今日、友人と讃岐弥谷寺を参拝してきました。
本堂
摩崖仏
修行大師の銅像と桜
鶴林寺と立江間のお遍路道の一部を歩いた。勝浦町の沼江バス停で降りると、沼江不動と称される石仏が立っている。お遍路さんもここで手を合わせたことだろう。ここから立江寺まで歩く、約7kmほど。
途中、このようなお遍路小屋があった。最近は素泊まりの遍路宿でも高額の宿泊料をとる。このようなところを利用すればタダで泊まれるが、歩き遍路さんでも有料のちゃんとした宿泊所に泊まる人が多い。しかし、歩き+野宿(このような遍路小屋も含む)が、伝統的な、ある意味本物のお遍路さんじゃないかなと思う。
道端では桜や桃の花が咲いていて目を楽しませてくれる。途中、6人の歩き遍路さんにあったが、なんと一人が日本人(または東洋系)だけであと5人は白人だった。逆に立江寺の駐車場からお参りする、車での参拝者はみんな日本人だった(境内や本堂でなんらかの言葉を発していたのでわかった)
昨日は、本州から淡路を通って鳴門に上陸した歩き遍路さんが歩いた遍路道を、岡崎港から撫養駅まで歩いた。岡崎の船着き場から数百メートル遍路道を進んだところに、こんな石柱があった。大昔、ここに遍路関所があったようだ(左端の石柱)。
撫養川沿いの水仙と真菰(マコモ)の群落、このような風景は現代ではあまり見られなくなったが、昭和の初めころまでは撫養(鳴門市)にはこのような場所が多くあり、お遍路さんもたびたび目にしたことだろう。
本日は徳島マラソンの日である。午前九時県庁前スタートとなる。下はスタート直後、九時過ぎ、検察庁の前で写真を撮る。
阿波踊り連の踊り子も応援していた。
短いコースのマラソンも同時開催された(チャレンジコース)、城山を一周する。子どもや車いすの人も参加していた。下は下乗橋(石橋)付近で撮影する。
今日は彼岸中日なのでお寺を三ヶ寺参拝した。霊山寺、極楽寺、金泉寺を霊山寺前バス停から板野南駅まで歩いてお参りした。4kmほど歩いただろうか。下が歩きの地図のコースである。
私が高校生くらいまでは祖父母と一緒に切幡寺へ毎年、春と秋の二回、お参りに行ったものである。当時「犬の墓」行きのバスがあってそれに乗っていったのだが、もうそのバスも廃止され、切幡寺に向かうバスは今はない。そのためバスで参拝できる上の三ヶ寺を選んだのである。
霊山寺の金の宝珠が見える
極楽寺ではしだれ梅がきれいだった。
そうそう極楽寺のお堂の前に須弥山宇宙(仏教の宇宙観)の石の模型があった。九つの界に分かれている。最下層は当然地獄界、最上階は菩薩界であるが、その上に究極の悟りの世界「仏界」がある。でもなんでお堂の前に?何を意図しているのだろう。
金泉寺山門
道々には春の花々が咲いていた。桜はまだ少し早いようだ。下は遍路道の路傍に咲く水仙である。
甥はいま八十八ヶ所参りで寺々を回っている。彼岸の中日の今日、もう伊予から讃岐へ進んだだろうか。
昨日、名古屋の甥が来た。母親の墓参りをすませた後、そのあと六泊七日で四国遍路を回る予定だという。早朝名古屋を車でたち、こちらへは午前中についた。一緒に墓参りのあと、近くのレストランで昼食とる。
車での六泊七日の四国遍路といっても、1番から88番まですべてまわるわけではない。一昨年まで甥は亡き母(私の妹)と一緒に、区切り遍路を時々やっていたので、お四国の半分以上はすましている。そして今回は、甥が一人で、そのまだ行っていない寺々を回るという。亡き母の意思を継いでの今回のお四国回りである。
レストランで食事をしながら話を聞くと、今日の一泊目は高知で、今回は高知市内の31番竹林寺から始めるという。チェックインまでに今日は少なくとも三ヶ寺回りたいといっている。それをききながら、そういえば私はまだ竹林寺へは参拝したことがなかったことを思い出した。
