2025年9月24日水曜日

昨日の秋分の日のこと

  小ンまい時から一年に二回ある彼岸の中日っつあん(秋分春分)には、ほぼ毎回阿讃山脈の麓にある切幡寺へ祖父母と一緒にお参りしたものだった。祖父母も無くなってからは中日っつあんの日の切幡寺へのお参りも途絶えがちになっている。昨日は秋の彼岸の中日っつあんである。前日から自転車を漕いで寺参りしようと思っていた。距離にしたら片道10kmだが、吉野川を渡り、扇状地地形になっている登り坂を自転車で行くため、老耄が進んだ自分にはちょっときつい。

 昨日十時過ぎに家を出ようとしたら、外は小雨がパラついている。前日までは全般に曇りの予報だったから往復20kmを自転車で行こうと思っていたが、雨が降るなら、合羽を着てまで行くのはおっくうである。思わぬ事故にもあいやすい。それで切幡寺へ行くのはやめにして、バスで門前まで行ける立江寺へお参りすることにした。

 立江寺山門と境内


 数日前まで見かけなかった曼珠沙華の花が野原、線路脇、路傍に咲いていて、秋の風景に真っ赤な彩りを添えている。



2025年9月8日月曜日

なんやかやのこの24時間、こりゃ、なんぞいな

 


 まず昼ごろ「石破首相辞任」という大きなニュスがテレビ・ラヂヲ・ネットで駆け抜けた。石破はんにたいして、どびつこいくらいに、「やめや!」「いんややめん!」(これは主に首相個人というより取り巻きや支持者が多かったようであるが)の応酬がこの一か月以上繰り返されてきたように思う。ワイがネットのヤッホーニュスに接したとき、今までのそのような経緯もあって「ホンマかいなぁ」と半信半疑だったが、午後6時のニュスで首相本人がTVのまえで会見して正式発表するに及んで、確実になった。

 そうなるとやめる石破はんはどぅーでもええ。どうぞ、よい余生をお過ごしくださいだが、次には、一国民としては次の首相や内閣はどんなもんになるかに関心が移る。日本には議院内閣制、首相指名衆議院優越の規定があるため、衆院過半数の政党があればすんなりその党の総裁が首相になるのだが、現在の状況ではそうはならない二つの政治状況がある。

 一つは多数党である自民党が衆院で過半数を維持していないのだ。多数ある野党ももちろんどれも過半に達しない。北西ヨーロッパのいくつかの国のように野党がいくつか政策協定を結び合同して過半に達し、連立政権を作るという洗練されたやり方を今の日本の野党に求めるのは無理のようである。そうなる衆院の決選投票で比較第一党の自民党総裁に首相が選ばれる可能性が大きいが、もしかして与党の一部を巻き込んでの野党が連合して過半数人達し、首相指名選挙で野党の中の一人を指名したら、自民党の総裁が首班指名で選ばれない可能性も排除できない。

 第二はこれから自民党の総裁選びが本格化する、政治空白を避けるためできるだけ早く決めるのが良いが、国会議員票だけでなく全党員の意志を尊重する総裁選が行われる見通しが大きい。今のところまだ、ワイが、ウッチャがでますと、手を挙げている人はいないようだ。権謀術数にたけた人々が多くいると思われているのが残念ながら自民党である。本当に党だけでなく国家の政治を任せられる党総裁がその過程で選ばれるのか懸念がある。

 ネットなんぞを見ていると、何人かの有力候補が上がっている。注目度の高いのは二人である。一人は小泉政治一家の御曹司小泉進次郎、もう一人は奈良県選出衆院議員の高市早苗である。さて、この人が立候補するかも含め行方がどうなるか見ものだが、この二人にはもう一つ注目するべき理由がある。この理由は大したことではなく、政治的な資質にどう関係するの?と突っ込まれれば、あえて言うべきことでもないかもしれないが、まぁ、言っておく。

 進次郎はんの場合は、もし今年中(たぶん10月)に選ばれれば歴代内閣総理大臣の中で初代伊藤博文と並ぶ44歳の若さとなり、一位タイの若い宰相が誕生する(厳密にいうと博文はんのほうが4ヶ月びゃぁ若いがともに44歳は変わりない)、戦後に限ればダントツの若さ40代首相である。

