2011年7月5日火曜日

やまさんの海岸物語

 昨日は(ムシデリー)「蒸し照り」で印度のニューデリーのような耐え難い暑さだったが、今日は湿度が低いのかなあ。日照りはきつく暑いが、陰に入ったり、風に吹かれると(サワデリー)「さわやかな照り」の一日でした。

 きょうは海岸に向かいました。
 ムウビメエカで編集したので見てください。音楽以外は面白くありませんのでそのつもりで。

2011年7月4日月曜日

県庁前ヨットハーバー

ムウビメエカで動画を作りました

新しいタブ「天文・地象」を作りました。見てください。上のページの天文・地象をクリックしてください。

2011年7月3日日曜日

骨の折れること

 連日気温が高く、雨も多い。庭に雑草がはびこるにはもってこいの条件である。
 先週草抜きをしたが今日も庭の半分の草抜きをした。頻繁にやらないと雑草はすぐ大きくなり、根付く。
 腰が悪いので雑草取りは体にこたえる。そのため小さな庭だが一度に除草をやると次の日、痛くて体がひん曲がることになるので、半分づつ日を分けて除草する。

 除草はまったくなんの生産性もない。雑草は食べれるものもあると聞いたが、最近うちに生える雑草はわけのわからない外来種なので食べることなどできないだろう。
 いっそ庭全体を木々で覆えば雑草も隠れるか、生育が妨げられるのでよいのだが、今から木を植えて何十年も待てない。
 20年前に果物の木でも植えておけばよかった。

 花壇でも作ればよいのだがそういうのは性に合っていない。

 子どもの時の思い出で何が嫌って、小中高生の時学校でやらされた「草取り」「花壇の係り」が大嫌いだった。先生は教育活動の一環じゃ、などと屁理屈をおっしゃいましたが、学校は勉強するとこで、なんで、草取りや、花壇の世話をせなあかんのじゃ。と思いましたもの。

 でも自分の家の庭じゃからしゃ~ない。いやいや、しました。
 蚊が出てきてせせるから、暑いのに長袖、靴下をはき、蚊取り線香を炊きながらしました。
 山や海を歩いたり、車窓から眺めたりすれば趣もありますが、除草なんてやっていてもなんの風雅な考えも湧いてこない、ただただ苦役!腰の鈍痛。足の突っ張り、けいれん、ろくなことない。

 私がインドの原始仏教の坊主だったら、たくさん考え出した多くの「地獄」中に「延々と無くならない雑草取りの苦役」をいれますわ。

 いっそのこと中世の隠者や落ちぶれた平安貴族のように八重葎(やえむぐら・雑草の生え放題)の中に暮らすのもよいかなと考えたりする今日この頃です。また「浅茅が宿」(丈の高い茅などが生えた荒れ放題の庭に囲まれた家)という風雅な言い方もあるぞ!
 しかし、これも洗濯とは無縁に暮らせるか、とまえのブログでも書きましたが、世間体もあり、いまのとこは、「ちょっと・・・」

2011年7月2日土曜日

くすしき世界

 今よりずっと目が良かった頃、10代後半から20歳くらいにかけて、夜空を眺め星を眺めたのを思い出す。

 昨日から、ある人の影響で占星術について考えていた。占星術については全く勉強したことがなかったが、若い頃夜空をよく眺めていたのを思い出し、
 「あれはなぜだったんだろう」
と記憶を探っていった。
 一晩中眺めたこともあった。星座表をみながら天空にギリシャ神話の絵を想像した。また、望遠鏡が手に入って惑星などを眺めたこともある。

 40年以上たった今でも「星座」について比較的よく知っているのは、この時星座表を手に実地で夜空を眺め覚えたからである。しかし、別に星座を覚えることが目的ではなかった。

 19、20の頃であるから動機もいまひとつ定かではないが、一つ言えるのは、星々が輝く夜空に魅せられたことである。夜の天空に広がる星を見ているとその悠久さ深遠さに打たれたのは覚えている。

 晩秋の誰もいない深夜の野原に一人ぼっちで夜空を見上げると降るような星空。
 私を中心に天空が広がる。
 ちっぽけなちっぽけな自分に対し、周りを取り囲む天空、宇宙といってもいいだろう、その広大・無限なこと。こせこせした人の営み、その中での悩みなどが馬鹿らしくなってくる。
 よくこころが洗われるというが、本当に心が清くなり、苦悩も無くなっていく気がした。胸が震えるような感動そしてなぜかしら喜びもともに湧いてきた。