甥はここでの昼食のあと、すぐ高速道路にのり高知へ行く予定である。久しぶりに会った甥である、もう少し話がしたいのと、その竹林寺へ私は一度も行ったことがないので、竹林寺まで一緒に行こうと急に思い立った。甥も同意してくれたので、我が家に寄り、参拝のためのろうそくや線香、お札を用意する。ついでに、甥は納経帳以外は持ってきていないので、私が余分に持っていた菅笠や金剛杖、輪袈裟を彼に譲った。
三時過ぎに高知五台山の竹林寺につき甥と参拝を済ます。甥は次の32番の禅師峰寺へ行くため、そこで別れる。一人になった私であるが、急に思い立ってきたので計画も何もない。あとは徳島へ引き返すのみであるが、帰りの便の時刻さえわからない。とりあえず四時半のバスに乗って高知駅へ降りる(五台山は山なので)。帰るには高知から特急に乗り池田駅まで行きそこから徳島線の普通列車に(特急はない)乗り換えねばならない。しかし駅で調べるとちょうどよい接続の列車がなく、高知駅でかなり待った。けっきょく午後6時38分の特急に乗り、家に帰りついたのは午後十時近かった。
竹林寺の本堂前で撮影する。四国八十八ヶ寺の中で御本尊が文殊菩薩さまなのはこの寺のみ、文殊菩薩さまは私の守り本尊様でもある。
大きなお寺で五重の塔もある。
五台山(竹林寺)の額のかかった山門
高知には路面電車が走っている。帰りのバスの中から撮影する
高知駅前には、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、幕末の三志士の大きな銅像がある。後方のかまぼこ型の屋根が高知駅である。モダンな新しい駅舎である。
駅で待ち時間がかなりあったので、せっかく高知へ来た記念に、カツオのたたき定食を食べた。
大塚美術館手前の千畳敷のバス停で降りると、そこは千鳥ヶ浜である。そこから遊歩道を歩く
この遊歩道は30年前までは多い時には週一回くらい散策していたが、今回歩くのは久しぶりである。展望のよいところで写真を撮る
寒い時、銭湯はいいもので、家の貧ちょこまい浴槽に比べるとずいぶん温もるし、湯上りして時間がたってもホカホカしている。また顔見知りや、親しい人どうしがなんやかやと喋ったりする湯中の風情は、体ばかりでなく心まで温かくする。
昨夜、30代の若い兄ちゃんが入っていた。彼とは挨拶を交わすばかりでなく、当たり障りのない会話もする。ひげが濃く、小柄だが均整の取れた、男らしい若者である。プライベートなことなぞは(銭湯のマナーとして)一切話さないが、まぁ、ワイのみるところ、女性にもてるだろうなとおもう。だからたぶん結婚しているやろな、少なくとも恋人くらいは、それも一人や二人じゃなく、とまぁ、思わせるエエわかい衆(し)であった。
ちょうど、着かえて銭湯から出る時間が彼と一緒になった。暖簾を押し分けでると、長椅子が向かい合わせに並んでいて、そこは待ち合わせや、喫煙の場になっている。その兄ちゃんは、その椅子に座り、女性風呂から出る人を待つ様子である。私が、「おっ、彼女を待っているの」と声をかけると、「ええ、だけど、もう出てきて、暖簾から出てきますよ」という間もなくきれいなベッピンさんがでてきた、わかいしも立ち上がり、二人暖簾の前で並んだ。
前のワイだと、「いいねぇ、かぐや姫の神田川の世界やなぁ、♪~いつも二人で言った横丁の風呂屋~♪」と歌の一つも口ずさむのだが、その夜は違った、二人の前で、いまくぐってきた暖簾を指し示し
「われても末にあはむとぞ思ふ、やな」
といった。その銭湯の暖簾は今年は下のようなものである。
これは百人一首にもある崇徳院の句で、『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の(上の句)・われても末に あはむとぞ思ふ(下の句)』
そのこころは、恋しい恋しい二人、一時も離れたら、さびしぃぃぃ~、でも銭湯に入る時は別れなければならない、別れはつらい、しかし、温もったあとは、また、一緒になろうな~、愛してるぅぅ。
