徳島空襲のブログを書いていて、ふとある写真を思いだした。それで古いアルバムを押し入れから引っ張り出し(頁がちぎれてバラバラになったいた)その写真を探した。あった!それが下の写真である。正確な年月はわからないが、終戦近くの我が家(私が子供の時に住んでいた家)であることは確かである。「じいちゃん、ばぁちゃん、ふるばぁちゃん、お久しぶりでございます、わたしもジジイになりました、もうじき、ほっちへ行くけんな」
写るのは祖父母と祖父の母親、つまり私の曾祖母である。小さい子供がいるが私の親父ではない、近所のこどもだと聞いているが詳しいことは知らない。わたしの親父は当時、長崎県の大村か諫早の航空隊の訓練生だったのでここにはいない。
多分私が小学校時代の時、この古いアルバムを見て、自分が生まれる前の古い写真にたいする好奇心からいろいろ聞いたと思われる。そのとき徳島大空襲のことを聞いたことをおぼろげながら思い出した。
我が家は鴨島町にあったので徳島からは20km離れているからもちろん被害はなかった。しかし東の空が異様に赤かったと言うようなことを話してくれたような気がする。なぜこの写真から祖父母が徳島大空襲についての話をしたかというと、この写真を見ながら私は祖父の右後ろに立てかけてある箒を逆さまにしたようなものについて聞いたのである。「これって箒ぇ?」、その説明はおおむね以下のようなものであったと思う。
これは空襲で火災が起きたとき(焼夷弾攻撃で)、その先についているビラビラの縄か布に水をたっぷりしみこませ火炎をそれで叩いて消すのだそうである。『火はたき』と呼ばれる手作りの防火用具だそうである。それらは各家庭でめいめい作って備えるだけでなく、それを持って近隣住民全員参加の防火訓練が度々おこなわれ、隣組(町内会)のみんなと協力して火はたきをつかったり、集団のバケツリレーの訓練をしたということも話してくれた。人の記憶とは不思議なもので、昨日徳島大空襲のブログを書き上げそれを読み返していると、そういや、子供の時一枚の古い写真をみて空襲や防空防火のはなしを祖父母から聞いたことを思い出したのである。今まで完全にその記憶は眠っていたのに。
このような準備や訓練も、前のブログで紹介した「徳島大空襲の手記」によると、極めて発火性が高い液体が吹き出し、爆発的に発火し、花火のように火炎が周りに飛び出す焼夷弾に対しては、日頃の防火訓練や防火用具は、ほとんど無力だったことを大勢の人が証言している。
1 件のコメント:
yamasanに似てますね。仲の良いご家族ですね。
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