泥棒的に領土に侵入し奪い、また日本捕虜を無法にもシベリアの強制労働に連れ去ったためますます印象は悪くなっていった。とはいっても庶民的レベルで大がかりに付き合うこともなかったのでロシア人としての長所などは知りようがなかった。

 つい先日5月9日ロシアの対独戦勝記念日のパレードをリアルタイムの中継で見ていた。見たところ20歳になるかならずの若者が行進していた。そのスタイルの良さ、意気軒昂さ、そしてイケメンぶりに感心したが、それぞれの若ものを一人一人よく見てみると私はある共通したイメージを感じる、それはロシア人っぽさというのだろうか、皮膚の色も髪の毛もみんな明色だがなんとなくモンゴルっぽい遺伝子が混じっているんじゃないだろうかと感じたりする。なかにはモンゴルそのものというような顔の若者もいる。

 「これが、イワン(ロシアの普遍的な名前)君たちか」

 彼らはプーチンの命令一下、進んで戦地に行くことを納得しているのだろうか、と聞いてみたくなる。ロシア国内ではプーチンさんの今回の軍事侵攻に賛成が80パーセントを超えるという。イワン君もロシアの栄光、偉大さを知らしめるためプーチンさんの命令があれば戦地に行くんだろうな。71歳の爺からいわせればもったいない。若者を無駄に殺すなといいたい。どしてもいくんなら年寄り送れや、と言いたいがヨボヨボじゃあ戦闘にはならんか。そもそも戦争止めや!




2022年5月13日金曜日

雨の多い季節にむかう

  歳とともに月日の経つのが早く感じられるとブログに何度も書いたが、歳ぃいくと季節の推移もめまぐるしく感じられる。毎日汽車に乗るので車窓からの眺めに特に注意はしていないが、それでも花木がいつの間にやら満開になり、桜の季節を知らせてくれたりする、それもいつの間にやら新緑となり、濃い緑が目立つようになる。そして強い陽光のもとあちらこちらで鯉のぼりがはためくと初夏の風景にかわったのだなぁとの感を強くする。

 そしてここ数日は梅雨を思わせる天気が続いている。まだ梅雨入りには早かろうと思うが、梅雨の前に「梅雨のはしり」と称する梅雨もどきの天気が続くときがある。それかもしれない。雨天になると存在感を主張するアジサイはまだ目立った色を見せていない。どんな状態かな、と注意してみると、まだ緑っぽいたくさんの小さなつぼみだった。ニュースでは今夜は大雨になると言っていた。車を持っていないので行けないが、うっとうしく雨の降る夜、どこか地元の温泉でおいしい夕食を食べ、一面ガラス張りの広い浴槽にゆったりつかり、夜の雨の風景を見たり雨音を聞けたらくっつぉぐだろうなぁ、と思う。がまぁ、できないことは仕方ない、コスモス薬局で名湯温泉アソートの袋でも買ってきて湯に溶かしこみ我が家の小さな浴槽で我慢するか。


2022年5月11日水曜日

わたしより若い三人の死

  有名人の死のニュースは人によってそれぞれあたえるインパクトの濃淡はある。70歳を過ぎた爺にしてみると自分より若くして亡くなった有名人の訃報には特に注目することが多い。なんしにぃ~?まだ死ぬ年じゃあれへんやろ、という感が真っ先に来る。当然、老衰はまずなく、病気、それも脳血管系、心臓、癌の死因が多い。自分も高血圧を始めいろいろ持病を抱えているので若くしてこのような病気で死んだと聞くと人ごととは思えず、自分もいつ病魔に捉えられるか不安になる。また高齢者以下の人では自殺は死因の上位に来る。楽天的で自殺など考えたことのない人もいるが、実行云々はおいといても「自殺」について考えた人も多かろうと思う。それだけに有名人の自殺ニュースはかなりのインパクト、あるいはショックを与えられる。

 最近、私より若いのに亡くなって私に少なからぬインパクトを与えた人が三人いた。一人目は国際政治学者で慶応義塾大教授の中山俊宏(なかやま・としひろ)さん(55歳)、二人目は俳優の渡辺裕之さん(66歳)、三人目はコメディアン上島竜兵さん(61歳)である。

 一人目の中山俊宏さんは後の二人と比べると一般の人は知らない人が多いようであるが、学者さんとして初回のトランプの大統領選挙についてや、その四年後の落選した時の社会の混乱などをテレビで解説していたので顔を見ればわかる人も多いと思う(左の写真)。最近では国際政治学者の立場からロシアのウクライナ侵攻について意見を述べている。つい一週間前に(録画だが)プーチンのウクライナ侵攻に対する世界各国の政治学者と英語で討論していた番組をBS・NHKで見たばかりだった。出演者はいずれも世界一流の国際政治学者であり、その彼らと堂々と渡り合い自分の意見主張を論理的に流ちょうな英語で話す態度に感銘をうけた。そのわずか数日後である。蜘蛛膜下出血で55歳で死去のニュースを聞いた、まことに残念である。こんなことをいうのは不謹慎かもしれないが、なんでぇ~、死神はこの人を連れて行ったのか、かわりにプーチンはんを連れて行ったくれりゃぁよかったのにと思う。今のロシアのような専制主義的に近い国でプーチンが卒然と死去したら、大きな確率でウクライナの戦争は終わるんじゃないかと思ったりする。