暖簾を指し示し、「われても末にあわむとぞ思ふ、やな」といっても、まずハッと気づく人はほとんどいまい。やはり、ふたりともキョトンとしている。そこで暖簾の左右に分かれている上の句、と下の句を解説、上に述べたようにそのこころをいった。一応、礼儀としてか、二人は納得してくれたふりをしてくれたので、このジジイも、面目を保った。
ジジイの悪い癖で、風呂屋のこんな暖簾の前、おあつらえ向きな風呂上がりのアベックがいれば、言いとうになるんよなぁ~。あのわかいしに、ますます、みょぉなジイやんやわと思われたやろな。
ちなみにこの銭湯の暖簾は毎年一月に変わる(スポンサから贈られる)、そして今年が崇徳院の和歌だった。去年は確か、富士、鷹、なすび、だった。「初夢の、一富士、二鷹、三なすび」をかけていたっけ。
今日は3月6日、薄日も射しているし、気温もそう低くないので、春の花を求めて市内をうろついた。
「冬の薔薇」と西洋では呼ばれているのは、師走頃から咲いている「山茶花」や「寒椿」、大輪で派手な色の花で八重もある。冬枯れで温室でもなければバラの花はみられないヨーロッパでは、冬に咲くこのような花は珍しく、バラに似ているところからこのように呼ばれたのだろう。私の好みでいえば、このような派手な花は好きではない。同じ仲間で三月頃になれば開き始める野生種の「ヤブツバキ」がいい。城山のねきを通っている遊歩道の横に椿のトンネルがある。そろそろヤブツバキの花が見られるはずだとそこへ行くと赤い花が咲いていた。寒椿や山茶花は五月蠅いくらい花をつけているが、ヤブツバキはひかえめに、常緑の葉に囲まれるようにひっそりと咲いている。
椿のトンネルの横は汽車の操車場になっていて、その間に城の堀がある。ここは昭和の初めころまではその堀を通って「寺島川」が流れていた。今は寺島川は埋め立てられ、この堀にその跡を偲ぶのみである。堀の上に水辺の花である「水仙」が咲いていた。
寺島川は埋め立てられ死んでしまったが、上に見える堀の、城山を挟んで反対側は、大河である「助任川」が流れている。その川沿いには早咲きの桜である「蜂須賀桜」の並木がある。満開の、もしかして桜吹雪の木の下を歩けばさぞや気色よかろうと向かうと・・・
アカン、冬木立のままや、まだ咲くのはしばらく先みたいや、桜色の雪洞だけがむなしく揺れていた。今年は早春の寒さのせいか、ずいぶん遅いようである。というのも去年の3月5日には見事に咲いていて、それをブログにアップしていたのだ(これが去年3月5日のブログ、ここクリック)
残念!しかし桜の花が見られないとなると、どっかでどうしても見たくなる。そういや、両国橋のたもとに緋寒桜があったなぁ、あそこはもう咲いとるやろか、向かうと、咲いてました。しかし、どうしてだろう、ソメイヨシノどころか先の蜂須賀桜に比べても、色がくすんだようで地味な感じがする。桜の中には「薄墨桜」というのがあり、地味どころか、薄墨色(散り際にそんな色になるらしい)は、出家者の法衣の色であるからずいぶん抹香臭い桜となる。
薄墨桜については、ちょっとうろ覚えで、ネットで調べても確たる証拠はないが、こんな話が私の頭に残っている。
『今は昔、毎年春に色美しく咲く桜があった。ある男が植えた桜であった、彼はまるで我が子のように丹精込めてその木を育て、毎度のように桜に話しかけ愛(いつく)しんだ。ところがある年の秋、男はまるで木が葉を落とすように徐々に衰え萎み、とうとう冬に亡くなってしまった。次の年、春が来て、再び美しい色の桜が見えるだろうと、人々が出かけて見ると、なんとその桜は薄墨色の花をつけて咲いていたのである。人々は、桜の木は悲しみのあまり、出家して薄墨色の法衣をつけたのだと噂しあったそうである。』
両国橋の緋寒桜、薄墨桜ほどではないが地味な色である。もしや、薄墨桜の伝説のように何か哀しいことでもあるのだろうか、そこで木にむかって聞いてみた。
