2019年11月25日月曜日

お薬師さんへお参りしてお経をあげたこと

 蔵本の眉山ふもとにある「峰のお薬師さん」へお参りに行ってきた。御仏の前でお経をあげさせていただいた。『薬師瑠璃光如来本願功徳経』いわゆる「薬師経」である。お薬師さんは日本に仏教が伝わった飛鳥時代よりずっと流行り廃りに関係なく広く信仰されてきた仏様である。しかし薬師経は般若経や観音経、法華経、浄土三部経(いわゆる阿弥陀経系)、それから真言の咒言、あまり聞いたことがない理趣経と比べてさえもマイナーなお経で薬師経を読誦する人はそれらのお経に比べると少ない。

 お薬師さんは病気平癒や健康維持にご利益がある仏さまで多くの信仰を集めているのにもかかわらず薬師仏本来の「薬師経」があげられないのは不思議な気がする。徳島市でもお薬師さまが御本尊のお寺はいくつもあるが特に信仰者が多いのはここの「峰のお薬師さん」と大滝山(滝の焼きもち本店のあるとこ)の「滝の薬師」が有名である。先日、この滝薬師の祈祷日にたまたま行き合わせたが、般若心経やいくつもの真言の咒言が聞こえてきたが薬師経は読誦されていないようだった。

 宗派をまたいで広く読まれるお経をいくつかまとめた「お経の本」が何種類も出版されているが上記のメジャーなお経はどの本にも入っているが薬師経はまず入っていない。なんで薬師仏を拝む人は多いのに薬師経がマイナーなお経になっているのか。それは各宗派にはその宗派が最も重要と考える仏さま(根本仏)の関係から所依のお経、受持すべきお経が(つまりその宗派で大切にされているお経)決まってくるが、薬師如来さまを根本仏とした宗派はないからであろう。

 薬師経は一般のお経の形式と同じで「如是我聞~」で始まる。そして「お釈迦様がおっしゃるには~」、とそれを聞いた弟子の名とインドのヴァイシャリーという地も明らかにされ、「お釈迦様がおっしゃるには~ここを去ること遥か彼方にこの世とは違った別世界、浄瑠璃世界があり、そこにいらっしゃる瑠璃光如来が十二の大願を立て~」と、その大願の一つ一つが明らかにされる。その十二の大願が薬師経のエッセンスである。特に第六と第七の大願が重要で、衆生の健康と病気平癒を約束している。この大願にすがって人々はお薬師さまを拝むのである。

 今日の峰のお薬師さんでは参拝者は全く見かけず、カメラをもって紅葉を撮りに来ている人が一人いただけである。

 下が峰のお薬師さんの紅葉


2019年11月24日日曜日

神山に行ったこと

 4K・8K徳島映画祭が22~24日まで開催されている。開催地は(都会人から見れば)四周山に囲まれた奥山の雰囲気が漂うところ、そして開催会場は小学校の廃校舎、「まぁ、なんで!よりによって、こんなところで!」と思ったが、神山町は町や県が力を入れてITを押しすすめていて、過疎地起死回生のいろいろな試みをやっている町と聞くから、たぶんそんなこともあってここで開かれるのだろう。昼すぎに到着し会場の旧校舎にしつらえてあるテーマごとの各ブースを回った。ゴーグルつきのヘッドギアのようなものをかぶってみる立体的映像や360°のスクリーンなどなど、興味深いものもあったが会場全体に入っている人が少ないため、どれも閑散としていた。ただe-スポーツコーナーは子供や若い子がいて賑やかだったが、そもそもわたしなどはe-スポーツの意味さえ分からない。なんかテレビゲームのようだが、どう違うのだろう?

 旧校庭の隅の銀杏が色づいていた。

 そのあと、来たついでに神山森林公園まで足を延ばしたが途中、車道と遍路道がクロスしているところがあり車で走っていたのだが私は助手席に乗っていたので表示に気が付いた。建治寺という寺には行ったことはないが、以前、人形浄瑠璃で建治寺霊験記を見た覚えがあって、「阿波の鳴門・巡礼おつるの段」以外にも徳島が舞台の文楽があったことと、その時まで知らなかったお寺にこんな霊験記があったことに驚いた記憶がある。

 「ああ、ここに巡礼道があるのか」

 たのんで車を止めてもらい、遍路道をみた。ここから1Kmちょっとの距離である。時間があればここに車を止めて参拝したいが、限られた時間だし、私一人ではないので、それはできなかった。