 あの時の体験はなんだったんだろう、
 「普段は絶対聴くことのできない天上の音楽を聴いたんだろうか。」
 それとも、プラトン流にいえば
 「魂の故郷のイデアの世界を恋い慕う気持ちのあらわれだったのだろうか。」

 星の世界を思うとき「くすしき」という古語が思い浮かぶ。馴染み薄い古臭い言葉と思われるかもしれないが、小中学校の時必ず歌った歌で「冬の星座」があるが、この詩の中にも「くすしき」が出ているし、同じ中学校の時の歌の「ローレライ」の中にも「くすしき」が入っている。
 「くすしき」、意味は「不思議で、霊妙な」。
 夜空の星々の世界は「くすしき世界」である。

 私は霊感のある人間ではないが、若い時に素晴らしい夜空を見たときの感動は、今から考えると霊感に限りなく近かったんじゃないかと思っている。

 自分があの時もう少し霊感を強く感じていたら、「星の世界が人間界に及ぼす影響」を究めようとその方面の勉強をしたかもしれない。
 すごく魅力のある分野である。それは今でも持ち続けている。

 「星の世界と人間界の関係への興味」はその時以来封印してきた。それ以後、歴史の勉強の興味が続いている。歴史は「人間界の関係のみ」を究めるものともいえるが、ときどき星の世界がかかわってくるというような史料が出てくると、星の世界が人間界に及ぼす影響について、俄然、興味が沸き起こってくる。

 中世史料の中にはその類が多い。多くあり過ぎて例を出すのに迷うが、鎌倉幕府滅亡に関するある星の影響について、ちょっと紹介する。

 「太平記」に「妖霊星」(ようれぼし)というのが出てくる。昔、これを読んだとき強く興味をひかれた。執権北条高時の時、「妖霊星」があらわる。それは兵革が起こり、幕府が滅亡するという予言であり、結果、的中する。
 歴史はあまりその意味を深くは追究しない。まして因果関係についてあれこれ言うことはない。しかし、わたしは、もっと知りたかった。オカルト研究と言われても。しかし史料・文献研究が中心の歴史ではなかなか難しい。

 私は史料を読んでいてその字面にゾクゾクとすることなどまずないがこの「妖霊星」という文字、音読の音、にゾク~ッとした。

 「この妖霊星の正体はなんじゃろ、他にどんな影響があったんじゃろ。もっと知りたい。」

 これも20代のある時期だった。結局これもわからぬまま封印。
 そして夕べから今朝にかけてある人の影響で占星術について考えていてこの史料を思い出した。
 ネットで調べると、なんと、この「妖霊星」の正体についてある説を述べている。

 この人、天文学者か歴史家かはたまた占星術師かどうかわからないが、私は大変勉強になり、昔、疑問だったことがかなり明らかになったのでリンクを張り付けておきますので興味があれば見てください。

http://ch08180.kitaguni.tv/e1659981.html

 ネットってすごいですよね。長年の疑問もキーワードを打ち込めば、真偽はともかく、パシャパシャズラズラと箇条書きに表示されますものね。あ~、20代の時にネットがあったらもっと賢くなってるのに残念。

 そうそう、今日は七曜について意外なことを知りましたがこれについてはまた別の機会に。
 ネットでコメントなどを通じてコミュをとるといろいろな興味を新に刺激され、勉強できますね。感謝です。
 

カウントダウンが始まった

 地上波TVを見るのは7月24日で終わりだなあ。と思っていた。地デジ対応は一切していないから覚悟を決めていた。(DVDの映画や衛星波は見られる)
 ところが、昨日からアナログの画面の四半分もの大きな面積に日数のカウントダウンが表示されるようになった。じゃまになって番組がよく見えない。

