昨日、BSの教養番組は『乳香』についてがテーマであった。乳香とは名前からして官能的な香料である。
「ちちのによい」はヒトに様々な反応をもたらす。おおむね快感であることが多い。またある欲情を引き起こしたりもする、まあどちらかといえば好ましいによいである。
まずヒトが生まれたとき、「ちちのによい」は、これは絶対的に快感であり、欲情を引き起こす。そりゃそうだ、生まれたての赤ん坊の唯一の飲食物は「ちち」以外ないから当たり前である。しかし、大きくなると(生理学が明らかにしたところによると、)食べ物が離乳食になるにつれ、ちちを消化する酵素が無くなり、ちちを特に好まなくなるそうだ。昔の日本人の大人はほとんどちち(動物のちちだが)を飲まない為、消化の生理が変わってくる。消化酵素がないため急に飲むと下痢したりする。私らのガキの時分は「ちちくさい」といってちちのによいのする食品はお年寄りは嫌ったものだ。
しかし、今は幼児期に離乳しても、学校給食でちちは中学まで毎日飲むから、当然消化酵素もずっと出続ける。だから今のヒトにとっては「ちちのによい」はなつかしくなじみぶかいものである。また記憶も定かでないが幼児期の母のちちのによいはかすかに覚えていて、それは母を(母乳を)求めて泣いた切ない思い出となるものである(胸キュンだがここちよい)
そう思うと、この『乳香』、今まで見たことも嗅いだこともないが、どんなによいか知りたくなった。
ところが番組を見ていると
「なぁんだ、乳香ってちちのによいに基づくものじゃなかったんだ。!」
植物性でちちのによいとは全く関係がない。乳香とは日本語ではこう書くが英語では「Frankincense」、Frankは正直、率直、incenseは香料だから、ぜんぜん意味が違う。なんで日本語では乳香なのか、というとこの香料をとる木の樹液が固まるとまるで乳のようだからというだけで名づけたものだ。
官能的な名前の香料だが、ちちのによい、とは関係なかった。それで少しはこの香料の匂いを嗅ぎたいという欲求はおさまったが、それでも未知の香り、なんとかして嗅ぎたいなぁ。
さて、その官能の源となる「ちち」とは、ズバリ、母乳である。幼児が母乳を好むのは当たり前であるが、大人になっても母乳を好むとするなら、これは変態扱いされかねない。裏に隠れて嗜好するか、マニアックなアダルトビデオで楽しむ以外ないだろう。どちらにしても、おおっぴらに人に話せるようなお行儀のよいものではない。
しかし、天才的な文学者がそれを小説に書くと、価値の高い純文学となり、えも言われぬ耽美的な世界が展開される。
三島の『金閣寺』である。
国家滅亡の危機にあった昭和20年の5月、寺の徒弟だった主人公は京都・南禅寺の山門に友人二人と登楼し、周りの新緑を眺めている。そしてそれを目にする。
新緑の中の庵の茶席に目もあやな振袖を着た美しい娘が茶をたてている。対するは婚約者であろう若い士官(軍人)である。(時代背景から、今生のなごりに娘に会いに来たのであろう、やがての死が暗示されている)
声は聞こえないがしめやかに何かを話している。やがてお薄の茶を娘は士官にすすめた。士官は正座したままその茶碗を両手でもっている。何かを娘に言っている。娘はすこしうなだれたようだ。
すると正座していた士官は茶碗をその高さで捧げたまま膝行(正座の膝を折ったまま膝で進む)
して娘の前に来た。
その時、信じがたいことがおこった。娘は姿勢を正したまま、俄かに襟元をくつろげた。固い帯裏から引き抜かれる着物の絹ずれの音が聞こえた気がした。
白い胸があらわれると白い豊かな乳房の片方を自分で引き出した。娘は乳房を両手で揉むようにした。
あたたかいちちがほとばしり、泡立った鶯色の茶の中に滴りを残しておさまった。男は茶碗をかかげ、その茶を飲みほした・・・・・・・・
私が二十歳そこそこでこの小説のこの部分を読んだとき、その目くるめくような官能美の世界に座っていた椅子から転げ落ちんばかりに感動した。
「うぅぅぅ~、飲んでみたい」
とは思いませんでしたが、これ以後、夏になって食べる『宇治ミルク金時』の抹茶とコクのある甘い練乳のミックスした味わいが必ずこの場面を思い出させました。
それにしても厳粛であるべき最期のひと時であるわかれの茶席で、万感の思いを込めて娘がたてた茶に乳房からほとばしるちちを入れること所望するとは、いったいこんなモチーフ、どこから思いついたんやろ。三島独自のオリジナルか、それとも言い伝えられたそんな実話があったのか。
そしてちょっと疑問なのは、といっても男の私にとってはですが、この婚約者の娘は、この時、士官の子を孕んでいるのです。(小説でそう説明されている) はたして妊娠しただけで出産もしていないのに乳房からちちが迸り出るのだろうか?
このいくつかの疑問に対して私は思い当るところがあります。三島は王朝文学に造詣が深く、その王朝文学作品を換骨奪胎して自分のものとしております。
いくつかの疑問点、つまりモチィーフは?そして妊娠しただけで乳房から父が迸り出るのか?については王朝の日記文学にこんな記述があります。
藤原道長の妹に藤原 綏子がいます。彼女は三条天皇(その時は皇太子だった)の妃でしたが三条天皇は彼女の不倫を疑い、兄である道長に彼女のもとへ行って確かめてこいと、命じます。
道長は妹のもとに行くと、問い詰めるより先に、妹の胸をはだけ、乳をつかみ出し、ギュッと揉みしだきました。するとちちが迸り、サッと顔にかかったのです。それで妹は不倫して子を孕んでいたのがわかったのです。
妹はヨヨヨヨ、と泣き崩れます。それを聞いた三条天皇は不倫した妃ではあるが不憫に思い、「なにもそこまでやることはないのに」と思ったということです。
これを読んだのは三島の『金閣寺』をよんだずっと後でしたが、
「あ、これだ!三島はこれにモチーフを得たのに違いない。孕み女のちちが迸りでるのも同じだ』
と思った次第です。
ちょっととりとめもないちちの話になりましたが、どうでした。気色の悪い話でしたか、気色の良い話でしたか。ワイは・・・・・・・
4 件のコメント:
哲学的お話で僕には難しくてわかりません。
目の調子いかがですか?
いえ、哲学なんぞという高尚な主題ではないですよ。なにせ「おっぱい」の話しですから。
病気というより老化の一種です。調子の上がり下がりはありません。今より見えることを期待しているんですが・・お母さんが最近なされたとのこと、いろいろ教えてください。
物心ついてからは母乳を吸ったことがないので、ぜひ吸ってみたいです。母乳は妊娠していなくても出る人はいるみたいですよ。(^o^)/
20代の時、ワイの銀行員の友達のまた友達にグラマーな(太目)の女の子がいました、その子も銀行員でした。固い仕事ですが、その二人の銀行員はよく冗談を言い合っていました。ある時、喫茶店へワイとその二人で入り、コーヒを注文しました。
その女銀行員もおもろい子で胸が大きいところから、ワイら男二人は「ホルスタイン」(乳牛)と名づけていました。
コーヒが運ばれた卓にはフレッシュがありませんでした。するとその男の銀行員が
「おい、母乳を入れよ!」
と戯れを言うと、女の子は
「ほれ!」
といって胸を突き出しました。今も思い出すと大笑いします。(*^。^*) もちろん母乳チュッチュッチュはありませんでしたが・・・
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