2025年1月31日金曜日

衝突

 

 ゆうべの9時のニュスのトップはワシントン近郊の上空でのアメリカン航空の旅客機と軍用ヘリの衝突だった。(現地時間の29日午後8時47分)衝突の瞬間の動画も見たが、爆発で暗い夜空の一点が明るく輝いている。このような衝突ではおそらく双方とも生存者はいるまいと思っていたが、続報を聞くと救助隊も生存者発見はあきらめ、遺体収容作業に切り替えたそうだ。

 この事故をきいて思ったことがある。それは大きな空の事故(多数の死者が出る)は妙に続いてある期間に集中して起こるんじゃないかということである。この約一か月前12月25日にはアゼルバイジャン航空の旅客機が墜落した。そしてその4日後には韓国チェジュ航空が胴体着陸を試み、飛行場の施設に衝突して爆発炎上したのである。わずか1か月の間に(大きな飛行機事故・旅客機死亡事故)なんと三件も立て続けに起こったのである。75年も生きてきたワイの、あまり確かではないが記憶の印象から言うと、そのような感じを持つのである。もっとも統計的に調べたことはないから、あくまでもおおざっぱな印象ではあるが。皆さんもそのように感じませんか。どうでしょう?ワイだけの印象かなぁ。

 飛行機は立体空間を動くので(つまり平面だけでなく上下にも移動できる)自動車や自転車が平面だけ動くのと違い、衝突する確率は低くなるような気がするが、自由に空間を動けるわけでなく、航路が決まっているし、飛行場近くではその航路の錯そうもあるから、そうも言えまい。

 ワイの身近にも衝突はある。車の衝突、自転車同士、自転車と人、また人と人の衝突もある。人と人の衝突などあり得ないくらい少ないんじゃないかとも思うが、最近は双方がスマホを見ながら歩いているから起こりえるのである。誰かが「猫でもお互い同士衝突などしないわ」と言っていたが、それは猫に対して失礼だろう、猫はひげがあるし、全身毛が生えている。それらは微妙な空気の振動を感じるセンサーとなる、つまり全身にセンサーがあるのである。急激に近づく物体は全身のセンサーで感じるのである。人はそのセンサーが退化しているにもかかわらず唯一の頼りである目がスマホに奪われるのでそりゃ衝突はするわな。人同士の衝突はタン瘤くらいで済むが、スマホを見ながらの自転車はやめてほしい。ぶつかれば悪くすれば重症、死亡事故となりかねない。

2025年1月30日木曜日

パソコンで機械相手のチャットをやってみた

  はじめてパソコンで機械相手のチャットをやってみました。私のパソコンに「Copilot」がダウンロードされていたので、それを開いて少し会話してみました。感想としては、すごい!の一言です。頭の良いそつのない人間と対話しているようでした。次回は人の情緒面感情面、あるいは短歌、俳句のような文字芸術に関する対話もしてみたいと思っています。どのように返されるかとても興味があります。

 以下のような対話を楽しみました。








2025年1月29日水曜日

旧しょんがつ


 今日、29日は旧暦の正月元日、つまり西部阿波弁でいうなら「しょんがつ」である。とはいっても今日が旧暦の正月と認識している人などほとんどいないのが現状である。別に何の行事もないし、暦上の区切りとなるわけでもない。むしろ人々は、大挙して押し寄せてくる中韓ヴェトナムタイの人々が今日を挟んで長期の休みとなるきょうの旧正月元日を「春節」と呼んでいるので、そちらの方が今や日本人にはなじみ深い。

 ワイら小ンまい時には県内の西部や山間地域ではまだ今旧正月を祝う家も多々あった。ウチの家もワイが小学校くらいの時は、もちを用意しおせちを作り、松飾もこの日ためにかざった。学校も冬休みとは別に旧正月は一日休みとなった。

 昔の人は旧暦の何月何日を知るのみで生活していた。と、しかしそう言い切るのはあまりにも単純化した旧暦の解釈である。旧暦では太陽の運行の差と旧暦何月何日がかなり開くため、確かに今日は何月何日かということも大事にしたが、それと同等に二十四節季を旧暦上に記し、それをもとに季節季節の移り変わりを認識したのである。(今年なんどは六月に閏月があるため六月が二度ある。当然六月ころの新・旧暦の季節の差が大きくなる

