2022年7月31日日曜日

コロナは弱毒化するか?

  徳島市内の阿波踊りはほぼ制限なく開かれることが決まったようだ。有料桟敷ばかりでなく東新町の自由観覧桟敷もあり、飛び入り参加のにわか連もありで3年ぶりの再開となる。我が町では今年も阿波踊りはないが、その代わり吉野川中央橋付近のでの花火大会は今週の土曜日に開催される。1000発というから徳島市内の水都祭での花火より豪華になる予定だ。この日は石井町でも1000発の夏祭り花火が予定されているので、花火好きの若い衆はどこへ行ってみようか迷うのじゃないか。

 そろそろコロナに対する伝染病としての扱いをインフルなんどと同じように5類にしたらどうかという話も出ている。実際、死亡率などを見るとインフルと同じかそれ以下なのでそれもありかなと思うが、この2年間の経験でこのコロナウィルスは変異が激しいことがわかっている。弱毒の方に変異すればいいがそう人間の都合の良いように変わってくれるかはわからない。いま感染力が3倍以上の変異株・ケンタウルス株が最近出現してこれから流行るのじゃないかといわれているから、まだまだ安心はできない。

 私に関して言えば今週の金曜日に4回目のワクチン接種をする。一年ごとに二回は打つ計算になるが、不確かな情報だがもしかすると年末に5回目もあるやもしれんといっている。そうなると一年に三回の接種である。毎年これだけの接種をしなければならないとするとうんざりする。それと知り合いがつい先日四回目接種をしたが副作用のせいか体がシンドイといっていた。私も持病の悪化と夏バテで最近体調が良くないので副作用が少し心配だ。

2022年7月29日金曜日

ゲンタとデンコとやまさんの鼎談 家庭のエネルギー・電力について 

十年ぶりのキャラ登場です。ゲンタ君とデンコちゃんに言いたい放題、意見を述べてもらいましょう。今日のテーマは「電気代の高騰・大停電」 うわ~、問題の多そうなお話となりそうですね。ともかくお二人に登場いただいてさっそくはじめてもらいましょう。あ、そうそう、今日はやまさんも参加します.(ちなみにゲンタは原子力発電キャラで♂、デンコは電気供給自体のキャラで♀
                           
毎日暑くて死にそうですわ。クーラーのない生活なんかもう考えられませんが、今、ウクライナの戦争でロシアからの天然ガス・石油の供給が不足し、それがエネルギー全般に悪影響を及ぼし、電気料金も値上がり傾向が続いています。こんな中、原発廃止しろ、いや再稼働しろ、むしろ節電しつつ、いやいや反対、自然エネルギー発電に全面的にシフトしろ、とか世は騒がしくなってます。吹けば飛ぶよなやまさんの家計にとって、今後、電気代の心配からクーラーを節約する炎熱地獄の生活になりはすまいかと心配しています。
 主に2つのことなんです。一つは思わぬ停電で一時的とはいえ電気が全く使えなくなること。もう一つは電気料金が高騰して私のようなビンボー人は使いたくても使えなくなることなんです。どうでしょうか? 
今すぐどうということはありませんが、将来に向かって徐々にその2つは悪化していくでしょうね。停電は極力起こらないように努めると思いますが、節電は常態化し、電気の質(電圧、周波数の安定)も悪くなるかも知れません。もしかすると料金の差別化、つまり金持ちには良質の電気、やまさんのようなビンボ人(失礼!)には質の悪い電気と別れるかもしれません。
 料金も確実に高騰を続けるでしょう。僕がまったくこの日本からいなくなったら、そうなるでしょうね。
あたいとゲンタはよく喧嘩するけど、その見通しについては同意見だわ。原子力事故の影響で日本の皆さんはあたいとゲンタの中を永久に割こうとしてるけど、もし、ほんとうにゲンタと手を切ったら、皆さんに、たとえ高価でもいいといっても、いついかなる時でも安定的に電力を供給できる自信がないのよ。
待ってくださいよ、今、自然エネルギーの有識者とおっしゃる方がたくさん出てきて、再生可能エネルギーでもって原発のすべてを代えれば問題ないといってバラ色の将来を語っているじゃありませんか。ここは将来の子孫のためクリーンなエネルギーにすべて切り替えたらどうでしょう。デンコさん!すっぱりゲンタと手を切って自然エネルギーと結びつくのがいいんじゃありませんか。
あんたね~、自然エネルギーがいいいいっておっしゃいますがね。いざ、結婚となると女はまず男に生活力を求めるものなのよ。自然エネ!フン!はっきり言わしてもらやあ、そんなやつインポ男だわ。

ちょっと、ちょっと、デンコはん!公のブログなんだからお下劣な言葉はやめてくださいよ。つまりこういうことでしょ、自然エネはあなたを満足させられるだけの電力を供給できないと。まあ生活力や精力と比較するのもわかりますが。
しかしそこはそれ、以前のあなたの配偶者(いったいこのデンコ何回離婚したのだろう)であるご老体の火力発電さんにもご登場願い、自然エネらと組み合わせれば原子力なしに何とかあなたの要求に応じられるのじゃないでしょうか。
みなさんゲンタの欠点ばかりあげつらいますけどね、私から見ればゲンタほど頼りがいのある男なんて今のとこいやしない。一千メートルの北極海の深海でたった一人で黙々と膨大なエネルギーを出せる男なんている?原潜のゲンタなんか燃料入れ替えなし、冷たく深い海の底で食うや食わずで2年間浮上しなくて地球を何周もしてるんですよ、そんな芸当自然エネとやらにできる?
 第一、お笑いなのは、自然エネの太陽発電!ちまちま蓄えりