2024年9月30日月曜日

バス路線の廃止

  明日は10月1日、ちょうど年度の折り返し点だ。ちょうど一年度の半分が終わったちゅうわけや。まぁそれだけならどうっちゅうこともないが、明日1日からは、ちょうど切りがエエちゅうんやろか、値上げのタイミングとなる。新聞報道によれば3000品目あまりが値上げらしい。その中にはバス代値上げも含まれている。と同時に、今日でいくつかのバス路線が廃止にもなる。小松島線の55号バイパス経由路線と石井鍛冶屋原線である。

 ビンボォ人や交通弱者にはキツイ10月がやってくる。バスは平均すると2割強値上げ、でもこれは同情できるところもある。例えば、徳島駅から鴨島駅までのバス代は今日までは470円であった。それに対しJR四国鉄道の徳島~鴨島間の汽車の蒸気賃は今530円であるから、汽車の蒸気賃よりバス代が安いのである。だからそれに合わせる形での値上げならやむを得まい。

 値上げもこたえるが寂しくなるのは、路線廃止や減便である。バスはわりと手ン頃やすく廃止にできる。これに対し鉄道の路線廃止は、汽車が運行中止になるばかりでなく、駅舎をぶち壊し、線路を引っぺがし、すべて更地にするから、その鉄道廃止は何とも言えない喪失感と侘しさをもたらすが、バスはそれほどでもない。バス停のポールの撤去くらいである。また、もしいつか復活したり、新路線を設ようとする場合は、道路わきにバス停のポールを立てるだけでいいのだから、道路がある限りはすぐに復活できる。だから一縷の希望をもって、またの日の復活を夢見ることもできる(まずホンなことはないだろうが

 しかしそのような感傷以上に路線廃止は交通弱者ビンボ人で車も持たない貧窮老人)にはつらいことである。

 今日限りで廃止になる石井鍛冶屋原線にお別れするつもりで、老人パスの「ながいき定期券」を使い、その路線の「石井中」バス停から「羅漢」バス停まで乗った。下はその動画と写真である。


 下のバス停も今日で廃止。拡大して時刻表をみると、一日たった五便しかないが、それでもこれを頼りにする交通弱者もいるのだ。時刻表の下には、9月30日最終便をもってこのバス停は廃止します、とある。この撮影日が今日9月30日、なんとも哀愁あふれる写真である。


 下のバスの行き先表示の「上鮎喰・フジイオンタウン経由鍛冶屋原行」も今日までで明日からは見られなくなる。

2024年9月26日木曜日

やってきましたワイの好きな季節と花が

  あくぁぁい花なぁぁら~、まんずぅしゃぁぁげェェェ~、オランダ屋敷に雨がぁふぅぅる~チャカチャンチャン


 野原、あぜ道、墓地などでようやくと曼殊沙華の群生の真っ赤な花が見られるようになった。昨日午後、飯尾川沿いをあるき、曼殊沙華の群生を撮ってきた。まだ蕾の状態の花も多く、この分だと十月に入っても満開の花が見られそうである。例年だと十月の声を聴くころには立ち枯れて、入れ違いに細長い葉が伸びてくるのだが、今年はずいぶんと遅い。

 曼殊沙華の特徴として、葉は全くなく、茎のみがスックリと一本延びていてその先端に派手な大輪の花簪(花かんざし)のような花が一輪ついている。よく見ると不思議な花である。




 私はこの曼殊沙華、一般の人はヒガンバナという方が親しみがあるだろうが、大好きである。しかし、これもまた一般の人には人気がある花ではない(最も今の若い人は違うイメージで接しているかもしれない)。むしろ縁起の悪い花として忌避する人が多い。
 
 彼岸花と呼んでいることでもわかるようにこの花は秋のお彼岸頃に咲く。お彼岸は、先祖の霊に感謝し、慰めるため墓参りをする日である。そもそも「彼岸」という名詞は死後に至る世界を表す。そのため名前と言い時節といい、なにか「あの世」や「霊」のイメージに結びつきやすいようだ。おまけに墓地などに好んで咲く。そのため昔の人ほど縁起悪い花として見る。

 別の嫌う理由としては、花全体に毒をもっている、とか、茎を折った時に発する匂いが悪酔いするようだとかあげる人もいる。しかし私はそんなことには全然頓着しない、上から見るとまるで万華鏡のような複雑な放射状の花は、本当に美しいと思う。それに花期が短いのもいい。あっという間にその美しい花を見せる時期は過ぎ、あと長々と一年間待たなければ再びみられない。その短い時期に、ここを先途とパッと咲く花は潔く美しい。桜がそうである。しかし桜はほぼ万人に愛されるがこの曼殊沙華は違う、なんか不当な気がする。

 この花を見ると私は昭和13年のレコド「長崎物語」を必ず歌う。

 鎖国時代、ハーフであるため海外に追放され、「日本こいしや、一目見たや」と言いながら帰国を果たせず、異国でなくなった「ジャガタラお春」という一女性の悲運な一代記を3分40秒の歌にしたものである。

