歴史的なブッダ・釈迦(ガウタマ・シッダルタ)は紀元前6世紀のインドに生まれ、仏教の開祖となりその教えを広め、80年ほど生きてガンジス中流域にあるクシナガラで亡くなったとされている。そのブッダの死のことを仏教徒は『涅槃』に入ったと称している。涅槃は原語で「ニルバーナ」といいその音をもとに漢訳で「涅槃」という語(漢字)が作られた。涅槃の境地に入ると生死を永遠に繰り返す「輪廻転生」から解放されるといわれている。そのような境地は私のような凡人の理解するところではないが、原語のニルバーナのそもそもの意味は「火の消えた状態」をいい、これは自我も欲どころかあらゆる認識や思考さえも消え去ることを暗示していると思われる。それなら「涅槃の境地」とは(現代人の多くがそうではないかと思っている)死後の霊魂の存在など認めない唯物主義の『死=無』と同じような気もするが、永遠に生死を繰り返す輪廻転生からの解放が「涅槃」であるのであるから、涅槃は単なる唯物主義の死=無でもない。
ブッダは齢・80歳になったとき死期を悟り、王舎城から死地への旅に出る。その数か月の最後の旅のようすそして臨終のようすはかなり詳しく知られている。その旅そして臨終(すなわち涅槃)のことが「お経」になって残っているからである。そのお経が「大パリニッバーナ経」である。このお経はパーリ語(古代インドの言語)で書かれているが中村元によって邦訳され『ブッダ最後の旅』として岩波文庫本として出版されている。左の本である。先日図書館で借りて一気に読んだ。 お経でありながら一気に読めたのは、これ、全然お経らしくなく、平易な言葉で述べられているからである。師ブッダと弟子アーナンダの言葉のやり取りが縷々述べられており、旅のエピソードや旅の途中絡んでくる人物などまるで日記を読むように綴られている。もちろんお経であるから「教え、諭し」が主題であるが、これをブッダの終焉日記としての読み方もできる。江戸末期(もう19世紀になっていた)の小林一茶の「父の終焉日記」を読むような調子で私は読むことができた。
まだ完全には悟りきれない最愛の弟子アーナンダが(やがて来る死の別れを想って)激しく泣く場面や、それを見て「泣くなアーナンダよ」と呼びかけたり、また死期の迫ったブッダの肉体的な苦痛のようす、その症状などのリアルな描写を読んで感じることは、市井のどこにでもいる80歳の爺ちゃんが病み衰え死を迎えるようすと何ら大差ないということである。2500年前の大宗教の開祖である聖人の死である。「お経」というならもっと奇跡的な脚色を入れて飾ってもよさそうなものだが、そんなものはなく、修行の果てに行きついた人の死はこんなだろうな、というような自然な死期のようすである。それだけにブッダの最後の旅と臨終のようすを書き記したこのお経は、ブッダの最後はきっとこのようなものでありこれが実際起こったことに違いないと信じさせる力がある。
現代の日本人男性の平均寿命は80歳である。これはまさにブッダの享年である。どんな立派な人であっても老衰し、病気で蝕まれ死んでいく。死の迎え方にそれぞれの違いはあるが、このお経に描かれているブッダ最後の旅のエピソードは現代に持ってきても、ある老人の死の旅と見て全然違和感はない。私の住んでいるところは四国遍路の道中にあたる。歴史時代でいえばつい最近、昭和の前半私の父の時代までは遍路旅を死出の旅と心得、実際に巡礼途上で死を迎えるお遍路さんも多かった。そんなことを想いながらこの「大パリニッバーナ経」を読んだ。
体の衰弱激しくいよいよ死がまじかに迫ったのを感じたブッダはクシナガラの二本の沙羅の木(双樹)の間に臥所をしつらえさせ北を枕に右腹を下にして横たわる。インド・クシナガラの地は現代でも疎林の原野があり自生の疎林には沙羅の木(印度沙羅の木)も多い。この臨終の場面もそうであったことが十分納得できる。ブッダ最後の言葉は「もろもろの事象は過ぎ去るものである、怠ることなく修行を完成せよ」であった。諸行無常の真理とともに修行の完成を命じている。そのあと瞑黙状態に入りやがて涅槃を迎える(臨終)。この臨終の描写もそうあるだろうな、というリアル感に満ちている。
ブッダの臨終の時、沙羅の木は時ならぬ花をつけ、満開になりブッダに降り注いだといわれている。この部分は宗教的な脚色が若干見られるが、沙羅の木(夏椿)は開花とともに落下するのも極めて早い花でもある。少し大げさかもしれないが、入滅したブッダに開花した花が降り注ぎ散り注いだというのもあり得る状況としてわかる。
ところでこの夏椿・沙羅の木、わが四国山地に自生している。といっても群生しているわけでもなく、またヤブツバキのように派手で目立つ花をつけるわけでもないから、夏椿の開花期とはいえ四国山地をさまよっても見つけることは難しい。しかし幸いなことにあることが目印になる。そう、まさにお経に出てくるように花が降り注ぎ降り散らした場所を探せばよいのである。山地のそれらしい場所(夏椿は湿潤でそう日当たりのよくないところを好む)を下を向いて歩いていると、白い落花の(全部の花ごと落ちている)塊があるところがある。そこが夏椿・沙羅の木の自生場所である。
木肌の感じは百日紅の木に似ている。
古くから巡礼、あるいは聖として遊行しながら四国山地で生を終えた人は数多くいるだろう。中にはブッダのように沙羅の木(夏椿)の根方に横たわり臨終を迎えた人がいるかもしれないな、と考え、それから涅槃とはいったいどのようなものなのか、ということに思考が向いていくが、悟りの階梯の最初の入り口にでさえ達することが出来ぬオイラにそれは無理、とやめる。
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