 そのような意味で、大昔の人が季節で新年の打ち立て(初め)として認識したのは二十四節季の「立春」である。これは太陽の運行上厳密に旧暦でも決められるため、これをもとにすれば季節上の差異はない。だが一月一日は旧暦では空の月は新月でなきゃならん、新月と立春が一致することは少ない。でもできるだけ旧暦一月一日と立春が近いのが望ましい。そこであんまり離れることが確実なときは思い切って閏月をいれ調節し、元日(新月)に立春が近いようにするのである。だから旧暦一月一日は年によって、立春からふらふら前後アッチャコッチャへ動く、今年は立春から五日前が新月の旧一月一日となる。

 そのため年によったら立春から後が一月一日となることがある。二十四節季の太陽運行上昔の人は立春を年の初めととらえることもしていたので、旧暦暦上の年の初めの元日より先に(季節上年の初めと思われた)立春が来た場合、「古い年がまだあるうちに新しい年(立春)もはじまった」というような矛盾した気持ちも味わったのである。平安時代の次の歌(作者・在原元方)

『年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ』

 高校の古典で習ったときは、教師の解説があったに違いないが、何のことやら意味がわからなかった。以上のように考えれば納得がいく。

ふろく

 昔、まだ旧正月を学校や家で祝っていたころの話、新暦か旧暦の元日か忘れたがわざわざ講堂児童全がに集められて「一月一日」という歌を皆で斉唱した。でもそのあと一人一人に紅白の饅頭が配られ、それはうれしかった。講堂では、真面目に

~年の初めのためしとて~♪終わりなき世のめでたさを~まつたけたてて~

 歌っていたが、饅頭をもって家に帰る道々、悪ガキどもと替え歌を歌ったものである。そのうた

~・・まつたけひっくり返しておおさわぎ~云々、なんたらかなんたら~♪

 そこまでしか替え歌を思い出さない、あれは何と歌ったのかなぁ、そんな時、ネットは威力を発揮する「まつたけひっくり返しておおさわぎ」を打ち込むだけで、当時歌ったであろう替え歌が出てきた。

~豆腐のはじめは豆でーあるー おーわり名古屋の大地震 まつたけひつくり返して大騒ぎー いーもを食うこそ へがたれるー  

物価高の中ありがたぁ~いランチ

  しんぼうじろうはんが、一か月前、ネットのあるニュスサイトで

 「アメリカじゃぁもっとも下層階級というかホムレスの人が、もっとも安く食事をするにはショッピングモルで出来合いの食べ物を買い、イートインで食べるのがふつうであるが、その一回分の食費が3000円びゃぁいる」

 と言ってた。まさかなぁ、ワイも買った食べ物を大規模スウパのイートインコォナでよく食ってるが、3000円もはいらん、とおもったが、これいろいろな情報から判断するにアメリカじゃホントの話である。

 長期にわたってつづく円安とそれと反対のドル高、そしてアメリカでも物価高ということでそうなるのだ。

 日本でも最近はどんどん物価が上がり、コロナ前は、ワンコインランチつまり500円で昼食を済ますことができたが、今じゃ、安く上げるためうどん屋に入って、うどんとおでんを数品とればほぼ1000円いる。定食類も1000円近くいるから、日本もこのまま物価高がすすめば、それこそイートインですますような者でも一食が数千円になる日が来るんじゃないかとおもう。おっそろしいのは物価高がぜんぜん止まらずに上昇を続けていることである。一例としてパンを取り上げると、数年前までは定価88円だったアンパンが、去年の初めには98円となり、去年の暮れ頃には108円となり、一月以降、パン特売日でもなきゃぁ118円となった。これからはもしや季節ごと、いや月ごとに上昇するんじゃないかと恐れている。できるだけ安いものと思っても限度がある。米だけ(今やコメも大幅値上がり)、食パンだけで生きていけるはずもない。

