仏教の世界観(宇宙観といってもいいだろう)はどうなっているのか、気になって調べたことがある。しかし仏教的宇宙観を本格的に勉強したいと思ったなら、仏典の三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)の一つである論蔵の『倶舎論』を勉強しなければならないといわれている。しかし倶舎論は膨大な量に加え、難解で(つまりそれを読みこなすには前段階として多くの仏典を読んで理解していなければならない)いまさらとても原典を読むことなどできない。どうしてもそれについて簡単に解説した仏教・宗教学者あるいは哲学者のそれについての(仏教的宇宙観)本を読んで知ることになる。
多くの人が最も興味のあるのはこの宇宙の「始原」であろうと思う。宇宙はどのようにして始まったか、いやそもそもその原初は、無から有を生じるというふつうはあり得べからざる事態が起こったのではないか、それはどのように無から有へと転換できたのか、もっとも根本的な問いはそのあたりになるであろう。この問いは現代科学の最先端の量子物理学を基礎とした宇宙論でも常に問題にされる。これらの科学的宇宙論は今のところ確かめようがないのでみんな「仮説」にすぎないが、その中でもっとももてはやされ、様々な解説書も書かれた仮説はホーキング博士の「宇宙の始まり論」である。この仮説によると無から有が生じたことが論理的に説明されているので、それが一般人まで人気を博した理由であろう。誰かが言ったが、この理論をもってすれば「神」つまり絶対的創造者の居場所は宇宙の始まりに必要がない。宗教や神学はこれによって大きく影響を受けるのではないかと。
では仏教には宇宙の始原についてなにか神でも仏でもいい、創造に手を貸した「絶対者」がいるのかと問うと、これがいないのである。この点はキリスト教やイスラム教などの宗教と仏教の宇宙観の違いである。それじゃぁ、突然、なんの因果もないのに無から有(つまりこの世が生じたのか)、と疑問に思う。もしかして無・有とかいう対立を超えて、また始原というような時間の区切りなどのない時空を仏教は想定していたのかしらん。と思ったりしていた。しかしそれとも仏教は違っていたのである。
仏教のといったがそれはあくまで「倶舎論」の話であるが、始原は現代科学の仮説の一つであるホーキング博士の宇宙論の言うように仏教も「何もないカラッポ」を想定している(もっとも仏教的宇宙論は円環的に栄枯盛衰を何度も循環するため宇宙が滅びた後の状態とも言ってよいが)。そこでこの倶舎論的宇宙で無から有への過程で登場するのが「業」(カルマ)である。これにひかれて宇宙が生じてくると説明されている。そう聞いても浅学菲才の私にはよく理解できないが、神や仏などの絶対者がいないのはわかる。また「業」にひかれて宇宙の生成云々、といえば仏教の根本思想の「業」「因果」「応報」などの述語が思い浮かぶ。仏教は宇宙の始原においては創造的絶対者を立てることなく仏教的論理によってその始原が説明されているのである。
宇宙の仏教的始原についてはぼんやりとしたイメージしか湧かないが、宇宙が作られてからの仏教的宇宙の構造を理解するのはさほど難しくない。倶舎論もこの部分は非常に具体的で私が読んでいてもよくわかる。ただし科学的な懐疑の目をもって見れば、現代わかっている宇宙の構造には全く当てはまらない。仏教的宇宙の構造は重層になっている。よくご存じの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界であるが詳細に見れば地獄はもっと細分化された階層になっており、上に位置する天上界はさらに細かく分かれ上方に重なっている。分類でいえば天上界は「欲界」から「色界」、「無色界」にまで重層して重なっている。
われら有情(いきもの)はまさに「業」に引かれて生死を重ね、悪業にひかれれば下の界(地獄など)に落ち、善業に引かれれば天上界へ生まれ、何度も輪廻を繰り返すと教えるのが仏教の輪廻転生である。科学的に説明される宇宙しかこの世には存在しないと思っている現代人から見れば、このような宇宙は全くありえぬばかばかしい話と思われる。だがここでちょっと視点を変え、人類の発展・展開(進化といったほうがいいか)の時間軸を空間軸に転換すれば仏教の言うこのような重層的な各界は存在するのではないかと最近は思うようになった。
倶舎論のいう宇宙(この世)の構造は今からおよそ2000年も前にインドで考えられた、そしておそらく極めて想像力豊かな人によって人間界の上方に「天界」が考えられた。なぜ想像力豊かな考えかというと、二千年前の実際に生きた人が想像出来得る限りの理想的な国として天界は描かれていてそこに住む人はもっとも好ましい性格や姿、形、を持っているのが天人である。具体的にいうと天人は、埃や垢のつかない清潔な体をしていて、病気とは無縁である、望むところへ素早く移動できる(空を飛ぶ)、お互いに意志疎通するのに饒舌なおしゃべりはいらない。ただ目くばせするだけで意志は通じる。もちろん寿命は人間とは比較にならぬほど長い。天上界は上方に行くにしたがってむき出しの欲望はなくなる。
二千年前のインドの人が、もっとも良い国土、そして最もよい住人として理想的に考えられたのが「天界」であった。当時としてはこの地上には存在しないまさに天上の国であった。ところがどうであろう、(人類の歴史から言うと)わずか二千年しかたたない今、昔のインドの人が考えた「天界」に今の世が近づいてきているのである。人々は車や航空機によって高速に、望むところへ行けるようになり、多くの病気は克服され、夭折はほとんどなくなり寿命はウンと延びた。それに加え特に近年、スマホを各人が持つようになった。これなどは倶舎論でいわれた天界の天人の意思疎通の手段とほぼ同じである。
倶舎論宇宙が考えられて二千年で人界はこの進化である。人類の歴史に過去世と同じ長さの未来があるとすればあと何万年か過ぎればさらに進化の度合いは深まる。人界はどれほどの変化が起こるであろうか。倶舎論で考えられた重層的な天界の最上階くらいの状態に達するのではないだろうか。天界は数十も上に重なっているが最上階は「非想非非想天」といい、そこまで達するともはや天人は肉体を持たない、いわば精神のみの世界となる。例えが間違っているかもしれないがこうなるともはやプラトンのいう「イデア」、精神のみの理想世界である。はたして人類の進化が数万年続けば肉体を持たない精神のみの人が生まれるのであろうか?わからないが可能性としてはありそうである。この人界の進化の時間軸を空間軸に転換し、上方に積み重ねていけば人界から始まって数十ある各天界が積み重なり、まさに倶舎論の言う宇宙論と相似する。
天界の最上階の『非想非非想天』(有頂天ともいう)は、精神のみの天人世界であり、肉体を持たないので滅びや衰亡とは無縁であるように思われる。イメージとして考えるならキリスト教やイスラム教の言う『天国』であろうか。彼の宗教のいう「天国」は絶対的な、ということは滅びも衰亡もない永遠の楽園である。しかし仏教は違う、最上階の『非想非非想天』ではあっても必ず滅する秋がやってくる。衰亡し滅する、これは間違いのない仏教の本質といっていい。
中世の説話でもっとも面白いと思われるのは「今昔物語」である。面白すぎて高校の古典でとりあげられるばかりでなく、幼児向けの絵本にまで取り上げられている説話である。この三十数巻ある説話の第一巻第一話にいきなり「天人の衰亡」(天人五衰)が配されている。現代人が今昔物語について語るときは下世話なおもろいはなしに焦点が当たっているがこれはそもそも仏教説話集である。その一番大切な最初の巻に、たとえ天人であっても衰亡し滅することからは免れられぬという話を持ってきたのは仏教説話の筋立てとしては当然である。
それはお釈迦様の前世譚として語られる。お釈迦様も前世では数え切れぬほどの輪廻転生を繰り返して来たのであるが釈迦として生まれる直近の生は「天界」にあった。永遠に続くかとも思われた楽土における衰亡は突然にやってくる。それは天人に五衰の相として表れる。次のような五つの兆候である。
1、瞬きするようになる(天人は瞬きしない)
2、頭上の花鬘の花が萎む
3、衣に塵、垢がつく
4、脇より汗が流れる(天人はふつうは汗など流れない)
5、本座を楽しまず、とある、解釈すると安住できずあちこちをさまようことであろう。
ここに滋賀県聖衆来迎寺所蔵の国宝・六道絵がある(13世紀作)の六道絵の中の天人部にその天人の衰亡しつつある天人が描かれているので見てみよう。
まず天人の国の概観を見てみよう。天空には天人が舞い、思うところへどこでも飛んでいくことができる。
地上ではこのような楽園が広がっている
その中によく見ると何か疲れた様子で、地にへたり込んで頬杖をついて横になっている天人がいる。
これが五衰の相を現した天人である。このあと衰亡そして消滅(死)が待っている。別の絵図で拡大してみるとこのようになっている。
釈迦の直近の前世はこのように天道の国の住人であったが五衰の相を現し、天上国で滅して釈迦国の王子として転生するのである。仏教的宇宙の最上層の天上の国の住人は数万年生きるともいわれている、それでも衰亡消滅は免れないのである。いや天人の衰亡滅亡どころか、この宇宙そのものも倶舎論の説くところによればきわめて長い時間(劫)をへて壊れてゆき消滅がやって来るのである。