 出だしの、♪~赤い花なら曼殊沙華~・・濡れて泣いてるジャガタラお春~で曼殊沙華が出てくる。これは、こんなに美しい花でありながら、人の偏見によって邪険に嫌われているのを、お春と重ねて歌っているのであろう。また曼殊沙華のその儚く短い命(花期)もそのイメージを盛り上げている。

 曼殊沙華が「歌」「ポエム」に取り上げられるのはこの歌「長崎物語」も含めてそう多くない。その少ない中で、新美南吉の絵本「ごんぎつね」の曼殊沙華の花は印象的である。「畔に赤い布を広げたような曼殊沙華の」、そして「葬列の」(江戸期喪服は白が主)は、子どもに、母を亡くしたかわいそうな与十、そしていたずらするのでなかったと強く反省するごんぎつねの、色による強烈なイメージを与えている。

 さぁあ~、今晩、銭湯に行って、この「長崎物語」の歌を、唸るぞぉぉぉぉ~

2024年9月25日水曜日

台湾の青年と一緒の妹と甥

 妹が最後に徳島に来たのが去年の10月19日だからもう一年たつ。この日焼山寺へ一緒にお参りした。

 妹はそのあと、高知へ巡礼の旅に出た。私はその一日だけの同一行動であったが、不思議な縁があるもので、その三日前、16日、ローカル線の列車の中である台湾の青年と一緒になったことがあった。妹の巡礼旅とは全く別の巡礼を一人続けている青年である。歩き遍路の格好をしていたので私が話しかけた。陽気で社交的な青年で、車中話がはずんだ。

その時のブログがこれ、ここクリック

 そんな台湾の青年との出会いがあった後、妹と焼山寺参拝の19日をすませて妹とは別れた。それからさらに三日後、22日、妹は高知の札所をまわっているだろうと思う頃、妹からメールがあり、その台湾の青年と一緒になったという。妹が私の16日のブログを見ていてくれて、それが縁で、その台湾の青年に妹が「もしかして16日、うちの兄に列車の中で会いませんでしたか?」と聞いたそうだ。

 なんと、巡礼を続けていると不思議な出会いがあると聞く、ふっとすれ違った老巡礼が、何十年も前に亡くなった父と同じ顔格好だったというのはよく聞く話である。そんな大層な奇縁ではないが、これもちょっとした奇縁であることは間違いなかろう。

 記念にその高知の寺であった台湾の青年が写真をとっていて、その話とともにメールで送ってくれた。もう一年たつので、ここにその写真を公開する。この時はこんなに元気だったのになぁ、と感慨にふける。

2024年9月24日火曜日

ジジイとAI その1 理解は遅々として進まず

  老後の教養として去年くらいから、おベンキョしょ、と思っているテーマは二つ。一つは「エントロピー」で、もう一つは「AI」である。五月くらいまではエントロピー関連の本を読んで勉強していた。まぁ、これが理解できたかというと怪しいものである。しかし、いつまでもエントロピーばっか勉強はできないので、夏くらいからは「AI」関連の本を読んで勉強している。

 じゃけんど、最初に借りた本が難しかった。「AI」を知る基礎として機械学習の原理「AI」の基礎原理じゃわな)これにはディープラーニング(深層学習)が含まれるようだが、それから始めたら、これ、基礎っちゅうたら普通は易しいもんかと思うが、何ぃがぁ~~~、ドえらく難しい。「高校数学でわかるディープラーニング(機械学習)」というサブタイトルの本を読んだが、難かしゅうてわからん、機械学習とは何ぞや、というのを数学を用いて説明しているのだが、はっきり言ってチンブンカンブン。頭がクルクルスットンパァ~である。


 上記の本(高校数学でわかるディープラーニング・機械学習)は図書館で借りていたのでわからないまま返却した。やっぱりこういう本は自分が身銭を切って買って、永久的に手元のおいてモモグリまくらなあかん、と思い、それより易しい機械学習の本はないかと本屋を探したらあった。サブタイトルは「中学数学でわかるAIのエセンス」、うんこれだぁ~!、高校数学でわかるAIの機械学習は、数学が難しゅうてわからなんだから、一段おとして中学の数学を手引きとしたら、まちっと易しいだろうと思い、購入した。左の本である。

 しかし買ったら買ったで「これでいつでもベンキョできるわ」、となぜか安心してしまい、そのうち読もうとおもいつつ、けっこう内容が(中学程度とはいいながら数学的理解を中心に構成されているので)ハードであるから、先延ばし、先延ばしで、読み進まない。確かにザッとみたところ、私でも理解できそうな数学でAIの機械学習を説明しているのだが、現状、まだ身を入れて読み始めていない。

 言い訳のようだが、こういう理数分野からのAIに対するアプロゥチは若いほど効率よく進むと思う。私がもう30年若ければなぁ、と思う。なんしにそう思うか?そのころは私は45前後の歳、なんぞ役立つ資格を取ってこまそ、思うて、理系資格を勉強していた。なんと同時に二つも。一つは電気主任技師(三種)、それと測量士(補)、どちらも複素数や三角関数を含んだ高校の数学が必要である。今から思うと、よ~ほんな小難しい勉強ができたなと自分でも感心する。だからそのころの私の頭だとこのAIに関する勉強もはかどったに違いないと思った次第である。(ちなみに電験は科目合格はしたが全合格はなし、測量士補は合格し登録できた