 早苗はんの場合は、もう猫でも知っているとおもうが憲政史上初の女性首相となる。それどころか、史上で探しても女性権力者が最高位の政治権力の座に就くのは、たしか尼将軍と言われた北条政子まで遡りゃならんから800年か?女性にとってはドえりゃぁこっちゃわ。

 先に言ったようにそんなことが選定するにあたっての価値になるかどうか疑問があるが、世界の先進国である北西ヨーロッパなんぞで、若い、あるいは女性の首相や大統領が誕生しているのをみると、ええなぁ、とは思わぬまでも、進んでるな、それに比べ、ジイヤやんや、くたびれたおっさんげぇな歴代首相を見てきたワイからすると、日本は遅れ取るわ、という感情が湧いたのも事実である。


 阪神ファンにとっては首相退陣のニュスよりなにより、阪神優勝が決まった午後9時台の興奮に勝るものはないだろう。もしかしてまた道頓堀に飛び込む人が出るかもしれんとおもってたら、案の定、29人も飛び込んだらしい(外人もいたようだ熱狂につられたんかな)。死人がでたらどないするねん。昔、あばさかって道頓堀川へケンサンダースの人形を放り込んで川底で行方不明になっていた。あの時呪いで阪神は以後17年も優勝できんかったと言われたやないか、これ、死人でもでたら17年どころの呪いやないでぇ、今世紀中は無理かもわからん。剣呑なこつはせんこっちゃ。


 深夜、2~3時ころ皆既月食があるとのこと、多くの人にとって観測が困難な時間帯だっただろう。ところがワイにとってはそうではないのである、一晩に1~2回、又はそれ以上の時もある、ションベンに夜中に起きるので、ちょろっとワイの家の庭に出れば西に傾く月食の月が観察できるのである。で、目ぇ覚めたのは午前3時ちょっと前、ションベンにいって庭に出ると、なるほど、「ブラッドムーン」と呼ばれるだけのことはある、赤黒い月がみえた、ちょっと不気味な感じがした。日本語に訳すと「血塗られた月」とも訳せる、これ占星術ではどんな意味、あるいは予兆が言われているのか、気になってネットのAIに聞くと以下のような回答をしてくれた。

『占星術において皆既月食は、人生の大きな転換期や生まれ変わり、そして手放しと成熟を表す特別なエネルギーを持つ日とされています。これは、普段よりも深い「シャドウ」や無意識と向き合うことで、過去に区切りをつけ、自分自身の本当に大切なものを取り戻すための旅の始まりを告げる象徴でもあります。特に、感情に流されず、具体的な視点で物事を整理し、価値ある人間関係を選び取る「境界線を引く」作業をサポートする力があるとされています。』

 よ~意味が分からん、ワイに引きつけてかんがえるとどうゆうこっちゃ?なんぞええことがある、あるいは積極的になんぞやったらええことに結び付くんかいなぁ、だれぞわかる人おりまっか。

2025年9月3日水曜日

SF映画を見て


  左の映画、タイトルは『ミッキー17』である。数か月前に封切られた映画で、封切り前にある雑誌であらすじやその評論を読み、興味深かったので見たいと思っていた。封切り時は映画館まで足を運んで見るつもりだったが、結局、見られなかった。しかし最近ビデオ屋で新作DVDとしてリリースされたので先日借りてみた。見終った感想であるが、私としては期待以上に面白かった。


 すこし大袈裟な表現かもしれないが、「人が生きているとはどうゆうことか」、「人の死とは何か」「不死は可能か(少なくとも数世紀にわたって生きられるか)」などについて考えるきっかけを与えてくれる映画であった。とはいっても明晰ではない頭脳しか持ち合わせのない私である。考えるきっかけを与えてはくれたが、上記三つの問題について考えが深化してまとまって自分なりの解答が見つかったわけではない。しかし、こんな問題は一流の頭脳を持つ自然科学者や哲学者であっても容易に解答が得られるものではないだろうことは確かであるから、映画を見終って、少しでも私なりにそのことについて考えただけでも価値のある映画だと思っている。