 仕方ない、昨日で地上波のTVとはおさらばした。だから昨日はずっとTVは切ったままだった。考えれば、まるで時計代わりに無駄にテレビをつけっぱなしていた。

 省エネ以外にもいいことがある。本を今までよりよく読めるようになったことである。今朝はTVの代わりにラヂヲを流している。

 本、パソコン、たまにDVDの映画、これから家での余暇の過ごし方になるだろう。

 勉強もしたいが若い人のように集中力・理解力はない。ゆっくりとやる以外にない。とりあえず言語学の一分野の語源学の簡単な本でも読んでお勉強しようと思っている。

 はやく新しい変化に慣れねばと思う。

2011年7月1日金曜日

スローロックにいきたいね

 映画を見るにつれて15年も前に読んでほとんど忘れていた小説も蘇ってきた。
 この映画、小説を読んでいなければよくわからない映画になるのではないかという気がする。
 もし小説を読まずに見ようと思ってる人は、一度読んでからにされた方がいいと思います。

 主人公は死なないんだが、身近な友、その恋人だった人で自分にとっても大切な女性の自殺、2人の自殺が大きなテーマである。
 二人の自殺の間には数年の間隔がある。恋人に自殺された女性は強度の神経症に罹り、自然豊かな山の中にある開放的な療養所に入院している。その女性もやがて自殺の道を選ぶ。

 青少年期のまだ柔らかく脆い「自我」、「神経症」それと「自殺」、その3つのキーワードは青年期を考えるとき私の中で強烈な光を放っている。

 みんなはそんな危うい、例えれば、滑りやすい一本の丸木橋、あるいは崖に懸垂されるようにさしかけられた数十センチの狭い桟道を通って大人になるものなのか。
 何かの拍子に足を滑らし奈落へ落ちるものなのだろうか。

 確かに青年期の自殺は多く、推定される理由も生活苦や病苦ではないため、その意味について深く考えさせられる。
 明治期に華厳の滝で自殺した藤村某(旧制高校生)などは人間の存在そのものの苦悩の果て、いわば実存哲学の深奥に達した故の自殺であるような気がする(遺書はあるが解釈は人それぞれ、まさかとは思うが衒ったものという見方もある、フリか)

 しかし、わたしは振り返ってみると、そのような危うい道をかろうじて通過して大人になったという感慨はない。
 大多数の大人はそうだろうか。わからない。

 身近に自殺した人間はいる。高校3年の時の同クラスの男子生徒である(といってもこのクラス男子ばかりしかいなかった)。陽気な奴で、よく友達とキックボクシングをしていた。
 一浪して某国立大学の医学部に入学した。そして1~2年たったころに自殺した。詳しい理由はわからない。
 顔見知りくらいで他にも自殺した青年も何人かしっている。
 外見上、みんな陽気な感じだった。それだけに一層、なぜ、という不可解さが心に刻まれた。そしてなぜかみんな勉強もよくできて、話し上手で、頭の回転も速かった。

 馬鹿な私は、

 「自殺についても考えない自分は頭もよくないんだ。青年期の苦悩もないんだ。したがって高級な人間じゃないんだ。ここは自殺について深く考えるべきだ。」

 と考えたりもした。今から考えると単純すぎて可笑しい。でも、自殺を考えることはおしゃれなんだ。というような傾向が青少年にあることも否定はできない。
 それが嵩じてほんとに自殺したら、正真正銘の馬鹿になる。

 そう考えるとこの「ノルゥエイの森」の小説、世界的な大ベストセラーになってるが、そのようなおバカな青年の自殺を助長すまいかと心配になるが、ま、私のような馬鹿はそうそういないから安心してもよいのかもしれない。

 「ノルゥエイの森」の小説は87年に発売されたが、実はこの「ノルゥエイの森」という言葉はその10年ほど前から知っていた。
 20代の時、エレクトーンを習っていて、ビートルズのこの「ノルゥエイの森」を弾いた。大好きでよく弾いた。
 メロディーが中世あるいはジプシー的な感じがちょっとするし、エレクトーンではスローロックのリズムにのせたのもよかった。
 スローロック、4拍の三連符で、二拍目の三連符の最後の♪にエレクトーンの足ベースでビートを効かせたのを思い出す。

 劇的でもなく、そう深刻にも悩まず、ちょうどスローロックのようにゆったり生きて天寿をまっとうしたいね。



 

今日から7月

 零時をまわり7月になった。最近、ブログが長くなり、投稿も増えた。体調や精神状態が良いのではなく逆で、ブログに逃避するのはよくないと反省している。

 今月からは長さも、投稿数もほどほどにしようと思っている。先月は54も投稿してる。
 
 「異常じゃ~」 ((+_+))