 その代わりAIにかんするもっとソフトな教養書はよく図書館で借りて読んでいる。もちろん数学が要るような説明はなし、老若を問わず読める教養としてのAIについての本である。これにはいろいろな切り口がある。例えばチャットGPTを世に知らしめたサム・アルトマンはんのインタビュゥに基づくものとか人工頭脳の歴史から説いたもの、また「生成AI]を実際動かして目的にかなう文章や画像を作る作業はどないするか、そのための具体的指示、これはうれしいことにわけのわからんコンピュゥタ言語なんぞ使わんでも自然言語で指示できる。ただしその指示の言葉には細心の注意が必要である。その指示「プロンプト」の例などを説明した本、など、多様な関連本がある。


 こないだ読んだ本で強く心に残ったのが左の本(これもAI関連の教養書だ)。衝撃的なタイトルである、いわく「人類滅亡の2つのシナリオ」、その一つが人が思いもかけぬAIの進化による滅亡、人類滅亡といっても全滅もアリえるが、それより次代の主役がAIとなり、人は従となる、別の言葉で言い換えれば、隷属する存在となる方の公算が大きい、と警告する書である。

 この中で筆者はAIの発展段階を三つに分けている。1⃣ 特化型人工知能、2⃣ 汎用人工知能、3⃣ 人工超知能、である。我々が未来に夢見ている便利なAIは2⃣ 汎用までのAIである。3⃣ の人工超知能になれば、もはやAIの知能の状態、というか何を考え、どのようにそれが自律していくか人類には分からなくなる。そしてそれは自ら進化する、本書では「プログラムを自ら書き換え延々と再帰的自己改善するAI」と説明されている。こうなると人類とAIの差はゴキブリ(こちらが人)と人間の知能の違い以上に隔たってくる。

 確かにコンピュータの発達の歴史をみるとそれらの性能は指数関数的に増大している。そして時とともにそれは加速を増している。コンピュータの発達から生まれたAIは、これから宇宙のビッグバンのような加速的膨張に近い進化を遂げるとしたら、もはや人の手に負えるものではなくなる。この21世紀は「人新世」などと万物を支配する人類の世の始まりといわれていたが、アッという間に人工知能その主役を奪われてしまう。今はまだそんな懸念はないだろうが、遅々とした生物の進化に比べ、AIの進化は数億倍以上速いかもしれない、アルトマンはんはそれを爆発的進化と呼んでいるようだ。人工知能があらゆる面で人を追い抜いた時、何が起きるか?宇宙のビッグバンのような次元の違った大変革が待っているのじゃなかろうか。

 とまぁ、これがこの本を読んだあとの私のザッとした感想である。

 これらの教養書の内容も勉強になるが、字面を読んでいると、カタカナ術語がたくさん出てくる。わけわからんから、一々調べているが、このカタカナ術語の定義を知ることは、いい勉強になる。そりゃそうだ、AIとは何ぞや、と勉強するのに、その説明に現れる「言葉」(AIの術語)を知らねば、それこそお話にも何にもならない。左記の本だと例えばこんなカタカナ術語が出てきている。

 GPT、ソースコード、モジュール、プロトコル、クラウド、インターフェイス、リソース、CPU、などなど。

 さて、こんな調子でどこまで、おベンキョが進むやら・・・

2024年9月20日金曜日

お彼岸の入り

  昨日は彼岸の入りだった。「もうお彼岸なのにぃぃ~~」と恨めしく思うのは、連日つづくこの暑さ。私の小ンまい時、祖父母がよく言っていたのは「暑さ寒さも彼岸までや」である。楽しかった夏休みが終わっているのに、昼間はまだ暑い日が続いていて、「暑ぅ~い、もっと夏休みが欲しいわぁ~」と不平をいうと、その言葉を返された。毎年のようにそのようなやり取りが繰り返されたが、確かに彼岸が近づくと、暑さはおさまった。なるほど、その言葉はホンマやわ、と子どもだが季節感として刻み付けられた。

 しかし、地球温暖化っつうのだろうか、近年、そのような季節感も変化してきているようだ。きにょうは県内で猛暑日を記録し、きょうも同じような猛暑になるという。昨日のブログでも紹介したヒガンバナもお彼岸より遅れて咲くようだし、こりは気候帯が熱帯に近づいているような気がする。彼岸の入りに猛暑日なんぞ、聞いたことないわ、と思うのも当たり前、気象台の観測史上最も遅い猛暑日とかいってた。

 そうそう、例年だと、彼岸の入り頃になると、気温の低下や雨の日が多くなって、お墓に樒の花を上げても葉が黄色く変色したり、花生けの水が大きく減ることもなかった。だから秋分の日の一週間くらい前に墓掃除に行って樒の花をお供えしたものだった。しかしこの猛暑・カンカン照りである。一か月前のボニのころなぞは前日に墓にあげた樒の葉が黄色く変色していたのである。そんなに早く樒をあげても彼岸中日までに枯れるのがおちだから、墓掃除は早めにしても花を上げるのは控えていた。