 そんななか、お昼のランチとして誰にでも利用できる社員食堂が破格に安いのでよく利用している。安い場合は定食(みそ汁、ごはん、生野菜もついたおかずのセット)で450円、高くても550円で食べられるから今時分こんなうれしいことはない。ただ社員食堂といっても民間の会社や工場は、原則としてその従業員のみの利用なのでそこにはいけない。行くのは公共の団体企業である。具体的に私が行くのは某県庁食堂、某市役所食堂、某鉄道会社食堂、某バス会社食堂、某警察署内食堂である。

 上の中でいっちょイイのが、某県庁食堂である。きにょうの定食を見てみよう。この定食にはおかず類が二皿ついているが、これは決まったものではない。およそ1ダースびゃぁもある各種おかずから、自分で選べるのである。もしおかずを二種類とるなら定食の値段は550円となり、一皿なら450円となる。私は気に入ったおかず二皿とったので、下の写真は550円の定食となる。Aのおかず「とり天、なす、ピィマン、ニンジン、オニオン、鳴門金時のチリソース炒めあんかけ」Bのおかず「草履くらいの大きさの鮭と鳴門金時のケチャップソースかけホイル焼き」である。これ民間のお店で食べりゃぁ1000円以上は確実にしますって。上記の食堂の中ではもっとも優れて安い定食だが、ちょっと遠いのと、あんまし頻繁に行くのもはばかられるので一週間に一度くらいにしている。もっとも常連の(つまり月から金まで毎日利用する)、ジジババもいるみたいで、いついってもいるオババはおかず、メシ半分は保存容器にいれて持ち帰っている、まさか犬猫にやるわけではあるまい、夕食分にするのだろう、つまりこのオババは550円で昼食、夕食をまかなっているのだ。こんなオババも県庁食堂は受け入れている(原則どこの食堂も残り物は持ち帰り禁止だ)。


 この県庁の食堂一ヶ月ばかりリニューアルの工事をしていて今月の21日が再オープンの日であった。前は大学の学食のようながらんとした大きな部屋にテェブル、イスが並べてある殺風景なものだったが、今はこんな感じで県内の木材を使った小じゃれた作りとなっている。他にも円形の半壁でかこったテェブル席もあり(写真の左上黒の半壁がそのテェブル席、見られることを嫌うグループなどが利用できる。まるで大きなホテルの喫茶室や食事ブースのようになっている。例のオババもここがリニューアルして上品なホテルの喫茶室みたいになったのでもう寄り付かないかなと思っていったが、行くと、いた、いた、ド厚かましいことに4~5人は利用できる円形の半壁でかこったテェブル席に満たしたお茶のコップを三つも並べ(お代わりを汲みに行くのがめんどうなのか)定食を一人で食べていた(オババの名誉のためにいうと、彼女は11時過ぎに入り、職員や他の人でいっぱいになる12時までには食事を終わり引き上げているから、席を独占して邪魔になるわけではない、ワイも邪魔にならん時間帯にしている

2025年1月28日火曜日

逃亡人生?  



 数日前、図書館で、新刊本で何か面白いのはないか、と新刊本コーナーを探していると左の本が目に入った。半世紀にわたる逃亡犯・桐島聡を描いたノンフィクション小説である。彼については新聞テレビ以上の詳細を知りたいと思っていたのでさっそく借りて読んだ。

 主人公は正確に言うと49年間延々と身を隠し続け、70歳の誕生日を迎えた直後、末期がんで街中で倒れているところを緊急搬送され、実はと、病院で本人が警察に照会するように実名を明かし、警察をちょっとしたパニックにおとしめ、マスコミも驚きをもってそのニュースを報じたのである。しかしそれからわずか三日後に息を引き取った男の話である。

 私もそのニュースを聞いた時、驚いたものだ。そしてなぜかまったく知らぬ人のような気がしなかった。考えると、駅、フェリーの港、全国津々浦々の交通のターミナル所によく貼ってある「全国指名手配のポスター」にその顔はあった。他の目立たぬ手配者違い、彼は見ることを意識していなくても目に入ってきた。長髪、黒縁の眼鏡、ギョロっとした特徴のある目、それにポスターの中のいかにも手配犯という面相ではなく彼だけは少し横を向いて微笑んでいる。他に並んでいる手配犯の顔に比べればブッちぎりの印象深い顔である。言い方は変だが、旅行好きの私が通過したターミナル所で40年間、それは町中にあるボンカレーや仁丹の宣伝看板の顔のように、風景の1つとして、見慣れ親しんできた顔だったのである。

 驚きのあと、数日を経ずして彼の死の報道の接したときは深い感慨を覚えたものである。その時の感慨はその死のニュースに接したときにブログにアップしているのでよかったらご覧ください。(桃山日記ブログ『逃亡者』ここクリック)⇒このブログを見るとちょうど一年前やなぁ、ブログの最後に「合掌」とささやかながら冥福を祈ったが、再度の今日のブログは彼の一周忌に書かれたことになる。これも何かの因縁か。


 本の副題に「哀しき49年の逃亡生活」という副題がある。逃亡犯で必死に身を隠し、基本的な生活(衣食住)にも困るような困窮を我慢し、あちらこちらと逃げ回っていたなら、確かに「哀しき」というタイトルもつこうが、本を読んで彼の逃亡生活を知ると、どうもそのような感想は湧いてこない。数年は確かに必死に身を隠し・・というようなこともあったが、49年の逃亡生活のうち40年はなんと同じ建設会社でずっと働いているのである。そしてボロの会社の社員寮に住み暮らしていたのである。左がその彼が暮らした社宅である。そこでつつましく40年すごした。

 ぼろぼろの住居にいささか「哀れさ」を感じぬでもないが、独居老人の私の家も変わらぬものである。その上に私の家内部ははっきり言ってゴミ屋敷である。ニュースでは家の外観しかわからないが本によればちゃんと片付いていたそうであるから、もしかすると悲惨さは私の方が上かもわからない。そこで仕事を持ち、40年間は罪も侵さず平穏に過ごしたのである。70歳を過ぎた貧な独居老人なら、晩年の彼の生活となんらかわらぬか、それより悲惨な人もたくさんいるであろう。

 そんなことからサブタイトルの「哀しき49年の逃亡生活」というような見方は75歳独居ゴミ屋敷ジジイの私にはできない。それに人間70歳を過ぎれば、タイトルの、「哀しき」はないとしても「・〇年の逃亡生活」っちゅうのも、見方をかえれば誰にでも当てはまるのじゃないだろうか。そのこころは?人は「死」から何とか逃れようといろいろやるものである。まるで逃亡犯が刑事から逃れるように。進む進路の危険は除去し不意の事故死に遭わぬようする。そして病気に捕らえられないよう健康法をやり薬を飲み、医学的措置を行う。これみんな「死」につかまらぬよう、いわば死からの逃亡生活である。とくに70歳を過ぎれば、確実に次々と捕まる人が増えてくる。70歳をスタートラインにして死から逃亡を始めると、10年逃れて周りを見てみると約半数が捕まっている。そして20年を過ぎる頃には数えるほどとなり、30年たって捕まらぬ人はほとんどなくなる。70歳の独居老人のさまを「哀しき〇〇年の逃亡生活」という所以である。


 彼の逃亡を追い立てるものとして「全国区指名手配写真ポスター」がある。アッチャコッチャに貼ってある。彼の写真は長髪、区別しやすい明確な顔といっていいギョロ目と微笑、実にわかりやすい。しかし、この本を読むと彼の逃亡生活のほとんどはそんなポスターに追い立てられたようなことはなかったようである。本によると彼の大々的な全国公開ポスターは1989年以降と書いてあったが、これ以前にも彼のポスターを私は見た記憶がある。またポスターだけでなく、テレビで時々やっている「24時警察事件簿」の類のドキュメンタリーで、なんども全国公開手配犯の顔写真を示し、情報収集を視聴者に呼びかけたはずだ。殺人逃亡犯で時効寸前に捕まった福田和子もこのテレビ公開捜査がきっかけでつかまった。地道な職業を持ち定住生活を送ったのがよかったのだろうか。寄せられる情報も少なく、近年は皆無、ともかくポスターは効果がなかった。