 二人目三人目の死はもうすこしインパクトが強かった。なぜなら自殺だからである。まず渡辺裕之さんの(縊死)の訃報を聞いた。原因はあれやこれや続報で言われているが、実のところそんなことは本人のいないところでの推測に過ぎず、本当のところはわからない、最近では某栄養ドリンクCMの『ファイト~~~ッ、一発!』という映像とその声が印象に残っている。60歳を過ぎてもイケメンの上、ムキムキの筋肉、均整の取れた体で、初老の人からは(肉体や体力で)羨まれる存在であった。私は彼よりも高齢であるため、彼のデビューの映画の時から知っていた。映画の題は「オン・ザ・ロード」の主役である。彼がまだ20代の中頃でライダースーツがずいぶんかっこよかったのを覚えている。自殺の原因については後追いの週刊誌やスポツ紙などがあれこれ書くだろうが、わたしの感慨は、「残念、なんとか人生を最後まで走りぬいてほしかった、でも人にはそれぞれ死にたくなるような苦しみや悩みがあるんだなぁ、」ということである。

 そして今日、三人目、ダチョウ倶楽部のコメディアン上島竜平さんの自殺のニュースを聞いた。歳ぃいくと(他人は知らない少なくとも自分は)笑いに鈍感になる。テレビ・映画で喜劇、漫才のような「お笑い芸」をみてもちょっとのことでは笑わなくなる。その中で70歳になった今でも大笑いするのは、志村けんを中心とするダチョウ倶楽部らの寸劇コメディーである。再放送あるいはユーチューブなどの動画で何度みても笑いをこらえることができない。よほどワイの笑いのツボにぴったりとはまり擽るのであろう。

 特に何度見て大笑いするというか、むしろYouTubeなどで進んで見て大笑いしたいのは、志村けんの「ヒトミばぁさんの芸」、そして上島竜平の「いじられ芸」である。いわば明るいイジメである「いじられ芸」は誰にでもできるものではない。その芸人のキャラ、表情によっては視聴者にいやな余韻を残す場合がある、そうなると笑える芸ではなくなる。「おもしろうて、やがてかなしきいじられ芸かな」では俳句や、泣き笑いペーソスギャグとはなっても万人が大笑いできるコメディーではなくなる。その点、上島の芸は私がみるところそういうものではなく、視聴者も安心していじられ芸を笑えた。

 しかし、コメディアンはやはりペルソナ(仮面)をかぶった存在なのであったのを痛ましい自殺を通じて知った。演じる人はみんな仮面をかぶったものであることは当たり前のことじゃとは思っていながらもやはりいじられても陽気な彼をワイらは見ていたのである。「かなしきピエロ」という言葉がある。いろいろ解釈はあるが、ピエロの顔をよくみると目の下に大きな涙の化粧をしている。笑わせる存在でありながら悲しみを秘めているという象徴であろうか。コメディアンの自殺を聞いて、悲しきピエロという言葉を思い出した。しかしそれも我々がみているペルソナ(仮面)であり、その内奥には一人の人間としての表情苦悩があったはずであるが、今日のワイドショーに取り上げられる「彼」をみると、やはり我々はコメディアンの仮面を通してしか彼をみていないのだなぁとの感を強くする。

2022年5月4日水曜日

脇町三味線餅つき

  昨日に続いて甥らと、脇町うだつの町並み、土柱、霊山寺、ドイツ館、阿波踊り会館をまわった。私は何度も行ったところであり、それについては以前ブログをアップしているので特にそれらは今日のブログに取り上げない。ただ脇町では連休中ということもあり、町の無形文化財である「三味線餅つき」の実演をやっていた。テレビなどでは見たことがあるが実物を見るのは初めてなのでこれを動画にアップした。

2022年5月3日火曜日

甥の車の運転で室戸までいった

名古屋からお墓参りに来た甥の車の運転で県南~室戸岬まで行ってきました。

薬王寺をお参り


鯖大師もお参り


正午過ぎ甲浦駅でDMV(デュアル・モード・ビークル)道路と鉄道両用車を見る

甲浦駅


タイヤ走行からレール走行になるところ(動画)


室戸岬近く、お大師様が虚空蔵菩薩求聞持法の修行をした洞窟を見る


室戸岬再突端あたりの岩礁


室戸岬最御崎寺をお参り



2022年5月2日月曜日

5月1日 風車の丘とネモフイリア

  アスタムランドの風車の丘のネモフイリア



 こんなかわいらしい花だ