 しかし昨日は「彼岸の入り」三日もすれば秋の中日っつあんだ。あまり直前ちゅのもどうかと思い昨日の彼岸の入りに、農産市でできるだけ新鮮な樒の花束を三つかって墓にお供えしてきた。枯れるのが心配だから日に一度(早朝か夕暮れ)は花立に水をやりに行くつもりだ。幸い、墓が家から数百メートルびゃぁだ。

 ところで墓用の花であるが、ウチらへんでは樒(シキミ)一択のところが多い、昔、子どものころ祖父母に、なんでもっときれいな花をあげんの?とい聞いたら「色花はあかん」と理由も言わずいわれた。秋の彼岸頃には、墓地などはヒガンバナが真っ盛りできれいな赤い花をつけている。子どもごころに、まるで自然がお墓に飾る花を供しているようだ、とおもった。何本かとって供えようとしたら、「それは葬斂(そうれん)花じゃけんど、墓にや供えるもんとちゃぁう」と、また言われた。そういうものかとこの歳まで墓用は樒一択で来ている(仏壇は菊などもあげるが

 前々日、その樒を買うのに遅くまで開いていて便利な量販スーパで見たら、一束450円もする。高いのでやめて、次の日、地産を扱う「農産市」で樒をみると、墓用にちょうど良い高さ数本が束になったのが200円びゃぁだったのでこれを三束かった。仏事にケチるのはどうかと思うが、同じ品質で安ければ仏さんも許してくれるだろう。

 そんなことを思いながら当日のローカル紙(徳新)をみると阿川佐和子さんがエッセイを載せている。その主題が墓参りの花である。阿川佐和子はんの家の風習では墓花は色花を供えるようだが、問題はその値段である。花屋で墓参りに調整された花束を探すと、一束数千円である。連れ合いは6本かうという、阿川はんはもったいないから本数を減らしては、という話になったが、ご先祖様にケチるなと、言われそうだとの懸念なども書いていた。結局、別の花屋でも探し、バラにして花々を買い、家で6束にして5000円で済んだから、比較的安かったと感想を書いていた。え、5000円で安いってか?ほな、うちの三束で600円はずいぶん安いようだ。これも樒一択だからか。



 実のところ、お彼岸の墓参りの必要アイテムを安く上げようとすれば、「百均仏具コーナー」がお勧めである。上述の樒であるが、造花の樒が百均にある。左のようなものである。これを墓の左右花立に三本づつ、計6本買っても600円びゃぁである。「香華を手向ける」という言葉の「華」はこのように百均で調達できるし、「香」は「線香」としていろいろな種類が百均にある。お茶の香り、さくら、ラベンダー、それから白檀ちゅうのも(本ものだと高級品だ)ある。数珠も同じコーナーにそろっている。

 いくらなんでも百均グッズでお参りされても・・ご先祖様はどうおもうか、と阿川はんの懸念もわかるが、いいわけのようだが、参る人の供養しようという「こころ」が大事なんじゃないかなと思う。いや、やっぱ、ほれではアカン、ちゅう人は、豪華な葬式の方が良くて、悼む心がこもっていても簡素な葬式はアカンちゅうんやろか。最近は豪華な葬式は流行りまへんで。お墓の仏さんにしても、彼岸が来て「仏、ホットケ!」でおまいりもしない人より、百均グッズでもお参りしてくれる方がずっとええと思いますがな。

2024年9月18日水曜日

今日、曼殊沙華の蕾をみた

  毎年、九月になるとこの花の咲くのを今か今かと待っている。私はこの花が好きである。この花を見ると♪~赤い花なら曼殊沙華チャカチャンカチャンカ~と歌いだす(長崎物語・昭和14年由利あけみ))。

 今年はその蕾を見ることも今日まではなかった。早い年なら9月8日くらいに蕾や開きかけの花を見たことがある。やはり異常な猛暑が影響しているのだろう。

 今日見た曼殊沙華の蕾も水場の近く、ここは水辺に面しており、少しでも涼しいから開花が早いのだろう。

2024年9月17日火曜日

仲秋の名月

  今日は旧暦の八月十五日である。旧暦の15日であるのでほぼ真ん丸の月が出る。この夜の月は「仲秋の名月」と言われている。午後6時前には地平線に姿を現した。雲もなく晴れた夜なのでいい名月が見られた。

 下は午後6時20分ころの仲秋の名月


 向こうに見えている山は眉山である。


 ススキなどは飾らなかったが、「お月見だんご」を買ってきて高坏にのせた。


2024年9月16日月曜日

九月十六日雑感

  暑い!彼岸がすぐそばまで来ているのにこの暑さ、天に向かって、「もぉ~、おこらえなしてぇ~」といってもゆるしてくれる気配はなく、一週間予報を見てもまだまだ暑さは続きそうである。ただ週の後半になると熱帯夜はなくなるようであるが、雨の日が多くなり、湿度高く、ビショビショとうっとぉしそうな天気となるかもしれない。

