眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山
懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも
船王
この歌だけ見ると船王さんは、後代の土佐日記の紀貫之はんが土佐から都へ帰るため阿波沖を通ったように自身船に乗っていて詠んだ歌かなとおもうがそうではない。万葉集巻六のこの一首の位置や序の詞書を見れば、海が見下ろせる難波の宮(大阪の上六台地あたり)にいて沖合を淡路あるいは阿波の方向にむかって進んでいく船を見て(あるいはイメジして)詠んだ歌とわかる。
沖合を行くあの船、海上遠く眉のように見える山を指して進んでいるが、今夜の泊りはどこかしら、というような意味であろう。実は難波の宮から西方に広がる海上に阿波の山は見えない、摂津播磨か淡路の山ではあるが、はるかとおくかすんで見える山を阿波の山と表現したものであろう。
というわけで「阿波の山」という言葉は入っているが万葉集と阿波の結びつきはかなり薄いものと言わなければならない。しかし、この歌を由来としてわが徳島市の正面にそびえる山を眉山と命名し現在でも呼び親しまれていることを考えるとわずか一首ではあるが万葉からうまれた言葉がここ徳島で今に生きていることがわかる。この万葉歌は徳島では昔から有名で、眉山のいわれとしてわが郷土の大人も子供もみんな知っている。
その歌の万葉歌碑をみてみよう。まず鮎喰橋のたもとにある歌碑、向こうに眉山が見える。
そして眉山山頂にある万葉歌碑、石碑に刻まれた文字は万葉学者の「犬養孝」さんが揮毫したものである。原典とおなじ万葉仮名(漢字の音をあてて和歌を詠んでいる)である。
淡路島や紀伊水道の向こうにかすかに見える紀伊の山々、このような山を見て「眉のごと・・・」と詠んだのであろうか。
山頂展望台から撮った動画
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