 文楽を見たのはかなり昔なのであらすじは忘れていた。帰ってネットで検索すると以下のようなものであった。やはり霊験記の一つである。文楽好きの人で壺阪霊験記は知っていても建治寺霊験記などはほとんどの人が知らない。それもそのはず、長い間(100年くらい?)上演されていなくて最近復活上演したそうだ。

あらすじ

実録 建治山御法之花 -貞阿上人猪行場の段-

忠蔵と左代の兄妹が、仇敵を追って敵討ちの旅にでたのが三年前。長い旅路のはてに弘法大師のお告げを聞き、阿波の霊場十三番札所大日寺奥之院建治寺にやってくる。
そして、建治の滝で滝行をしている宿敵石川藤斎に巡り会うが、藤斎は人々に崇め慕われている貞阿上人その人であった。仇討ち装束に身を固めた兄妹は、滝行をする無心の上人に後ろから斬りかかろうとする。目に入る「正道頓悟居士」と彫られた背中の入れ墨。それは亡き父の戒名であった。そのとき、天にわかにかき曇り雷鳴轟く雲の彼方から、建治寺の本尊蔵王大権現と亡くなった父正作が現れる。父は兄妹に、藤斎のこれまでの所行を語って聞かせる。故意に殺めたのではないこと、返り討ちにしてくれとの書き置きはお家再興を奮起させるためのものであったこと、正作の戒名を入れ墨にまでして菩提を弔っていたこと、大勢の人々に功徳を施し幼かった兄妹のことはかたときも忘れなかったこと、再仕官をさせるため無抵抗で討たれる覚悟をしていること等々である。真実を知らされた兄妹は、仇敵藤斎憎しの考えを改めて、藤斎の功徳に感謝すると共に、悲願であるお家再興を胸に秘め、心静かに国元へ帰っていく。

 霊験あらたかな「蔵王大権現」さまであるようだ、是非一度参拝したい。 

2019年11月17日日曜日

廃寺の遺跡はどこに?(金剛光寺)

 これまでに廃寺をいくつか紹介したが、予想外に規模が大きく、また創建がこれまた意外に古く奈良期以前に推定される寺に美馬の郡里廃寺と川島の大日廃寺があった。昨日、見学に行った廃寺も規模といい古さといい、この二寺に匹敵するといわれている廃寺である。場所は八万村と上八万村の境界に近い(八万村に属している)字名が寺山というところである。もう名前からして寺があったと思わせるような地名である。以前からその地方の人の言い伝えで「大昔になぁ、ここにゃぁ大っきな寺があったんぞぉ」と伝承された記憶が自然と地名になったものであろう。そのような記憶が再びここに寺を、という希望になり、規模は小さいが、その廃寺の名前であった「金剛光寺」という名を冠した庵(金剛庵)を江戸時代に作っている。その庵の場所は当然昔あったであろう金剛光寺の寺域地であった。しかしその金剛庵も昭和三十五年に火災で焼失して今はない。

この金剛光寺廃寺は発掘も進んでおらず、礎石なども見つかっておらず、たまたま土中から見つかった個人所有の何枚かの古代瓦があるだけである。そのため寺域や伽藍の配置の確定もされていない。先に紹介した「郡里廃寺」や「川島廃寺」などは発掘物以外にも礎石も見つかっており、伽藍配置もほぼ確定されていてその遺跡には丁寧にその寺域や伽藍配置を示す説明板も設置されている。しかしこの金剛光寺廃寺はそのような説明板もない(寺域、伽藍配置が確定できないので当たり前である)。だからオイラが見学するといっても昔からの言い伝えで寺域の金堂付近に江戸末期に建てられた「金剛庵」を見るしかないがこれも60年も昔に焼失している。しかし庵の跡地は目に見える形で残っているためそこを見学するしかない。そこに古代、金堂がありそこを中心に伽藍が広がっていたと、自分で勝手にイメージするしかない。

 古代廃寺があったといっても物証はわずかの古代瓦くらいしかない。古代にこの地に瓦葺の立派な建造物があったと推定され、まず寺であったと思われるがそれ以上はわからない。しかしこの古代から続いたであろうこの金剛光寺が中世には確実に存在していたという物証はある。それはこの寺のために作られた梵鐘が発見されたからである。おそらく中世末に何らかの理由で転売され、再度移った結果今、京都市のはずれの(旧丹波国)峰定寺にその梵鐘はある。その銘にこう刻まれている(下はその拓本)