 今日の午後二時ころ小松島あたりをフラフラ歩いていたがその暑いこと、日差しは秋の気配だけに、真夏よりいっそよけいに暑さを感じる。フラフラ歩っきょるいうても、もう後期高齢者に近いジジイである。剝き出しで歩いてはたまらん、折り畳みの雨傘を日傘としていたが、汗が体中から吹き出てくる。

 「ここは、どこじゃ」、熱中症寸前のボッとした頭で確かめると、大原から中田の県道沿い、みると向こうに郵便局前のバス停がある。この小松島バス路線は半時間に一本はある。乗ってこましたろ、思てバス停に向かったが、タイミング悪く、バスが追い抜くように走っていって、そのまま(停留所にいないので)行ってもた。

 このまま歩いていたらホンマに熱中症になりかねん、幸い近くにスゥパのショッピングモルがあり、イートインコゥナァで休む。冷茶は持っていたが、もうぬるぅなっとる、なんか冷たいものをと、84円のアイスキャンデを買い喰いする。

 アイスキャンデ懐かしいなぁ、ワイの小ンまい頃、昭和30年台、麦ンがら帽子をかぶりステテコ姿のキャンデ売りのおっさんが、荷台にアイスキャンデの箱を乗せ、カランカランと鐘を鳴らしながら自転車で売り歩いていた。棒付きで、牛乳を水で数倍溶かしたものにサッカリンかズルチン(人工甘味料)を入れ凍らしたもので、自家製だったと思う。栄養的にも衛生的にも劣悪だった。そういやオッサンのステテコの股間が黄色く汚れていたっけ、今と違いキャンデなど包装はしてないむき出しで、木箱から一本、オッサンの手で取りだされ、子供に手渡しされた、今だと、あぁ~キチャナやけんど、昔やからほんでいけたんやなぁ。でもよく売れたし、ワイも小遣いで買って食べたがおいしかった。


 棒付きのアイスキャンデ、今も種類は少ないがある。そのスウパの冷凍コーナに三種類だけあった。ソーダ味、コーラ味、洋梨味、が知られているが、今夏からそれに「キュゥイ味」が加わった。これ、おいしくて今日も含め、ワイは5回ほど食べた。果汁33%、キュゥイの黒いゴマ粒のような実も入っている。これで84円である。ちゅめたさに火照った体が癒されホッする。

 少し涼んだあと、また歩き始める。大きな神社の近くを歩いていると、ポタリと目の前に落ちたものがある。見ると地面にあお向けになったである。足はまだ動いている。しばらく見ていると、なおももがき続け、ジジと鳴き声も上げたが、もうひっくり返ったままで飛ぶ力もないようだ。


 「これがいわゆる、落ち蝉、」か。ここで今日、俄かに作ったワイのへたくそな俳句を一句ご披露いたします。

 落ち蝉や ジジとないて 夏がゆく

 お!ジイジといやぁ、今日は「敬老の日」じゃ。最近、孫だろう小さな子供が、祖父母のことを「ジィジィ」、「バァバァ」と呼んでいるのをよく聞く。祖父母がそう呼ばせているのではなく、若い父親や嫁(息子や娘)がそう呼ばせているようだ。ワイに孫はいないが、こんな呼ばれ方をするのは嫌だなと思う、自分が子ンまい時そうだったからかもしれないが、やはり「じぃちゃん、ばぁちゃん」と呼ばれるのがうれしいし、孫の口からそう聞くのがかわいいとおもう。

 ジージーでは、まさに落ち蝉のようで、なんか哀れっぽくないか?哀れな爺さんのことを濡れ落ち葉との表現もある、ジィジから連想する落ち蝉もそんな感じがするが、これワイだけの感想か。バァバはもっと悪い連想してしまう。関西圏では「糞」(くそ)のことを「ババ」という。口足らずの幼児のことバァバが「ババ」になってしまい「糞」の意味に通じる。やっぱ「ばぁちゃん」と呼ばせてほしい。こんな孫が中学生くらいになったら「クソばばあ」ちゅうんちゃうかいな。

 ショッピングモルのイートインコーナでアイスキャンデをなめつつ、外を眺めると「日の峰山」・標高は低いがいくつか連なった山が見える。何気なく見つづけていると、これが人の寝姿に見えてきた。これはよくある見方で、二十二番札所・平等寺(新野町)の本堂から眺めた前の連山は仏さんのありがたい寝姿に見立てられるというのは有名である。



 さて、この「日の峰連山」、ワイは「妊婦の寝姿」にみえた。皆さんはどう見えますか?左が当然頭でそれからくびれて胸になり、腹に向かうとプックリ膨れてまさに妊婦のお腹、それからなおも右に行くと、膨れた腹から下り、また少し盛り上がりがあって、あとは足へと続いていく。