「さくらさん、さくらさん、なにか悲しいことがあって、こんな色にさいているのですか」
桜さんは答えてくれました
「いえいえ、これという悲しいことはありませんが、なにせ、私の名前が悲観桜だもので」
3月1日のブログではその日に行った卒業式を取り上げた。今日のブログでは昨日行われた高等学校一般入試試験について取り上げる。左の写真は某有名進学校、〇南高校での高校入学テストの風景、動画で見ると手前の男の子は緊張のあまり小刻みに体が揺れていた。かわいいなぁ
高校の卒業生は満18歳だから、法的には成人となる。もう大人だ。それに比べ今日入学試験を受けた子ぉらは中学三年生だから満15歳である。まだまだおぼこげぇな子どもじゃないかとおもうが、よくよく見ると体の大きさ、背の高さなどは大人とほとんど変わらぬ成長をとげている。ワイらが中学三年の時は、中卒で就職する子ぉらがかなりいた(中学三年の8クラス中、3クラスは就職のクラスだった)。中卒15歳で就職すれば立派な社会人である。それでもまだまだ体つきは少年らしさが残っている子がほとんどだったが、今はその点、肉体的にはグッと大人に近づいている。
昨日ネットのニュースをみていると、未成年の恋人同士が、もめたという話が載っていた。なんぞいな?とみると、なんと(セックス中?)避妊具がはずれ、女の子ぉが大騒ぎし、親も巻き込んで騒動に発展したという話である。男の子ぉが女の子やその親に責められつつも、男の子ぉの親らは、でも誘ったのは女の子ぉのほうだ、と言い返して口論に発展したようだ。当事者も親も深刻な話だろうが、聞くワイは思わずにんまりしてしまった。この話、男や女の子ぉらは未成年とある。てっきり高校生同士かと思って読み進めていたが、途中でそれが中学生どうしとわかって、ちょっとおぶけた。いやぁ~、体も大人に近づいた中学生だが、やることも立派な大人だなぁとおもった。で、その話のまとめは何かというと、性の専門家はんがしゃしゃり出てきて、だから中学生でもちゃんとしたセックスの知識、正しい避妊の教育をせにゃあかんちゅう結論だった。知りたい具体的話は無し、知りたいのは、避妊具がはずれ大騒ぎしたのだから、精液が膣の中に入るいわゆる「中だし」状態となったのだろう、その結果、不幸にも妊娠したかどうか、であるが書いてなかった。
ワイなんぞは、チ〇ポをもてあそんでいるとき、チ〇ポの先からなにやら透明な液がでて驚くと同時に気色わるい思いをした初めは、中学三年の時だった。透明な液だから精子も含まれてはいまい。たっぷりと白いミルクのような汁が出たのは高校の時になってからだった。第一、チ〇ポの皮を無理に引っ張ってズルりとむけたのが高校生の遅くになってからだったから、中学の時にセックスしようとしても包皮が痛くてできなかっただろう。ワイらの時の多くの中学三年生はそんなものだった。
いかんいかん!下ネタの話となると、嬉っせげぇに大きく脱線してしまう。元の高校入学試験に話を戻そう。
まぁそのような中学生(上の話のつづきからどんな中学生じゃと思うが、もう大人に近い頭脳、体をもつ中学生としておこう)が受けた高校入試のための学力テストである。その昨日のテスト問題が今日のローカル新聞に載っていた。国、数、英、社、理の五科目である。ちなみにワイの高校入試の時は九科目もあり、五科目のほかに美術、保健体育、音楽、技術家庭の筆記試験があった。
その新聞に載った五科目、時間があればこのジジイがチャレンジするのも面白かろうと、ザッとみてみた。精いっぱい問題を解き、平均点くらいはゲットできるかなぁ~と思わせるのが、国語と社会くらい。英語も時間をかければ、なんとかと思うがおそらく平均点もとれまい。数学も問題の意味やその意図はわかるが、解くのが煩わしく、チャレンジする気になれない。一番難しいのが理科だった。