 そうそう、公開手配ポスターといえば、彼は写真でだがある映画に出ているのである。ほとんどの人は知らない。1981年封切り「駅」で高倉健、倍賞千恵子主演している40年前に封切られた映画である。封切り時に見ているのだが、DVDが図書館にあるので久しぶりに二度見をした時である。それは彼の訃報を聞いた後であった。見始めたときは彼の写真がまさか出ているとは思わなかった。出るのは映画のおわりのほうで、警官の高倉健(後ろ姿の人物)が何気なく増毛駅(北海道)にはられたポスターを見るシーンである。このシーンの右のポスターに四人が掲示されている。この右上が高倉健が探している同僚の殺人犯の手配写真である。この写真は映画上の架空の犯人である(俳優・室田日出男が連続殺人犯役をやっている)、しかしその下(ポスターの右下)に貼ってあるのは紛れもない桐島聡 の手配写真である。映画の上で伏線となるこのシーンの手配写真は、全部架空でなく、リアルな手配犯もそのポスターに配置されているのである。DVDなので何度か巻き戻し、拡大し、静止画像で確認しが間違いなかった。本人の断りもなく(当然だが)映画に使われたが、まぁ、これも犯人逮捕のためのテレビ公開捜査のようなものなので、映画の中で架空の指名手配ポスターの素材として使われたとしてもクレームも来るはずはないだろう。

 警察からは逃げ切ったが、遅かれ早かれ、死には捕まる。70歳という一里塚(誕生日)をよろぼいながらなんとか過ぎたが、一ヶ月を経ずして追いつかれた。かれの人生なんといっていいのだろうか

2025年1月26日日曜日

オールドファッションド・ラブ

  数日前の夕方6時過ぎ、暗くなった駅前の広場を横切って駅へ急いでいた。駅への最後の横断歩道の手前がずいぶんと賑やかである。まず聞こえてきたのが、♪~しやわせは~あるいてこない~だっから、あるいてゆくんだね~♪、ワイ「うぅぅ~ん?」「何ごつぞいなぁ~?」耳に注意が向くと次々音が聞こえてくる。タンブリンを叩くシャカシャカ、ジャラジャラの曲に合わせたリズムが聞こえる。暗い中、7~8人が何やらパフォゥマンスをやっているようだ。そして叫んでいる、さらに耳を傾けると、ギェンパツ~ハンタァァァイ~~~~!と繰り返し叫び、シュプレェイヒコールを繰り返している。曲とタンブリンのリズムに合わせ、まるでヨイショヨイショの掛け声で、踊っているようにリズムに体を預けてノリながら。グループの何人かは長い旗指物の竿を持って立っているが、曲リズムに合わせ体を揺らしている。旗は読まなかったがやはりゲンパツハンタイを書いてあるのだろう。


 この人たち、新興宗教でもなく、奇をてらったパッフォオマンスをやっているわけではない。いたって真面目な、ある政党のサポーターたちである。というのも、同じ場所で、だいたいは明るい時、「原発反対」「戦争絶対反対」「地球環境を守ろう」というスローガンを掲げ、それを叫んだり、またビラ・チラシの類を道行く人に配布し、また署名を集めたりしているのだ。手渡されたチラシを読んだことがあるが、その政党名が書かれていた。またその中のオバサンはピンクの服が好きでいつも着ている。ショッピングモルのイートインコーナでよくお会いするので知っている。このグループの人々全員、少なくともワイ(かぞえドシ75でおます)と同じ歳か、実のところは数歳上とみている。まさに団塊の世代イコール後期高齢者である。

 この活動、同じ年代のワイから見ても、多少の陳腐さを感じないでもないが、決して馬鹿にしたり、嘲ったりするつもりでこの人たちを取り上げたわけではない。

 時を55年前の1970年に遡らせてみる。ワイは紅顔白皙(?)の青年、青春真っただ中の大学二年生、当時は学生運動が盛んであったが、田舎である地元の大学であったことや、ワイ自身、政治的目覚めにオクテだったこともあり、全国を吹き荒れた学生運動の大波に洗われ強い影響を受けることはなかった。しかし富の平等や人権を最も大事にする社会主義思想には親近感をよせ、初めての選挙権行使となった国会議員選挙ではマルクス主義政党に投票した。ある時、学生の政治集会に誘われたことがあった。学部は違ったがその勧誘の学生は顔見知りであった。ノンポリ学生と思われるのも嫌なので参加した。一方的な演説を聞く集会ではなく、各自がそれぞれ意見を戦わす円卓の討議会のような集会である。