 この少し盛り上がりの部分には、ちょっと上の写真ではわかりにくいですが、ここには「日の峰神社」があります。拡大したのが左の写真です。これだと神社の形がわかるでしょう。この連山が「妊婦の寝姿」とすると、この少し盛り上がった部分はどこに相当するだろうと考えた。うぅぅん、これは「恥丘」じゃ、皆さん恥丘ってわかりますか。解剖学的説明は省きますが性器の上、おなかの下、少し盛り上がっている部分です(丘の発想かな)早い話、お毛々(陰毛)が生えてるところ。なんで恥丘ちゅうかって?それは男女が(正常位で)つるんだとき、ぴったりと両者の恥丘がくっつきますねぇ。あぁら恥ずかし!じゃから恥ずかしの丘!それでは恥丘にくっついたこの神社は何、オデキ?いえいえ、妊婦だから安産に効くように恥丘にお灸をすえるため、モグサを置いているんですよ。なるほど、理屈は通ってるわな。(いったいいつの話、お灸って、明治・大正時代ならならありだけど)


 その灸のモグサではないけれど、あついあつい、いいながらも暦は秋、そして明日の夜は、「仲秋の名月」、天気予報で見ると明日の夜は晴れ、いい月が見られそうだ。徳島の月の名所っちゅうたら、どこかいなぁ、松茂に「恥丘海岸」(はずかしヶ丘海岸)、いやちごうた、「月見ヶ丘海岸」がありますがな。無理に引っ付けてダジャレんでも、室蘭に「恥丘岬」ってあります。ホントは「地球岬」って書くんだけどね。三方が海だから名月もよくみられると思いますが、徳島からは遠いわな。

2024年9月15日日曜日

もうすぐ秋のお彼岸

 三連休の中日、小雨がぱらつく天気となったが、若干涼しくなった。例年だと曼殊沙華の花茎がすっくと伸びて(葉はないんだよなぁ)赤い花の蕾や、早くもド派手に咲いた曼殊沙華を見る頃なのだが、猛暑の影響か、まだ見ない。この花はヒガンバナともいい、彼岸頃に花期を迎える。もう今週の(日曜から週が始まるから)木曜日が彼岸の入りであるのだが。

 鴨島駅前では「街かどコンサート」をやっていた。観客は少なく、また私と同じ歳かそれより上の高齢者ばかりだった。移動売店も開いていたのだがさびしい。若者はどこいった。

2024年9月14日土曜日

肉感的な仏さま

  小松島駅からほど近いところに「地蔵寺」がある。平安時代作の地蔵菩薩が本尊である。広い境内ではないがさまざまな伽藍が立ち並び、そのいくつかは重要文化財に指定されていて名刹の雰囲気をたたえている。


 その多宝塔の下にこのような浮彫の仏さまがいらっしゃる。一見してわかるが、よく見慣れた仏さまのお姿の範疇に入らない形をしている。尊称のお名前も彫られていないので「はて?いったいどうゆう仏様だろうか」とちょっと疑問を持たれる方もいるだろう(仏像に詳しい方は、智拳印をむすんでいらっしゃるので想像はつくと思うが


 実はこの仏さま、わが真言宗の本家本元の仏様、「大日如来」さまである。お姿が変わっているのは密教の発生地である南インドの大日如来様だからである。ずいぶんとイケメンである。日本の仏さまは見て「何歳くらいだろう?」とかの感想も持たないが、この仏さまは青年期ではないのか、と見える。贅肉のない細身の体も青年期のようである。表情も青年であるとみると、なんか青少年特有の憂いを含んだ顔をしている。


 なおオリジナルのインドの大日如来さまは下のようなものです。


 いま四国巡礼では、青年期の悩み・憂いをもってまわる若者が多いと聞く。このレリーフの仏像と同じような姿をした青年巡礼に出会ったとしても何ら違和感のないお姿をしている。それくらいリアルな仏さまの雰囲気である。

 しかし現実に四国巡礼にいそうな若者が、ほとんど全裸に近い格好で、このように胡坐をかき、手に智拳印をむすんで座っているとしたらどうだろう。いや、それは不自然だ、こんな格好で境内や、まして街角で瞑想しているはずがない。と言われるかもしれない。確かに境内や街角でこんな格好で瞑想していることはまずないだろう。しかし、滝行(滝に打たれる修行)や水垢離ならば、このような全裸に近い恰好はあり得る。

 その滝行や水垢離をして、水にしとどに濡れたこのような全裸の青年の姿を人が見たらどうだろう。宗教的な畏敬の念をもたらすかもしれないが、それ以上に肉感的な強烈インパクトを見る人に与えるのではないか。レリーフの仏像のお顔の分厚の唇なども性的魅力を醸し出している。インドにルーツをもつ大日如来様は(6~7世紀)肉感的で性的魅力にあふれているように私には思える。

 これは大日如来様に限らない。やはりインドで、上記の大日如来のレリーフよりまだ数百年早い時期の「弥勒菩薩」さまは、なんと、こんなお姿をしている。いや~、すごい、どうしても股間に目が行ってしまいます。紗の薄物だから、モッコリ、形がそのまま浮き出てます。

2024年9月13日金曜日

貧者のショッピング、百均そぞろ歩き

  最近、主に気晴らしだが、ショッピングに店をそぞろ歩き、気に入ったものを買っている。とはいっても、その店はいわゆる百均の店、たとえ5つ買ったところで550円である。よく言われることだが、モノを買うとなぜかストレスが少しばかり軽減したり、ちょっとだけ気分が良くなったりする。