まぁワイは75歳の耄碌ジジイやからしゃぁないわ、と言い訳できるが、これ中学生の父母は40~50歳くらいだろう、はてどれくらいできるのやろうと思う。こんなことで息子や娘と張り合わんでもいいが、同等以上にできたら息子や娘にもちょっと大きな顔ができそうな気がする、ま、子も孫も持ったことのないジジイにはわからんが。
その入試問題を見ていて思ったのは、五教科満遍なくできるのがいいが、全部やるのはどうしてもたいへんという場合、ずっと絞っていって二教科を集中してやるとしたらどれがいいか考えてみた。ワイが考えるのは「国語」と「数学」となる。これからの世に必要となる能力を養うのに重要な教科であると思うからだ。もうAI(人工知能)の脳力が人を凌駕する時代が来ている。知力・能力で人は対抗できない。人に求められるのは、AI(人工知能)と対話できる人の側の能力である。論理的で意味のはっきりした文を作れる能力が重要となる。なぜならある回答、あるいは意見をAI(人工知能)に求める場合、人は最低限このような文、言葉を作れなければいけないからである(そのような文、言葉はプロンプトと呼ばれる)。
また確率・統計的思考が重要となり、AI(人工知能)がかなりのことをやってくれるといっても、ある目的のための解法の手順であるアルゴリズムは、人が創造する分野として残されていくと思う、そうするとそれは数学の分野となる。
国際化の時代、国語よりむしろ英語じゃないかと思うかもしれないが、AI(人工知能)はたやすく翻訳・通訳を瞬時に、かつ正確にやってくれる。むしろ、先に言ったように、どのような言語であっても、論理的で意味のはっきりした文を作れる能力が必要とされ、それは英語ではなく、母語の日本語がもっともふさわしいものとなる。
もっとも実際問題として、中学生に五教科を二つに絞らすことは出来ない。高校入試は五教科総合得点を合否の判断とするが、最低点のルールがあって一教科でも最低点以下だと総合点で合格に達していても不合格となるからだ。まぁ、一般教養を身に着けるという意味でも高校卒業までは満遍なく全教科を、多少苦手でもこなす方がいいだろう。あ、性教育も含めまひょ。
タリフマン、タリフ(tariff)とは関税のことで直訳すると関税男、一般名詞としてではなく、それが指し示す特定の人がいる。いま各国を関税攻勢で困惑させている人、言わずと知れたアメリカ大統領トランプはんのことである。アメリカを偉大にする、裏を返せばアメリカを強くする、といって様々な施策を矢継ぎ早に打ち出しているが、その一環として各国に大きな関税をかけようとしているのは、自らを「タリフマン」と呼んでいるトランプはんの施策の重要部分である。
私は経済には強くないので、各国に大きな関税を課すことが、どのようにしてアメリカを強くするのか、の詳しいメカニズムはわからない。新聞などの論説で知るくらいだ。関税は適切に用いれば、税なので国の税収も増えるし、また過度な安売りの輸入品に対し、自国産業を保護する意味もある。また戦争に訴えないで特定の国を罰するのに、懲罰関税が有意義なときもある。それらはたしかにアメリカを強くするのに寄与するだろう。
しかしトランプはんの打ち出している各国に関税をかけまくるのは、大方の新聞の論調によれば、とても適切とはいえないらしい。結果として貿易摩擦、すなわち米国から関税をかけられた国がそれ以上の関税を対向してかけるとか、関税として上納される分だけ、輸入品は値上がりし、結果として米国の物価が上がることにつながる。そして海外貿易は縮小傾向となり米国のみならず世界経済を不況に陥れるとのこと。どれも読んでいて納得できることばかりである。物価高、不況は庶民にもっとも経済的ダメージを与える。