 永仁四年(1296年)というから鎌倉時代である。地名は阿波国以西郡八万とある。以西郡とは中世から近世初にかけて用いられた「名東郡」の別名である。そして八万はこの地である。寺名も「金剛光寺」と記されている。他にも願主や工人の名前も読み取れる。この頃に「金剛光寺」が存在していたことは確実である。ではいつ頃、どのような原因で廃寺になったか、これについては郷土史家の見解を聞くとおおむね戦国時代の争乱(長曾我部軍と在地勢力の)から戦火にかかり廃寺の原因となったといわれている(異論もある)。また戦国期のこの騒乱によって廃寺となり、その結果として梵鐘を手放したか、その前後・因果関係はわからない。ともかく近世以前(江戸期より前)に廃寺になっていた。

 このように推定できる資料、遺物、遺跡が少ない中でも郷土史家は熱心に調査研究をすすめいくつかの注目すべき見解を発表している。以下のようなものである。

● 寺域の具体的な広さや現在の地籍は確定していないが、「金剛庵」の跡地あたりが旧金堂の位置に推定される。

● 出土した奈良期の瓦から古代寺院と思われるが、創建時は茅葺であったことも考えられ、奈良期以前に遡れる可能性があること。

● 伽藍配置が次のように推定されること。

● 寺院は東面していたこと(普通、南面である)、ゆえに参道は東から西へ直進していたこと、その参道は佐那河内・入田へ行く道と交わっていたこと。

 上記の伽藍形式は阿波の廃寺の多くの場合が法起寺式であるのに対し、これは天王寺式伽藍によく似ているが天王寺式は講堂、金堂、塔、中門が一直線に並ぶのに対し、この金剛光寺は塔が中心線からずれているのが特徴である。また中心線が東西というのも変わっている。

 注意したいのは、古代の参道や往還(街道)は現代の道からは推定できないし、地形そのものも変わっている可能性すらある。もっとも山までは変わらないだろうが、微高地や低地は古代と比べ変化している可能性がある。というのもこのあたりは園瀬川と星河内川の二つの大きな川が流れているが、歴史時代においてたびたび流路を変えているのでその都度地形が抉られたり堆積したりを繰り返すからである。近世になって堤を築くようになって流路が安定する。

 以上のような予備知識を持って八万村寺山の廃寺跡を見学に行った。

 まず唯一の手掛かりになりそうな「金剛庵跡地」を地図で探して見当をつける。いろいろな地図を当たると「金剛庵」が載っている地図があった。下の地図で「金剛華寺」とあるのがその庵の跡地である。

 写真を撮ったいくつかのポイントと方角を以下の地図で示す。

 そのポイントの写真
 ①、堤防を挟んで園瀬川が流れている。左に潜水橋が見える。川を渡って右に見えている山のすそあたりに金剛光寺の伽藍が広がっていたと思われる。

 ②、潜水橋を渡り堤防を下りるとお不動さんの石仏があった。

 ③、今は農地が広がるばかり

 ④、⑤、このすそあたりに伽藍が並んでいたのだろうか。


 さて肝心の「金剛庵跡」であるが、焼失して60年もたつためか成長力の旺盛な竹林に浸食されて大藪、ジャングル状態が次の⑥、分け入って入るのに怖気をふるうよな状況である。

 ⑦、しかし無理して行けるところまで行ってみた。もはや礼拝されることのない供養塔が崩れて散乱していた。「大法師蓮〇・・」と読める。この辺りが「金剛庵跡」すると旧金堂の推定地か?