 これは強いて理屈を探せば、人類が原人だったころ、一番の関心事は生きていけるだけの食料、当面は明日食べていけるだけのものがあるかどうかだった。だから、手元に食料があるだけで安心し、気も太っ腹になったんじゃないか。これは食料に限らず、その後、農耕が始まり、食べ物にそんなに困らなくなると、食料以外のモノが身近にたくさんあるとやはり、そのような気になったのではないか。什器、衣服、装飾品などである。いまでも生存に必要なくても、それらをあふれるほど持っている人を富者と思い、うらやんだりするのもその名残かもしれない。

 ともかく、ショッピングで気に入ったものをサッと買い、自分のものにするのは気持ちの良いものである。それがそう必要に迫られるものでなくても、あれやこれや見ていて、あ、これ買おう、と手にするのも、同じである。

 だから気分転換、ほとんどレクリェーション気分で、百均をそぞろ歩き、貧者のショッピングを楽しんでいる。百均の店でもいくつかあるが私が利用しているのはこれ


 他にもダ〇ソーというのがあるが、こちらは最近では300円じゃの500円、中には1000円の商品もあり、ほとんど百均というのを逸脱しているので、こういうのは私はスカン。だからショッピングにそぞろ歩くのはセ〇アである。

 必需品は別として、趣味で買ったのはこれ、すべて百円(110円)





 蓮のようなガラスの小器、そして砂粒のようなガラス玉、そして紙粘土である。これをどうするか、蓮の器に青いガラス砂をいれ、その上に紙粘土でお地蔵様を作ろうと思ったのである。まだ着手していないが、同じ百均で色ペイントペンや粘土ヘラも買ったのでいずれ作ろうと思っている。完成イメージは左のようなものである。 




 そして、ワイ・爺さんのおもちゃとして買ったのがこれ、水車、こんなものも110円である。おまぃは子どもか!と言われそうだが、いやいや、これなかなか深い遊びですぞ。永久機関はできないこともわかるし、エントロピィの概念だってこれを見ながら思いを馳せられる。仏教の「輪廻転生」も「因果はめぐる小車の・・」も感じ取れるかも、である。しょぉもな、ってか、ほっといてんか。

2024年9月10日火曜日

四国水族館

  昨日、讃岐の宇多津町にある四国水族館に見学に行った。徳島線~土讃線の鈍行列車(青春18切符を使い)で往復した。下は土讃線の秘境駅と言われる坪尻駅である。スイッチバックの駅であるため列車が駅に入る時と出る時は逆向きに動く。15分ほど停車するがほとんどの乗客は一時降りてその秘境駅の雰囲気を味わったり、撮影したりする。


 水族館の入館料は2400円で、ずいぶん高いなぁ、と思ったが、見学後の感想は、海洋生物の多様さ、展示方法のいろいろな工夫などがあり、充分その価値があった。全部紹介できないが一部下にアップしておく。

 さまざまな水槽展示



 イルカショーなど


 見学のあと、少し離れた場所にある、レトロな雰囲気の街並みが残る「古街」こまち)を歩き、その中にある日本料理店に昼飯を食べに行ったが、暖簾が出ておらず残念ながら休みだった。結局、県道沿いにある讃岐うどん店で昼をすませた。

2024年9月7日土曜日

阿瀬比から大根峠を通って平等寺へ

  以前太龍寺から旧遍路道を通って阿瀬比(阿南市)まで歩いたことがあった。ちょうど四年前である。また平等寺から薬王寺までの遍路道は何回かに分けて歩いていた。この阿瀬比から平等寺までの遍路道はまだ未踏であった。そこで昨日、この阿瀬比~平等寺の遍路道を歩いた。距離のうち半分は山道であるが、こちらの方が当然ながら時間は多くかかる。そう標高は高くないが大根峠をこえる道である。


 バスを二度ほど乗り換えて阿瀬比で下車する。太龍寺のある山が向こうに見えている。見えている山には昔、弘法大師が悪龍を閉じ込めたという岩の窟があった。しかし近代になって石灰岩採掘のため切り崩され、山の岩が露出して無残な姿をさらしている。この辺りは石灰岩地層地帯なので良質の大理石も採れる。国会議事堂の大理石もここの産出だ。


 バス停から大根峠越え平等寺までの遍路道をゆくが、その道に入るとすぐ遍路小屋(休憩所)がある。途中いくつかあるだろうと、ここでは休まず遍路道を行ったが、なんと山道には休憩所などはなく平地に降りるまでなかった。


 路傍にこのような頭が三角形をした特異な墓があるが、これは昔、遍路をしていて行き倒れて亡くなった人の墓である。村人の有志が遍路の慰霊供養のため墓をたてたのである。昭和十四年とある。



 下のような道を峠を目指して登っていく。

 大根峠はこのようなところ、眺めは良くない。ここから下りが始まるというだけのところ。

 山から平地に出るあたりに遍路休憩所「大根庵」がある。ここで一服して水分補給をする。

 この山道は標高はあまり高くないが、木の根が大蛇がうねるように道にせり出しているところがあり、何度か蹴躓いた。平地に出るとやれやれで、歩くのも楽で「歩」が進む。

 のどかな田園地帯を歩く。桑野川が見えてきたあたりから川に沿って行くと平等寺が見えてきた。平等寺を参拝した後、新野駅から汽車に乗って帰った。阿瀬比で降りて約7kmの歩きであった。