新聞の解説はさらに歴史的に関税障壁で先進各国がブロック経済に移行した1930年代を引き合いに出している。先進国の中でもブロック経済圏を作ろうにも規模が小さく、経済圏を作っても、その内部に原材料やエネルギー資源が乏しい国であったドイツ、イタリア、日本は、経済圏の拡大を求め、それが第二次世界大戦の大きな動機となったことを指摘している。なるほとどうなずける。
関税は適切に用いれば有用だが、トランプさんの関税のかけ方を見ていると、米国以外は眼中にないどころか、米国国内の経済にも良い影響をもたらさないだろうと思わざるを得ない。なにか、常識的な新聞や私が思いつかないような深謀遠慮があるのだろうか。トランプはんのキャラをみているとどうもそんなのもないのではないか。もしや知将(有能な側近)がアドバイスかとも思うが、いやいやトランプはんはそんな知将を置かないし、第一、聞かないのではないかと思いなおす。いったいどうなることかと思うが、関税かけまくりは世界そして日本に経済的悪影響をもたらす恐れが強いのではないか。
トランプはんはこうのたまったそうである「あぁ~、関税、なんという美しい言葉だろう」(もちろん英語で、これと同じ意味の言葉だが)、彼は関税は富をもたらしアメリカを強くすると思い込んでいるようだ。彼はまた19世紀末から20世紀初頭に大統領だったマッキンリー氏を尊敬している。彼も関税政策を多用した人として知られタリフマンと呼ばれていた。関税ばかりでなくマッキンリー大統領はアメリカの帝国主義を代表する大統領でもある。海外に領土を求め、あるいは保護国化した(ヒィリッピン、ハワイ、スエズ運河とパナマなど)。そんなところからトランプさんはマッキンリー大統領と自分を重ねているのではないか、その結果が関税かけまくりと、帝国主義を彷彿とさせる言説なのだとすると、ずいぶんと時代錯誤じゃないかと思うが、ちっとも改める気はなく、これからもそのような方向で進んでいくようである。
トランプはんは歴史的に帝国主義の高まったマッキンリー大統領の時代の関税のイメージが擦りこまれているのではないか、だから「関税、なんと美しい言葉だろう」といい、関税の良い面だけしか見ていないのではないか。日本史が好きでいろいろ勉強してきた私は関税にそんな美しいイメージを持たないどころか、はっきり言って嫌なイメージを持っている。
近代史では幕末に結んだ不平等条約の一つに関税自主権がなかったことがあげられる。日本は、欧米から押し付けられた不平等条約のため、関税のプラス面の一つである国内産業保護のための関税障壁を自主的に設けられず、その撤廃に何十年も苦労するのである。関税をかけたくてもかけられなかったのである。関税に関し、この横暴な欧米は、近代史を勉強する日本人にはちょっとしたトラウマになる。関税にわるいイメージがくっつく。
その中世の弱小経済を打破し、近世の経済へと移り変わる大きな動きが、中世末にあった。「楽市楽座」である。戦国末に数ヵ国にわたる比較的大きな領地を一円支配した戦国領主は自ら楽市楽座令をだし、領地一円、スムーズな経済流通が行えるように意図した。その楽市楽座令のなかでも肝であったのが関所の撤廃である、当然、頻繁で煩わしい関(セキ)銭の徴収も廃止となる。これが近世経済への脱皮のきっかけとなるのである。
ちょっと想像してほしい。35kmほど向こうの目的地(これは人が徒歩で日のあるうちに無理なく歩ける距離)に行くのに、三ヶ所の他領主のところを通るとしたら、三度関所を通らねばならない。その都度、関(セキ)銭を取られるとしたら、どうかを。まったく関所が廃止になってよかったと思いませんか。現在でも中東のある地域では、反政府組織が、それこそ中世の領主のように支配地をモザイクのように持っているところがある。他国者は通行のたびに関(セキ)銭を取られる。そこではまだ中世が残っている。
