一昨日の新聞に阿南で竹下景子さんの童話朗読会があったとの記事が載っていた。主題は「あらしのよるに」これ、ワイが40代の時にこの童話がでて世にもてはやされていたので読んだ覚えがある。中年になっていても結構いい童話だな、と思ったのを覚えている。ただこのときは1話のみで完結だったが、ずいぶんと人気が上がり続編も切望されたためか2、3~となんと7話までできてしまった。
それでちょっとその続きはどうなっているのだろうと、今70歳を超えた爺になってオリジナルの1話とその続きの2~7話まで読んでみた。40代の1話を読んだときとは違う感想を持ったので、そのことを昨日友人に話したその内容に基づいて以下のワイの粗略な感想を書いておきます。(ガブは狼、メイは羊の、二匹のあり得ないような友情を描いた作品)
『最後悲劇的な結末かとちょっと憂鬱になったが、なんと!オオカミのガブは大雪崩に遭って助かるが、そのかわり記憶喪失って・・ちょっと待てい!、三昔前の韓国ドラマかと突っ込みを入れとうなったわ。この7話のはなしは、全体的にはよくできた作品だが、その(7話)部分は不自然すぎる。二人の取り決めた合い言葉で思い出し記憶喪失は霧消するが、なんやらやっぱ韓国ドラマ風の感じがする。7話まで二人の友情はこれでもかという具合に繰り返されちょっとうんざり感も漂うから、それに対し緊張した山場を作るためか、ここで危機を持ってきたのかもしれない。7話まで話を延ばせばどうも新鮮味がないというか安易に危機を作りすぎるような気がする。
結局、私が読んだ一話が一番よくできた作品だと思う。それにしてもこの童話・というからには子供向けだろうが、一体何歳が対象だろう。これかなり深読みができる作品だから、作品にちりばめられている何かの象徴を読み取るとすれば、子供向けと言うより、大人向けであっても不思議ではない。
その隠れた象徴だが、第一話で闇の中で、チョンチョンと手を触れあうところなどは、初めての「愛撫」ととれないこともない。またガブとメイの性ははっきり出てこないがこれ両方オスである。嵐の一夜、天地を引き裂くような雷の中、二匹の言動を見てみると、友情の芽生えともとれるが「同性愛の一夜」ともとれないことはない。
禁断の友情、というのはあまり例を知らない、禁断の愛、というのはテーマとしてはよくある。ロミオとジュリエッタのように敵同士の異性愛もあるが、その場合、少なくとも同族は二人の結びつきには反対しても、いざとなって相手から狙われれば匿い保護するだろう。同族からも完全に排除され、天地に二人の身の置き所がないと言うことは、キリスト教圏の同性愛のようだ、
それなら、ガブがメイを食べるのを、友情のため我慢するのはどういう位置づけか、というとこれは男同士の肉の交わりを意味し、そうならないよう純血でプラトニックな愛に昇華させようとする努力や苦悩の象徴とも見ることができる。
一話の最後は太陽がでて、果たしてこの二人の行く末は、太陽でも知らない、という終わり方。そして7話の最後は、まぁるいお月様が出て、それが二人のシルエットを浮かび上がらせる、これは単なる友情の耽美というには濃厚すぎる。
で、私は象徴としてプラトニックな男同士の愛、と見たわけだが、実際そのような分析も評論家にはあるのだろうか、私は知らないが私独特のいびつな解釈ではなくかなりそのような読み方はできる気がする。
でも、もしかすると、昔、母を亡くした小猿が、里に下りてきて飼い犬の背中にしがみつき離さなくなった。どこへ行くにもしっっかり背中にしがみついている。犬も嫌がることなくむしろ、小猿が離れたら、近寄って背に乗せる、というような動物の行動をテレビで見たことがある。犬猿の仲と言われるがこんなこともあるのかと思った、作者も、禁断の愛云々、というより案外このようなニュースを見てヒントをえたのかしれん。
歳ぃ行くと何でも単純に考えずひねくれた見方をするもんじゃわ。
あ!それと、ガブは山羊を食べずに生きていけるのか、という疑問にはちゃんと、隠れて小動物(ウサギや鳥)を食べるのが出てくる。これも単純な童話ではなく、生き物は他の生き物の命を食べて生きるという、生物の宿命が象徴されている気がする。ただし、これも幼児向けの話ではない。があえて入れている。』
2 件のコメント:
ヤングマリン懐かしいですね。いい時代でした。
え?知っていたんですか、もっと年配の人だけかと思ってました。
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