2024年9月5日木曜日

昨日 晩夏の一日の出来事

  九月になってもまだまだ暑いが、それでも朝晩はよほど涼しくなった。また日中でも陰に入れば、涼しさを感じるようになってきた。秋というには戸惑いがあるが、昨日などは晩夏の一日といってはいいのではないだろうか。

 その晩夏の昨日、あまり新しいことをしたがらないジジイのワイであるが、お決まりのルーティンを離れかなりな行動を起こした一日となった。かなりな行動と言っても若衆(わかいし)からみれば、ふん、それくらいのこと!ちゅう大したもんではないが後期高齢者に近いジジイである、結構な体と脳の刺激になる行動的な一日であった。

 このブログを読んでくださっている人には知れたことだが、私は区切り遍路機会を見つけ一日、決めた遍路道を歩く)をやっている。やがてそのトータルで八十八ヶ寺が回ればと思ってやっているが、その完遂にはほど遠い。徳島には一番から二十三番までの寺および遍路道がある。今のところその8割方は歩いた。そして香川の遍路道順路は、虫食いのようにホンのちょびっとだけ歩いている。

 さて、その徳島でも二割びゃぁ残っている遍路道の6番はんから5番はんまでの約5kmを歩いて巡礼しようとしたのである。あ、ここでちょっと補足するが四国の巡礼道・寺は順回りでも逆回りでも一つの寺から次の(次寺あるいは前寺)寺までの道を歩けばその区間は終わったものとして四国遍路道のその区間を塗りつぶすことにしている。だから順だろうが逆だろうが寺々の道を歩けばその区間は終えるものと(自分で)しているのである。

 そこで出発寺の六番はん近くにある鍛冶屋原行きのバスを待っていると、友人からの電話である。用件は「文化の森で開催されている恐竜展へ行けへんで?」ちゅうものであった。なんか小学生や中学生が好きそうな博物展示であるが、その友人もワイも歳ぃいった割にはそんな地質・科学展は好きなので、歩き遍路は置いといて今度また、ちゅうことで行くことにした。

 入場料はシニア割引でもなんと1200円である。なんでも物価高で博物展入館料もずいぶんとするようになった。友人は興味があってワイを誘ったのだが、恐竜をはじめとした地学史はワイの方が詳しい。それに入館料もおごってくれた。そこで嬉っせげぇに友人にあれこれ解説していたら、そんな解説いらん!と友人に怒られた。それでも「このトリケラトプスのトリは三つちゅう意味やけんど、ケラっつうんは、ほれケラチンちゅうタンパク質聞いたことがあるやろ、つまりこりゃ角の成分や、つまりケラっちゅうたら「角」を表すんや、じゃからトリケラトプスは、三つの角をもった恐竜や」なんどと、うそかホンマか定かでない説明を小声で、風呂の中の屁ぇみたいにブツブツ垂れていた。友人は完全に無視。

 したがその展示館の様子。



 単純におもっしょかったのは、ティラノザウルスが「パガオォォォ~」などと大きな吠えながら口を開けて動いたのである。迫力あったし、小ンまい子ぉなら恐怖で泣き出すかもしれんリアル感があった。下が動画。

 


 見終わったが時刻は二時ちょっきしくらいである。友人は車に乗っているので「これから区切りの歩き遍路するんでよかったら六番はんまで送ってくれへんで」ちゅうたら快く承知してくれたので、ちょっと遅いかもしれんと思ぅたが、それから六番まで行き、三時くらいから歩きを開始した。


 菅笠、金剛杖、輪袈裟、などの格好はしていたので数珠を手にまず六番はんのお薬師さんをお参りした(だから文化の森の恐竜展もその格好で恥ずかしげぇもなく見学したのですよ)。その六番はんの寺付属売店には金剛鈴、左のようなものを売っていた。まだ持っていなかったので二千円出して買った。それを振るとチリンチリンと澄んだ音がする。冗談に、あばさかって「ジジイ遍路に、御報謝ぉぉぉ~」とか哀れっぽくいい、人のいない道で、鈴を鳴らしながら歩いてみた。

 途中、70年以前に、たった数年間、父、母、乳児の妹、そして三歳のワイがすんでいた家があった跡地を通った。その父母妹はもうこの世にはいない。ワイ一人が残されてしまった。その跡地で立ち止まり、般若心経の短いお経をあげた。

 途中、ワイが幼児の時には、通っていた国鉄鍛冶屋原線の跡地である旧神宅駅のあとを通った。今は二車線の道が走り、バス停がこのようにあるだけである。


 そして約5km歩き、五番はんのお地蔵はんにお参りを済ませ、近くのバス停・羅漢から帰路についた。徳島駅に着いたのはもう薄暗くなった午後7時であった。くたびれそうな一日だったが、意外と疲れず、次の日の今日も割とピンコシャンコしている。