 寺域の広さはわからない、もしかすると今のバイパスあたりまで伸びていたかもしれない、というのも下の地図の青丸の部分に「金剛光寺跡」という石柱が立っているが、位置から考えると広大な寺域の最外郭にある大門(普通は南大門だが東西に中心軸があるので強いて言うなら東大門か)跡かもしれない。発掘調査も進まないからやむを得ないがこの広大な廃寺跡を一本の石柱で示すのには無理がある。

 青丸部分の写真、金剛光寺跡とはっきり読める。金剛庵跡は奥の左に走る堤防が山で切れるあたりにある。(この写真は今日撮影)

 動画 地図③の位置から南半分あたりを撮影した。

2019年11月9日土曜日

内谷の板碑(阿弥陀三尊種子)

 先のブログで矢野古墳を見に行ったことを取り上げたが、その帰りである。考古資料館をでて数百メートル北に行った道路沿い、畑の真ん中に大きな板碑が立っている。板碑には以前から興味があり(ブログでもよく取り上げた)もっとよく見るため道路端に自転車をとめて下りた。近くまで寄って詳しく観察するにはちょっとためらいがあった。畑地の真ん中である。当然所有者もいる。しかし畑地にも隣接地にもそれらしき人はいない。断るすべもない。畑地とは言っても作物を作っているわけではなく雑草が生えて果樹が数本ある遊休地である。失礼して観察した。

 近寄ると大きな板碑である。私の丈より大きい。今まで見た中では最大級の高さがある。花立には枯れていない青々した樒が供えられているのを見るとまだまだ信仰が生きている。手を合わせてから石板の表面の図柄文字を読み取ろうとした。しかし摩滅が進んでいるし、表面のあちらこちらには地衣類がはびこっていて図柄文字を消していてほとんどわからない。それでも近寄ったり、少し離れたり、斜めから見たりとなんとか認識しようと悪戦苦闘したが板碑の専門家でもないオイラが解読できるのはたかが知れている。何とか図柄に 灬灬 のような模様が入っているのがわかったのと右下の文字列の一部『・・之志者為法界・衆・・』がかろうじて読めただけである。あとは図書館へ行って関係文献を調べて確認するより手はないと、それ以上判読に費やすのはあきらめ、写真を(ガラケーの写真機能で)撮った。(文字が判読しやすくなるかもと思い、別の日の早朝、ちょうど朝日が斜め正面から指すのでもう一枚撮った。下はその二枚の写真である。

 さて次の日の県立図書館である。まずこの板碑の正確な地籍番地を知るため徳島市国府町の住宅地図を広げた、
 
「え~っと、考古館からでて変電所の敷地の途切れるあたりやから~」

 ペラペラめくって確かめたが、なんと、国府町の地籍と思っていた板碑の場所は徳島市境からわずか数メートル入った石井町であることがわかり、石井町の住宅地図に代えて再び探す。しかしこの板碑を特定できたのはネットのググルビューの力であった。あらためてネットのバーチャルマップには感服した。住宅地図帳のそれらしき畑には地図記号で記念碑のマークがしるされているがそれが果たしてこの板碑やらどうやらわからない、その時威力を発揮したのがググルビューであった。ネットでそこのググルビューを見るとまさに上記の写真の板碑である。で、

わかった地籍は、石井町字内谷33の2 である。まちがいない!

 次に知りたいのは板碑の表面に刻印されている図柄や文字である。これはその板碑の学術調査書でもあればそれで知れる。幸い図書館には石井町教育委員会が平成十六年に町内の板碑を調査報告した小冊子が見つかった、テーマは『石井町の板碑』、繰るとすぐ見つかった。

 白黒の写真も入っているが、こちらはワイの撮った写真よりまだ解像度が低く写真からは図柄や文字を読み取るのは難しい。でもさすが専門委員の調査だけあって板碑の表面に刻されている銘文は全文解読されて載せてある。それが下の文字列である。

 注意してもらいたいのはこの四行の文字列、そのままの並びで石板表面に刻されているわけではない。それぞれ四隅に配置されるのであるがどこになるか確定しなければならない。まず4行目『右彫刻之志者為法界衆生也』はその文字の一部が私でも読み取れたため板碑の右下部に入っているのがわかる。このようにあらかじめ彫られている文字がわかっていれば、わかりにくい文字でも判読の手掛かりになる。そう思って私の撮った写真をもう一度よく見ると『大日如・・・』と読める文字が左上部に入っている。写真で「大日如・・・』までは何とか読み取れるがあとの文字はなんぼぅ頑張ってもワイの写真から読み取ることはできない。しかしつづく文字が、『・・・来三昧耶形』、となるのは間違いない。

 残るのは右上部と左下部の文字列であるが、『嘉暦第四年・・』の年号は一般的に左下部に彫られているのが多いことを考えると『本地法身法界塔婆』は右上部であろう。
 するとこのような文字の配列であろうか。
『嘉暦四年』これは西暦1329年である。時代区分は鎌倉時代、鎌倉幕府は1333年に滅びるからその時代の最末期である。