 映画を見ていない人や映画について何の情報もない人にこのような書き方をすれば、なんか小難しい映画じゃなかろうかと思われようが、そんなことはない。ジャンルでいえばSF映画ではあるが、たぶんにコメディーの要素も加わった娯楽映画であり、上記の三つの難問を考えるきっかけとなるか否かは別として、大人から子供まで、単純に見て楽しめる映画であると思う。

 ただ、子どもの時から理科が好き、あるいはSF的な話題が好きで、未来、死を超越するような科学の可能性に少しでも思いをはせたことのある人ならば、この映画を見ながらこのようなことを考えるたのではないだろうか。

 近年3Dプリンターは発達は目覚ましいものがある。被写体の形状(つまり色形)を驚くべき緻密さで再現できる。並べればオリジナルなものと見分けがつかない瓜二つである。だが現在のところはその素材は金属かプラスチックが多い。外部の形体ばかりでなく内部構造も瓜二つにする3Dプリンターはまだ開発途上である。しかしこれもやがてできてくるだろう。もっと技術が進めば形状、内部構造、また素材の化学組成も同じものがプリントされるようになるだろう。突き詰めれば、分子レベルで同じものがコピーできる3Dプリンターができるかもしれない。タンパク質や脂肪で複雑に構成された「ウインナーソーセィジ」をこの3Dプリンターでコピーすると全く同じ組成構造(有機物)が生成され、もちろん食べてもオリジナルと同じ歯ごたえや味が味わえるのである。分子レベルで同じものだから当たり前である。

 さて、ここで映画に話を戻す。未来、人類は別の恒星系の惑星に移住している。そしてそこには、分子レベルで正確にコピーできる3Dプリンターが一台ある。その再現度は100%である。そしてコピーされるのは生身の人間、ミッキーという青年である。そんなのあり得ない!と突っ込みを入れられようが、少し考えればわかるが、生きている我が身である自分であっても、それはこの宇宙に存在する複雑ではあるが、分析可能な構造、組成をもった「物質」である。出来る出来ないは別として、自分が存在する以上、自分と同じ組成構造の物質である「コピーされた自分」もこの宇宙に存在することはあり得る。

 映画では実際にそのコピーされたミッキーという青年が主人公となって活躍する。さらっとコピーされたミッキー、と書いたがそこには最初に書いた問題を惹起する大きな謎がひそんでいる。まず、完全に瓜二つにコピーされてプリンターから出てきたコピー人間は生きているのか、という疑問である。つまり自由に動いて思考できるのか、もしそうだとして、これが「生きる」と言うことになるのだろうか。しかしこれはこのコピー機の発明発達段階の上で過去に解決されているはずだ。過去に人間ほど複雑ではない例えば単細胞生物の「アメーバ」のようなものを正確にコピーした段階で、確かめられたはずであるからである。捕食活動を行い、細胞分裂で増えていけば、それは生きたアメーバーを作り出したと言えるからである。

 だが人間のような精神活動を行う生物ではどうか、コピー機から出てきた段階で、被写体のヒトと同じ思考活動ができているのか、映画ではこのようなコピーされたヒトの精神活動についてもいくつかの科学的な伏線があり、(精神活動も含めて生きた人間をコピー機で作るということも)納得できないこともない。

 思考、記憶などの精神作用も含め、完全コピー人間が「生きている」とすれば、映画を見ていて私自身に引き寄せて思ったことは、これはもしかして万人がこい願う「不死」になることの福音となるかもしれないということである。私が死んだとしても、まったく同じコピーの私が生きているとすると、私は死んだことにならないのではないか?しかしこれには常識的な反論で否定されそうである。