 まず自己紹介から始まったが、もうそこからワイはしどろもどろ、何を言ったかも覚えていないが思い出すのも恥ずかしいことは確かである。そりゃそうだ政治や社会変革に何の信念も思想ももたないんだもの。それに比べ、社会主義、具体的にはマルクス主義の系譜を引く活動に参加している学生たちの輝くような鮮やかさに驚嘆してしまった。女子学生もいたが、どう表現すればいいのだろうシャープ?スマート?タフ?一騎当千の女戦士?、男子学生と議論しても一歩も引かない自分の立ち位置を明確にする主張は、威厳さえ感じた。本当にみんなみんな言うこともすがた形もカッコよかった。

 そして時は流れ令和七年の初春、あのすばらしかった討議会に出た学生たちはどうしているのだろう。もしや今夜の駅前のこのパッフォゥマンスにいるのだろうか。

 この駅前のパッフォゥマンス、「陳腐」とはよびたくないな、ワイの二十歳の頃、あこがれさえ覚えたんだから。同世代を生きたワイからすると「古風」とでも呼んだ方がいいだろう。「古風」にはワイがその時感じた懐かしさや愛着がこもっている。

 ふと、「オールドファッションド・ラブ」(古風なものへの愛着)という言葉が頭に浮かんできた。と同時に、目の前で流れている曲が水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」であったんだなと思い出すより先に、当時の深夜放送ラヂヲから聴いた「オールドファッションド・ラブソング」の歌が思い出された。

 懐かしいのでヨウツベでオールドファッションド・ラブソングを聴いてみました。

2025年1月23日木曜日

大寒をすぎて

  久しぶりの投稿です。先月までは一ヶ月に十本以上ブログを投稿していたのに「どしたんかいな」と思われたかもしれませんね。そんな時は一般的に言って、理由は三つある、一つ忙しくて書く間があらへん、ただし、忙しいには二つあって行楽なんどの楽しい忙しさと、苦役をせにゃならん嫌な忙しさがある。二つは、書く気が失せている。三つ目は、体調不良。この二つ目と三つ目は連動しているといってもいい。体調不良だとだいたいは書く気が失せるものである。しかしブログの中には末期の癌の闘病ブログみたいなのもあるから、一応、書く気と体調不良は理由として分けている。

 「ほんで、おまえはどんなんぞぃ」と言われると、私の場合は、具体的に言うと、胃の不調からくる不安神経症である。私の胃は70年近こぉピロリ菌にさらされ続けてきた。検査で分かったのは4年前、すぐ除去の抗生物質を飲み陰性にはなったが、その時医師から、長年ピロリに胃がセセられてきたから、発がん率も高くなってる。そのため一年に一度は胃の内視鏡検査をするようにいわれた。で、それから、毎年、一月に内視鏡検査をしている。今年は1月20日である。

 胃の内視鏡検査はもう15年前から10回はやっているのでそれに対する不安はない。しかし半年前くらいから、胃のもたれ、胃の焼けるような感じ、ちょっと表現しにくい独特の胃の不快感などがあり、それが月日とともに高じてきていたのである。年が明けてからはますますそれらの症状がひどくなった。夜中の空腹時に起こるため眠りも妨げられるようになった。ただよく効く薬があってそれを一錠飲むと3~4日は症状が解消していたのであるが、年の暮れくらいからは症状が進んだか、薬が効きにくくなったか、二日に一錠飲まなければやりきれなくなってきた。素人判断からも「悪化しているんじゃ」と思わざるを得ない。内視鏡検査を前倒しすることも考えたが、医師は一月に検査すればよいという。薬を飲めばとても良く効くが、間をあけると途端に症状はぶり返す。そして最近は内服の間隔が狭まってきている。自分としては悪化の一途を辿っているんじゃないだろうかと不安になる。悪化の一途を辿るといえば、これは胃癌の可能性があると思い始める。