 しかしこの銘文の文字の配列はこのようでも、摩滅して認知し難くなった板碑の図象がどんなものであったかはイメージできない。もっと知るためにはさらなる説明を読まなければならないが、この報告書の小冊子『石井町の板碑』ではそれ以上はわからない。そこで今度は『石井町史』の歴史編・中世の板碑群のページを見ると図柄、配置などが説明されている。しかしそこで用いられている言葉(術語)の意味もよく分からない。基本から勉強しなければならない。

 まず、板碑の基本形を調べると一般形はこのようなものである。

 この内谷の板碑は分類上では『阿弥陀三尊種子』である。板碑の基本形を見てわかるように仏尊は図象ではなく梵字一字で表す、これを「種子』(しゅじ)という。仏尊の配置は阿弥陀堂などにある弥陀三尊像の仏像と同じ、本尊が阿弥陀如来、左が観音菩薩、右が勢至菩薩であるが、図象で表すのでなく板碑の基本形を見てわかるように仏尊一体を梵字一字(種子)で表すため三尊像は種子が三つ並ぶことになる。これはよくイメージできる。内谷の板碑を見るとなるほど種子(梵字)の一部らしいものが上部中央に大きく見えている。ここで阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩のそれぞれの種子を調べてみると
 梵字である種子は不思議な形をしている。「文字」であるといわれても古代インドの文字で楔形文字やエジプトの象形文字のようにほとんど死文化しているが、今でも葬式や法事の時に白木の卒塔婆にお坊さんがこの梵字を描いているので梵字そのものは見たことがあるだろう。文字であるので当然、読みもある、日本では、キリーク(阿弥陀如来)、サ(聖観音)、サク(勢至菩薩)、と読んでいる。

 摩滅してわかりにくいが内谷の板碑は三尊の種子が刻まれているはずだ、上部に大きく刻印された曲線が見えているがこれはキリーク(阿弥陀如来)の種子であろう。板碑の基本形の三尊の並びと大差がない形で彫られているものと思われる。灬灬 のような模様は基本形で言えばその種子を載せている蓮華台である。種子の並びは基本形と同じにしても、資料には現代の板碑の遠景写真や銘文は載せられているが、板碑の図象がわかりやすいイラストとして入っているわけではない。具体的な図柄は資料の説明文や摩滅してわかりにくい板碑の写真から想像しなければならない。資料を見て私なりのイメージを描いてみようと思う。

 まず私の撮った写真を見る。外形からは板碑の基本形の三角の頭、最上部に刻まれた二本線が確認できる。その下には何やら図象があるがよくわからない。その下には大きく刻まれたキリーク(阿弥陀如来の梵字)が見える。そのすぐ下は蓮華台である。その下はここも何やら図象があるようだが確認できない、そしてその下には蓮華台がはっきり見える。写真で確認できる図象はこれくらいである。
 次にその図象の説明文を読む
 石井町史・嘉暦四年の板碑より~

 『本尊のキリーク(種子)の上には杉形に三弁宝珠を積み、本尊種子と同様火炎光背で取り巻いている』

 という説明になっている。最上部は三弁宝珠が杉形(三角)で火炎光背が取り巻いている(私の撮った写真でもそういわれてよく見ると最上部に三角型に丸が三つあるのがわかる、これが宝珠であろう)。
 そしてその下にはキリークがあり、同じく火炎光背で包まれていると読める。
 キリークの下には私の写真では判読不能の図象があってその下に蓮華台がある。ではその判読不能の図象の説明文を読んでみよう。

 『本尊のキリーク(種子)、最下部には蓮華台があり、その上に三鈷を平に置き、その中央に独鈷を立ててその両方に脇侍がある(つまり左、観音菩薩、右が勢至菩薩の種子、「サ」と「サク」の梵字が配置されているのが基本)しかし、この板碑の場合、観音の種子が本尊の種子と同じ「キリーク」である。』

 最下部の蓮華台その上に横たわる三鈷、中央に独鈷が立っていて両脇に侍仏の種子、これらの説明からブログパーツを寄せ集め私が作った内谷の板碑のイラストが下の図である。

 中央部の宝珠、火炎、種子、蓮華台、三鈷、独鈷などの図象を描いた左右の端には文字列が刻されている。

 以上が私がイメージした内谷の板碑である。

 実は全国には珍しいこのような阿波の板碑ではあるが、同じ阿波の国の中に二基だけ内谷の板碑と意匠がよく似たものが存在することがネットで県内の板碑の写真を繰っていてわかった。ここから北へ数キロ離れた寺の境内にその二基がある、そこでここまでブログを書き進めたのを中断して見に行った。(11月8日)