このように日本の中世の関所、そしてそこでふんだくられる関(セキ)銭のイメージが私にあるから、関税はどうもよい面より悪い面の方が先行してしまう。そして今あらわれたトランプはん、関税をかけまくる、といっているが、なにやら中世の恣意的でわがままな領主があっちゃこっちゃに関所をもうけ、金をまきあげようとたくらんでいるようにみえる。タリフ(関税)が美しく素晴らしく見えるのは、トランプはんだけじゃないのかと思ってしまう。
外交とはもっと、優雅なものであると思い込んでいたが、しかし考えると、一歩間違えば、つまり、口から発する言葉の一つでも間違えば、戦争にも発展しかねない危うさを含んでいるので、真剣そのものである。優雅さだけで済むはずがない。では、なぜ優雅なものと思い込んでいるのだろう。それは世界史でならったウィーン会議(1814年)の様子やその挿絵などにも影響されている。その上にこの会議を評した「会議は踊る、されど進まず」という言葉に、ワルツにのって踊りながら優雅に外交を進めるイメージを膨らませたのであろう。大昔、白黒の洋画でこの会議を舞台にした映画「会議は踊る」をみていたことも影響している。
それでも、裏で、あるいは水面下で丁々発止のやり取りを繰り返しても、表面上は穏やかな言葉を使いつつ、そのなかに皮肉や、揶揄、あるいは暗喩など用いながら、婉曲に、しかし確たる外交の意思を伝えるものであろう。一対一のやり取りもあるが、数多くの国の外交官を相手にするときもある、そのような多数の中で粗野で直接的な言い方は、嫌われ、馬鹿にされるのではないか。まるでゲームのような駆け引きを用いる外交には、少なくとも表面上は優雅さが似合う気がする。
しかしこれも前々世紀(19世紀)のウィーン会議のような、ヨーロッパのみの多国間外交の時代で終わったのだろう。20世紀の(1945年)ヤルタ会議では大国の(米、ソ、英)の直接的で赤裸々な取り決めで第二次世界大戦後の体制の枠組みが決められた。剥き出しの力の外交である。
それでも新聞、ラヂヲ、テレビなどの発達によって、国民が外交当事者(外交官、大統領、首相)どうしのやり取りが見られるようになった時、少なくとも表面上は穏やな言葉をもちい、礼儀正しい挨拶をし、その意味では優雅さを見せたのである。
ところが二日前のホワイトハウスでのトランプはんとゼレンスキはん二人の大統領のやり取りをみると、残っていたそんな表面上の優雅さもどこかへ飛んで行ってしまったようだ。でも外交ってすぐには意味が分からない言葉を用いながらやるものと思っていたが、トランプはんの言葉はとってもわかりやすかった。エエか悪いかは別として。私は昭和20年代生まれだから、私の生きて体験してきた社会経済政治の大きな事件を記述すると、そのまま日本史の現代史(戦後以降)になる。その中で人々に大災厄をもたらしたものを、(私の独断だが)あえて三つあげるとするとどのようなものになるか。災厄を ①大天災 ②大流行病 ③国家転覆(大反逆)、の三ジャンルとすると、①は東日本大震災 ②はコロナ流行病 ③は地下鉄サリン事件となるのではないか。
①の天災については阪神淡路震災も含め多くあるが、ジャンルから一つとるとすると、死者行方不明者数1万8500人、そしてすんでのことに東日本全体を退去地域にしかねなかった原子炉爆発事故などを考えるとやはり「東日本大震災」をあげた。②については大正時代にもっとすごいスペイン風邪があったが、これは現代史(戦後以降)から外れ、近代史になる。③については戦後おおむね平和で、大規模騒擾も、226事件のような反乱も起こらなかった。しかし唯一地下鉄サリン事件は、明確な計画をもって国家組織を麻痺させ操ろうとした、国家転覆(反逆)の企てとされる。
なんと三大災厄は3月に起こり、あるいは3月にその猛威をふるい始めるのである。だからといって、何も三月に起きる理由があるにちがいないとか、三月は縁起の悪い月だとかいうつもりはないが、私の見聞きした現代史のその三災厄はこの月なのである。