2019年9月20日金曜日

お経の花

 一週間ほど前から『法華経』を読んでいる。この本はお経なので一応断っておくが読誦ではなく、源氏物語や史記を読むように読書をしている。

 読誦でよむばあいは音読みの棒読みで独特の節をつけて音読する。お経は漢字の羅列であるが読誦のために読み仮名を振ってあるからそれを音読みするわけである。すらすら声に出して読めるが当然ながら意味などは分からない。これはわからなくていいのである。わからないながらありがたいお経を読誦する行為そのものがありがたいのである。

 では『法華経』を読誦ではなく読むとはどうするのか、私が読んでいる『法華経』の版は岩波文庫の『法華経』である。これには三種類の『法華経』が記載されている。まず一つ目は一般的に「お経」と見られている全文漢文の『法華経』、読誦はこれを順次に音読みしていくわけであるがそんな読み方をしても読書(意味を理解する)にはならない。二つ目はその漢文の下に書かれている漢文読み下し文、こちらで意味をとるわけである。そして漢文とその下の読み下し文が同じに記載されている頁の見開きの反対ページにはその漢文の対訳で三つ目の(そもそもの法華経の原書のインドの)サンスクリット語を現代文に邦訳した『法華経』が載っている。

 まず私は漢文(白文で漢字ばかりの羅列、返り点、送り仮名など全くない)に目を通し、下の読み下し文を見ずに自分なりに読み下してみる、そして意味をとる、意味が取れないところは読み下し文を見ながら時間をかけて理解する。少しづつ読み進んでいって段落のまとまりになりそうなところで切り、最初に返り、その位置まで再び読み下し文で今度は一気に読み、段落のまとまりの意味を理解する。

 そして一章を(法華経の場合は『章』とは言わず『〇〇品』と品を使う)読み下し文で読み全体の意味が把握できるようになったら最後にサンスクリット語の法華経の現代訳を読む。このようにして岩波の文庫版の『法華経』を読んでいるのである。そして一週間でやっと法華経の第一章に当たる『序品第一』が読めた(ちなみに法華経は全部で二十八品ある)。

 さて最後まで読むにはいつまでかかるか。途中でギブアップするかもしれない。老化が激しいので読む先から忘れてしまい全体を把握することができなくなるという心配もあり読破はおぼつかないかもしれない。しかし1500年も昔から人々は意味は分からなくてもお経を読誦し、書き写してきた。その行為そのものに有難い功徳があると信じられていたからである。また写経したお経、あるいはお経の版本を持っているだけでも功徳があることもまた同じである。私もそれにあやかって法華経を読むという行為そのものになにかしらん有難い価値があると信じて読んでいるのである。

 岩波版『法華経』は上中下の三冊となっている。全冊を県立図書館で借りてきた。延長も含め6週間は借りられる。最初はこの図書館の本を読んでいたがとても6週間では読めるはずもない。出費になるが本屋で購入することにした。徳島で一番大きな本屋の紀伊国屋で探したら岩波文庫のコーナーに上中下三冊並んでいたので取り寄せることもなくすぐ手に入った。文庫本だが一冊1100円、三冊税込みで3500円余、雀の涙の年金暮らしのジジイには痛い出費だが、先も言ったように『法華経』の本を持っているだけでも功徳が得られると信じ買った。

 今朝、散歩をしていると小川の土手にマンジュシャゲの赤い花が咲いていた。この花、今ちょうど読んでいる法華経の序品第一の最初に出てくる。
 「蔓陀羅華、摩訶曼陀羅華、蔓殊沙華、摩訶蔓殊沙華、而散仏上」
 マンダラケ、マカマンダラケ、マンジュシャゲ、マカマンジュシャゲ、と四種の花が仏とその聴衆のいる仏国土に雨のように降り注ぐのである。

 ありがたい花だ、思わず花に向かって合掌する。


 しかし合掌した次にはウンと世俗な歌が私の口をついて出てきた。

0 件のコメント: