今では有名な敵討ち、といえばだれでもまず「忠臣蔵」を思い浮かべる。忠臣蔵の発端となった江戸城松の廊下の刃傷は18世紀初頭であるからそれ以前に人々の口に膾炙する敵討ちはなかったのかというとそんなことはない。それまで日本史上一番有名な敵討ちは鎌倉時代の初めに(12世紀末)に起こった曽我兄弟の敵討ちである。
赤穂浪士の敵討ちが起こった江戸中期以降も曽我兄弟の敵討ちはそれに勝るとも劣らないくらい有名で江戸時代を通じてどちらの敵討ちも読本、絵草子、講釈、浄瑠璃、歌舞伎などに取り上げられ、史実とはかなり違う歪曲を受けながらも人気であり続けた。江戸歌舞伎では新春恒例の「曽我の敵討ちもの」(毎年少しづつバリエーションを変えている)が毎年取り上げられていることでもその人気の高さがわかる。
その曽我兄弟を祀った神社があるというので一昨日お参りに行ってきた。石井町の南の山麓、城之内にある。曽我兄弟のそもそもの本領は相模や伊豆であり、また敵討ちを行ったのは富士の裾野である。なぜここ石井に?と不思議だが、神社の由来書をみて納得した。曽我兄弟の家臣の鬼王丸というのがここ石井町にある昔からの名族・武知氏の祖先なのである。兄弟の死後菩提を弔うためこの地に箱根権現とともに祀ったのがこの神社の最初だそうである。
少し山を登るがちょうど落花の時期、坂は桜の花びらの絨毯が敷かれていた。
曽我氏神社
由緒書き
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