2014年4月10日木曜日
お~い、オボ方さん、オボ方さんよ~♪
「真理」というのは絶対的で唯一の物か?と問えばどう考えます。う~~ん、難しい。まず「真理」とは何かの定義から考えなきゃならん気がする。じゃあ、「真実」と言い換えればすこし話が分かりやすくなる。なぜなら「真実」の方が我々の日常生活で用いられる場合が多いからだ。
ところがわれわれの生活における真実は実際には見極められることは少ない。けっこう人々は曖昧に、ある程度の疑義を抱きながら、真実を確定せずに暮らしている。むしろそのような中途半端な生き方の方がうまくいくかもしれない。
しかし、生活の上でも真実を見極め確定しなければならない場合もある。例えば犯罪に関するような場合だ。もし被疑者として逮捕されたら、有罪になるにせよ無罪釈放されるにせよ「真実」はどのようなものであったか確定しなければならない。
それは「裁判」よって果たされる。司法の信頼性云々はあるにしても、民事上の疑義、あるいは犯罪上の疑義については『裁判によって真実を明らかにする』という言い方が一般的であることからもわかる。
これはあくまでも人間が生活するうえでの真実の追及であって、自然科学的な「真実」を裁判に持ち込むと大変なことになる。ガリレオは自説の「地動説」を裁判によって裁かれ、真実でないと撤回させられたのは有名な話である。科学的真実が裁判によって確定されることほど愚かなことはない。
今、世上を大いに騒がせているSTAP細胞の真実がまさか裁判によって黒白がつけられることはないだろうが、科学的な疑義を説明しようとする場に、本人とともに弁護士が何人も助言者として付き添い、不服申し立て、とか、審査会で再調査とか言うのを聞いていると、素人のワイなんかは、「このヒト、もしかして裁判する過程で科学的真理を確定する気やろかぁ、」と誤解してしまう。
会社でか弱い女子がセクハラやパワハラを受けて、我慢できずに
「裁判で真実を明らかにします」
とか言っている人のようにも見える。今日の記者会見の雰囲気などは、科学的な疑義の弁明の場には見えなかったがなぁ。
でも彼女が、会見の弁明でヨヨヨ~~~、と涙を見せて泣いた時は、ああ、可哀そう、組織や上司のおっさんがみんな悪いわ。オボちゃんは、じぇんじぇん悪いことないわ、と思った。が、よ~~~ぉ考えると、真実がどうかというのが問題で、オボちゃんが良い悪いの問題ではないわなぁ。
おお~い、おぼかたさん、おぼかたさ~ん~よ~♫
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2 件のコメント:
未熟な研究者が大発見をすると、こういう事になるんやな~みたいな感じですね。
科学の客観性からは、ほど遠い答弁でしたよね。良く言えば、右脳と左脳の統合がとれているというか、科学に芸術と感情を取り入れた革新派の研究員と言えるかもしれませんが、生徒を叱責する先生的な構図の方が、しっくり来るかな?(^_^)
サムラといいオボちゃんといい、マスコミは天の高みにまで持ち上げといて、今度引きずりおろしてぶっ叩く、あくどいですね。
それにしてもこの数か月、芸術、自然科学のゴシップネタが続きますね。今度は文学かという気もしますが、文学者はかなりエキセントリックな人が多く、文学なんてもともと嘘っぱちの詐欺みたいなもんだから、これはネタにはなりませんね。
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