2012年10月18日木曜日

道富丈吉 日蘭ハーフ


 長崎旅行を企てる以前から、この道富丈吉の名は知っていたが、長崎へ言って旧立山奉行所にある歴史博物館、出島跡にある出島博物館で勉強し、その人のことがよくわかった。

 まず、この道富丈吉の父はオランダ商館長(カピタン)のドーフである。母は遊女となっているが、前のブログで紹介したように、遊女の身分でなければ出島に入れないので、仮に遊女の身分になったことも考えられ、そのままは受け取れない。つまり、普通の娘であった可能性もあるわけだ。
 といってもこの時代遊女が今思われるほど卑しい職業とは思われていなかったことも事実だ。

 母「遊女、瓜生野」から生まれたのは1808年(文化5年)だ。名前からわかるように男の子であった。今日、彼の肖像画は残っていないが父、ヅーフの日本人画家による肖像と、オランダの肖像をあげておく。

 父に似ていたのかどうかはわからないが、日蘭のハーフである、さぞや美男子だっただろうと推測する。(そういえば宮沢リエも日蘭ハーフだ)
 
 父はオランダに子供もなく跡継ぎもいないため、彼をつれて帰りたかったが日本の国法ではそれができない。残された子は、日本で混血児として苦労しながら成長するかもしれないと、父は危惧したであろうと思われる。というのも彼は、日本を離れるに当たって、子供のために長崎奉行にくどくどと子供の行く末を頼んでいるのである。
 
 そのため彼は長崎奉行所に自分の財産である白砂糖を預け、その利子を子供の養育に当てることを頼むのである。白砂糖と知っても馬鹿にしてはいけません。記録によれば、その預けた白砂糖の代金の利子だけで年間400両あったそうですから、充分な養育費です。
 
 頼まれた長崎奉行は快く引き受けたそうです。そのときの長崎奉行はあの桜吹雪の刺青で有名な遠山の金さんのお父さんだったそうですから、歴史は面白いですね。
 
 さらにヅーフは幼い子供に名前をつけますが、オランダ語の名前では将来いじめられるかも知れないと思ったのでしょう、日本名『道富丈吉』と名づけます。切ない親心ですね。
 でもこの道富(ミチトミと読む)は、音で読むと「ドーフ」、自分の名前も刻んでいたんですね。
 
 ヅーフは養育費の心配ばかりでなく、幼い子供の進路も心配しています。日蘭ハーフで一般的な職業にはとても就けないから、どうか、唐物目利き(オランダ、中国の貿易の貿易仲介者の一種か)にしてくれるよう頼んでいます。
 
 このように日本を離れるにあたって幼い丈吉のことを心配したが、その丈吉はかわいそうに17歳で病没する。
 
 聡明であまりにも美しく、神に愛されすぎて早々と神の国に召されたのでしょうか。
 
 シーボルトの娘、いわゆるオランダおいね、は有名であるが、彼のことを知る人は少ない。



2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

 当時の日本に利子という概念が通用したんですか?信じられません!金貸しが昔からあったのなら利子も昔からあったのか・・・そんなことより実際長崎奉行が利子を支払ったのだからそうなんでしょう。丈吉がなぜ死んだかはわかりませんが、15歳の少年に100両もの大金を渡せば正常な精神状態にはならないでしょうね。過保護でないほうがよかったかなとかも思いました。(-_-)

yamasan さんのコメント...

日本の江戸時代の金融システムは我々の思っている以上に進んでいました。為替、利子、などは大いに運用されていました。

 先物取引の嚆矢(初め)は大阪の堂島の相場です。これはアメリカのシカゴ先物取引所も認めていることです。

 もちろん信用取引も行われ、現銀、元本を越えて、信用取引の額は膨らんでいきます。

 欧米以外で近代にすんなり資本主義化ができた国は日本です。江戸時代に資本主義の基となるものが発達していたのは明らかです。