 行ったのは徳島市北井上にある「威徳院」、下が威徳院遠景、道を挟んでお寺が隣接している。左の少し小さいお寺が威徳院である、右は蔵珠院でなんかデェジャブ感がある、威徳院を見たついでに蔵珠院にもお邪魔したら「サザエの泉」があった。デェジャブ感があるはずやわ、二年前のやはり11月に「サザエの泉」を見に来てブログを作ってた。
 栄螺の泉ブログはここクリック


 さて、境内の隅にその板碑はあった。三昧耶形の板碑が二基立っている。手前に説明板があり、読む。

 (1)の板碑

 (2)の板碑

 いや~よくわかる。図象も700年もたっているのにかなり鮮明である。文字も内谷の板碑に比べワイでも判読できる文字が多い。よくわからなかった「三昧耶形の板碑」はこの二基を見るとよくわかってくる。
 まず、最上部の三弁宝珠・火炎光背とそのすぐ下のやはり火炎光背で囲まれてキリーク(梵字)がある。そしてその下には〇で囲まれた二つの種子が並んでいる。そして写真を拡大して二つの種子の間をよく見ると逆T字型の図象が確認できる。三鈷と独鈷であろうと予備知識を持ってなおもよく見ればなるほど下に三鈷(五鈷かも)が水平に横たわりその真ん中で独鈷が立っている。(独鈷の左右に種子が配置されている)、そしてその下は蓮華台である。
 結局、私が想像していた三昧耶形の板碑のイメージとそう変わらないのがわかった。

 それにしても一般的な板碑とはずいぶん違っている。図象と文字列の関係にしてもなにかちぐはぐな感じがする。本尊の種子は阿弥陀如来のキリーク、その場合、他の二体の脇侍は普通観音菩薩の「サ」と勢至菩薩の「サク」である。しかし観音菩薩の位置にはサではなく阿弥陀のキリークになっている(もう一つは定型どおり勢至菩薩の種子のサクである)。この三尊の配置も変わっているが、そのどこにも大日如来は出てこない。しかし板碑の文字列には『大日如来三昧耶形』とある。なぜだ?大日如来の三昧耶形だと阿弥陀如来になるのか?大日如来は仏像としてよく目にするのでわかるが三昧耶形とは何なんだろう。
 詳しくは専門的過ぎて私の理解の埒外だが、三昧耶形とは密教に於いて、仏を表す象徴物の事であるという。といっても種子(梵字)ではなく、仏が持っている持ち物のような具体的な物品である。とするとこの板碑の図象でもっとも目を引き特異なモノとは蓮華座にのった三鈷と独鈷の組み合わせ形か最上部の三弁宝珠であろう。仏を象徴する仏具が三昧耶形だとするとこれらの図象が三昧耶形ということになる。

 三弁宝珠、逆T字型に組み合わせた三鈷、独鈷が三昧耶形だと思われる。この三昧耶形の板碑が他にも多くあれば比較区分するのによいのだが、このようなかたちの三昧耶形は阿波の板碑以外例はないようである。二次元的(平面)な板碑の三昧耶形は例が少ないが、それじゃあ立体的なものでこのような配置のものはないか?つまり種子の代わりに仏像本体や本物の独鈷や三鈷を使ったものはあるのか?当然そのような立体的なものは寺やお堂の本尊として祀られているであろう。ネットを駆使して調べるとあった!