 そんなわけで病院が長期休みに入った年末から内視鏡予約日の1月20日までは、そのような不安で心も重く、ブログも書く気が失せていたのである。それで検査終了の結果はというと、医師の言わく「食道、十二指腸、胃、ともに腫瘍はナシ、しかし食道と胃の境目あたりに逆流性食道炎の兆候が見られる」とのこと。逆流性食道炎は他の人にもよく見られる症状で、外科的措置などは必要なく、投薬で対応できる病気である。さらに医師が言うに「今アナタの飲んでいる良く効く薬、症状が出てくるなら毎日飲んでもだいじょうぶですよ」

 しかし半年前からだんだん強まってくる胃の症状、最近は極度に胃の焼け付く感じや、痛みに近い胃の不快感が出てきた。それがいったいそんなに軽い病気だろうか。一応、医師の診断として、表面上は安堵したが、不安が全面的に解消したわけではない。胃以外の内臓の病気も考えられるしな。

 まぁ以上のような次第で、ブログの更新が間遠くなった理由として胃の症状による不安神経症で書く気が失せてることをあげたわけである。

 検査の1月20日は大寒の日であった。これ以後ここ数日朝晩は寒いが日中は春のような暖かい日が続いている。そのような日、阿波三峰のなかの1つ、もっとも標高の低い「日の峰山」へ上ってきた。ジジイが登るにはちょうどてごろな山である。港町小松島が一望できる。

 向こうに見えるのは日の峰神社社殿


日の峰神社の境内から小松島湾と紀伊水道が見える。 


展望所から小松島市街をみる


山の反対側からは大神子海岸が見える。沖には白のオーシャンヘリーが東京へ向かって進んでいる

2025年1月12日日曜日

元日から今日まで

  早いもんで年ぃがあけてはや今日は12日、あっちゅうまにすぎてもた。これっちゅう特筆すべきこともない。ええことも起こらなんだがわりいこともなし。無事っつうこつが唯一めでたいこと。今年しゃぁ「数え歳」でいやぁ、わいも75歳じゃ。いつ死んでも違和感のない歳じゃ、去年は妹もなくなったことだし、今年はワイが死ぬ年順番かもしれん。そうおもて、年が改まってから、「終活」つうことを考えぬでもないが、「終活」になんやかやのモノの整理が含まれるなら、ほんなこと、ワイはよ~せんわ。自然の法則に逆らわず、衰退終焉はひたすらエントロピーが増大するもんじゃ、っつうことを宗教の信念のように信じているから、それをワイの生活に当てはまると、具体的には「ワイの生活空間はひたすらゴミ屋敷と化す」ということ。親戚だっても家には上げないから、整理整頓もせず気ままにしている。当然家の中はひこづりさがしている。

 下が今日までのブログのため撮った写真

 元日、ヨンモォルへいったら獅子舞をやってた。出演料のゼニくれるんだったら、白髭ジジイのワイが三番叟踊ってもよかったんやが。


 ほぉじゃ、わりぃことといやぁあったわ!大晦日頃、喉と鼻に風邪の症状がでて、夜寝るとき、咳やぁでるし、鼻は詰まるしでセコかった。だから三が日はあんまり外をフラフラできず、家のホットカペットの上でゴロゴロしよった。病院も休みで売薬ですませたが、あまり良くならなかった。幸い熱はでぇへなんだが、薬のせいか、あるいはなんか新種の風邪の症状か、蕁麻疹様の発疹が体に吹き出てきたわ。で一週間ほどはしんどかった。

 9日、通り町のえべっさんの市を見てきた。香具師の「四谷赤坂六本木、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水、粋なねぇちゃんたちションベン・・」、聞きたいが、今や寅さんのような啖呵売はない。


 次の10日はガイにさぶかった。前日夜半から雪になり、朝起きるとご覧のようにあっちゃこっちゃで雪景色が見られた。




 きにょうの11日初春の海がみとぉなって、小松島金磯弁天沖の小島を見てきた。風邪もだいぶよぉなったのでサブいが磯風に吹かれながら動画を撮影した。