あっしの高校時代、昭和43年頃、真面目な高校生の悩み事相談が高校生ジュニア雑誌などに載っていたが、その中でこんなのがあった。
『高校の男子です。マスターベーションを毎日します。多い時は一日2回もします。やめようと思うのですがとまりません。終わった後でもうやめようと思いますが、股(また)(せんずりを)かいてしまいます。止めるはずなのに誘惑に勝てなかった自分に罪悪感を感じます。
どうしたらいいのでしょう、相談にのってください。』
今だと、大いにおやりなさい、いいことですよ。と励ます相談者もいると思うが、当時はそうではなかった。時代を遡ればこんなお説を垂れる相談者がいたのだ。
『禁欲的に全くやめるには及びませんが、回数を減らしましょう。スポーツや芸術に興味関心を向け、マスターベーションのエネルギーをそちらの方に使いましょう。これを心理的には昇華といいます。』
ふむふむ、性欲は大いなるエネルギーの源となる。これは納得できる。またそれを昇華で高次(?)な芸術に向ける。これもありそうでそうかな、と思う。
しかし、マスターベーションを一日何回しようが、まったく我慢しようが、そのことがこのような心理的な昇華のメカニズムに影響しようとは思わない。
なぜなら禁欲してる人がそうでない人より芸術的に力を発揮しているとは思えないからである。
まあ、そういうわけで、センズリ(マスターベーション)を減らす必要はないが、性欲は高次なものに昇華してある象徴された造形芸術になりうるということにしておきましょう。
さて、みなさん、右手をだして広げてください。そして人差し指と中指の間に親指を挿入(?)してグー(拳固)を作ってください。これは日本では(ほかの国でも)性行為そのものの象徴となります。拳固の指の間から親指がちょこっと顔をのぞかせるのが、なぜそうなるのか、これは高度な知能を持った人間の象徴行為です。もちろんよく似た連想を働かせるから象徴となるものです。
この象徴という作用が人間になかったら芸術は生まれなかったでしょうね。
ぐだぐだ述べる前置きはこれくらいに、徳島公園、秋の野外彫刻で『性リビドーの象徴』ではないかと私が見た作品をご紹介します。
製作者がつけた主題は『たわむれ』、しかし私がつけるとすれば69・シックスナイン!
平面的写真ではわかり難いと思います。まあ、百聞は一見に如かず、公園まで足を運んで一度ごらんあれ。