 山口市 真言宗 浄福寺の御本尊である。百聞は一見に如かずでまず写真をみてもらおう。

 静謐な雰囲気で瞑想した阿弥陀様や阿弥陀三尊像を見なれているものからするとこれまたかわった雰囲気の阿弥陀三尊像である。印は阿弥陀様の定印だがお体は赤く、そしてふつう如来さまは飾りとなるものをつけていないが、この阿弥陀様は瓔珞(ネックレス)、宝冠を身につけている(もっとも如来さまの中では唯一、大日如来さまはお飾りをつけている)。そして脇侍の仏は不動明王さまと愛染明王様である。本尊の蓮華台座の下には内谷の板碑のように逆T字型になった独鈷と三鈷が組み合わさっている(もっともこちらは独鈷が横に寝て三鈷が立っている)。あまり知識のないオイラでもこれはかなり密教色の強い阿弥陀三尊仏像であることがわかる。中尊がもし大日如来ならばなるほど密教(真言宗)の御本尊と納得できるが、それが阿弥陀様である。

 その阿弥陀様の異形のお姿(お飾りなど)をみて、これ、ホントは大日如来さまじゃないのかとおもうが、でも阿弥陀様に間違いないそうである、そうであるのなら何かの(?)わけで大日如来さまが阿弥陀様に化身していらっしゃるのじゃないのかしらん。とおもった。しかしそんなことがありうるのだろうか?実はありうるのである。大日如来さまはこの世のすべてに偏在し、全宇宙そのものが大日如来さまなのである。だからその大宇宙に存在する他の如来、菩薩、明王、などに身を変えることもあるのだそうである。

 中世人のいろいろな仏や神々に対する世界観を見ているとちょっと近代人には理解しがたいものがある、融通無碍というか彼我混然一体となった神仏観があるように思われる。仏さまと神様との関係で本地垂迹とか神仏混淆とか言われるが、今見てきたように仏様同士の立場からも阿弥陀さまがじつは大日如来でもあった・・・ということがあるのである。
 よく言われるのが熊野の三社権現・本宮の神様は実は阿弥陀様である(本地垂迹)、しかしその阿弥陀様も広い大宇宙の根本仏である大日如来さまがお姿を変えている・・・・もう二重三重に神や仏が融合しまくっている。ワイはこういうの好っきゃわ。

 この内谷の板碑の大日如来三昧耶形は本尊の種子は確かに阿弥陀さまであるが、根本仏である大日如来さまのお姿の一つでもある。そのためこれを大日如来云々と名づけるのも何ら矛盾するものではない。その阿弥陀さまも本地として熊野の神様に跡を垂れているのである。だからこの内谷の板碑には、真言を唱え大日如来さまとして拝んでもいいし、浄土に往生を願うため阿弥陀さまとして拝んでもいい、またこのころ流行ってきた熊野の神様も本地は阿弥陀であるので阿弥陀の種子を刻んだこの内谷の板碑を熊野信仰の対象として拝んでもいいわけである。もしかすると江戸時代、隠れキリシタンがこの三鈷と独鈷のクロスの組み合わせを密かに十字架に見立てキリシタン信仰していた可能性だって・・・いや、それはないな!いくらなんでも、でも吉川英二はんの鳴門秘帖では阿波の原士の浪人(お十夜孫兵衛)が隠れキリシタンやったっちゅう設定やから可能性としてはゼロではない、ま、小説の話だが。

 こういう中世の信仰対象物を調べるとほんとに奥が深いのに気づく、生半可な知識理解では歯が立たない。もっと板碑のことを調べようと思ったが、それには「仏教の概論」から始まって、「密教」、「中世の阿弥陀信仰」「熊野信仰」、悉曇文字・・・などなど幅広い分野を勉強する必要がある、とてもワイでは歯が立たない。ブログを書くにあたってはごく浅い表面的な理解(それも独断と偏見が盛り込まれている)しかできなかった。

2019年11月3日日曜日

国府矢野の古墳

 矢野古墳は市立考古館のすぐ裏の山にあるが今まで見学に行ったことはなかった。昨日、そこを見学してきた。
 考古館より少し山を上ったところに位置している。国府の平地は、昔は暴れ川でたびたび流路を変えていた鮎喰川の沖積平野である。この古墳が作られた古代にその沖積平野は水はけが悪くたびたび浸水もしたのだろう。だからこの時代の住居、建築物は高地か山すそにある。この矢野古墳も山すそに位置する。

 古墳群のあるところから市立考古資料館と平地を望む。

 説明板

 時期は6~7世紀である。前にブログでとりあげた徳島県西部にある段の塚穴(横穴式石室古墳)と同じ時期である。古墳時代の最後期といってもよいだろう。古墳時代も後期になるとこのような横穴式石室古墳が中心となる。羨道のある構造的にもしっかりした石室を持っているので改葬や、後から同じ石室に何体も埋葬できる。

 石室入り口

 石室、見えにくいが石室奥の壁は一枚の岩である。