 「なにぉ、アホぉげたこと言いよんぞい。ワイはワイじゃちゅう強固な自意識がワイにあるのに、コピーされた人間にそれが移るんかい。そんなことがあるかいだ!」

 ここでこのようなシュチュェーションで考えてみよう。ヒトは過度の疲れ、あるいは何か病気で、非常に深い眠り(昏睡)に落ちたとしよう。記憶も自意識もその間は断絶している。しかし目覚めれば、すべてが回復し、目覚めた自分は前と同じその人の人生を続ける。これは誰もが経験することである。では、その昏睡状態のままその人をコピーする(分子レベルで何もかも100%同じものができるとする)そして、オリジナルの人がその時点で死んだとする。しかし同じにコピーされたその人は昏睡状態のまま存在し、やがて目覚める。さて?そこでだ、目覚めたそのコピーは、死んだオリジナルのヒトの何もかも持っているはずだから、記憶からも、そしておそらく脳から生まれる「自分は自分じゃという意識」や、「眠り以前の自分も今の自分もずっと続いているという強固な自意識」もオリジナルの人と全く同じに持っているのではないか。この状況で、昏睡して死んだあとコピー人間が目覚めるのと、単に深い眠りに落ちた人が目覚めるのと、なにほどの違いがあるのか。

 しかしこれで人は死ななくなるといっても、常識が納得しない。やはりコピーできない、その人をその人たらしめている「ナニか」がある筈で、それがコピーできずに本体の死とともにそれが失われるのだから、やはり、コピーが生きてもその人には死であるのではないか。だが前提として、分子レベルで100%同じコピー人間が出来たのである。そのコピーできない「ナニか」は分子どころか物質でもない何か「霊」のようなものを設定しなくてはならないのではないか。

 そう難しく考えなくても、このような反論もあり得る。

 「じゃぁ、オリジナルの人間が死なずに、コピーが同時に存在し、その人の目の前に現れれば、自意識は、オリジナルから離れ、コピーといわば共有されるような、まるでシャァマン(巫女)に霊が憑依したように一体二霊あるいはその逆のような一霊二体の不可思議な自意識状態となるのか。」

 そんな馬鹿なことはありえないから、やはり本人であるという自意識は当人固有のものでコピーは持ちえないと考えるのが常識ではないか。死は厳然たる人の消滅であり、100%同じコピーを作っても死を免れることはできないのではないか。

 映画では、この「死」と「完全コピー人間」についてどのように考えているのか。実は映画ではオリジナルが死に、すぐコピー人間が作られるが、そのコピー人間も(過酷な使命が課せれれているため)17回死ぬ。しかし原則というか厳然たる規則(法律)があって、オリジナルが死ぬまではコピーはできず、作られたコピーは必ず一体しか存在できないのである。つまりオリジナルあるいはコピーが死んだ時点で次のコピーが出来上がるのである(オリジナルの人体情報は煉瓦くらいの大きさの装置に網羅され記憶されている)。だから上にのべたように二体の同人が存在して対峙することはなく、一霊二体とか二霊一体とかいう不可思議な状況は映画では巧妙に避けられているのである。そういうわけで必ずこの世には一体しか存在しないのである。その17回生死を繰り返した(コピーとしてだが)青年ミッキーは、以前の記憶も持っているし、脳の内部構造まで完全にコピーされているから性格も、それから強烈な自意識も全く前者(死んだ)と変わりがない、だから自分は死んで完全に消滅したとは思っていない(ここは重要である)。彼にとって死と再生眠っていて目覚めたようなものである。このような映画の説明もなるほどと納得できる。

 皆さんはこのような映画の状況の下、はたしてミッキーは17回死んで、今存在するミッキーは別物と思われますか。それなら死は免れえぬ運命と思えますが、まったく同じ正真正銘といってもよいくらい完璧なミッキーが続けて存在するとすると、周りもそして続けて生きている本人さえも、死は、蝉が脱皮して抜け殻を残すような軽い状態が「死」じゃないかとも思われてきます。

 ところが映画はこれで終わりません、クライマックスは、なんと17回目を生きるミッキーが死んだと思われて、18回目のミッキーが作られるのです。しかし17のミッキーは死んではおらず、17ミッキーと18ミッキーが同時に存在して対峙するのです。この時、同時には存在してはならない決まりのため、18ミッキーが、どうせ死んだと思われているし、死んでもまたコピーとして生きるんだから、お前が死ねとばかり17ミッキーを襲います。その時、面白いというか、当然のことだろうと思いますが、17ミッキーは、死ぬのが怖いといって、逃げます。対峙することによって17ミッキーは、18ミッキーとは別物だということに気づいたんでしょう。「死」はやはり厳然たる消滅であり、たとえ完璧に人体や脳、記憶をコピーできたところで生者必滅は覚悟しなければならないのでしょうか。