我々がイメージとして持っているもっともポピュラーなお姿は、やはり学校の歴史の教科書の口絵などに必ず載っている左のような半跏思惟像であろう。しかしこれは飛鳥奈良時代までの流行であってそれ以後(今まで約1200年間)作られたのは坐像が多い、たまに立像もある。
一昨日拝観に行った鳴門大谷の東林院の弥勒様も座位である。
手には何も持っていないがこの手と指の形は「転法輪」といわれ、衆生に説教されている。
この弥勒様と同じころ造られたのが下の醍醐寺の弥勒様、快慶作と言われこちらは国宝になっている。両手を下におろして組み、小さな五輪の塔を持っている。
次の弥勒様は絹本著色像(福井・長源寺、鎌倉時代)でやはり小さな五輪の塔を持っている。
日本の弥勒様は神さびて、神々しいイメージを持つが、それが伝わってきた中国、西域、さらにはルーツといわれるインドではどんなお姿なのだろう。
まず中国、7世紀、中国史上唯一の女帝だった則天武后は自らを弥勒菩薩の化身と称していた。そしてその則天武后のお顔に似せて作ったといわれているのが下の龍門石窟最大の石仏である。
しかし今では則天武后の顔に似せて作ったことは浮説にすぎないと否定されているが、この優し気で気品のある美しい顔は高貴な女性を思わせるものがある。
もっと西の方へ辿っていき時代も遡ると、われらのよく知っている仏像の始原の地、ガンダーラに行きつく。そこでそのガンダーラの弥勒菩薩様を見ると
なんかギリシア彫刻の美術品を見るようで弥勒菩薩の仏像という感じはしない。立像で右手はとれているが左手には水瓶(油壷という説もある)を持っている。2~3世紀ごろの作といわれる
次もガンダーラの弥勒菩薩像、こちらは腰を掛けている姿で足を交差させている。日本では半跏思惟の形はあるがこのように足を交差させている仏像はまずない。中央アジア独特の形だろうか。
仏像のルーツはガンダーラと言われているが実はほぼ同時に中インドのマトゥーラでも仏像が作られ始めた。下は2世紀のマトゥーラの弥勒菩薩像である。ちょっと衝撃を受けるほどすごいお姿をしている。
腰にうす衣をまとっただけ、それも沐浴後じゃないのかと思われるほど、薄物の布がぴったりと股間に張り付いている。
「これ!ほんまに、弥勒さま?間違いじゃないの?」
と言われそうですが間違いありません。この像にはしっかりと弥勒様のインドのお名前「マイトレーヤ」が銘記されています。
右手を挙げて無畏印(せむいいん)の形です。これは手を上げて手の平を前に向けた印相。漢字の示す意味通り「恐れなくてよい」と相手を励ますサインである。恐れなくてもよい、とかいっても現代の日本でこんな格好の男性が若い女性に近づけばえらいことになりますね。左手は水瓶を持っています。
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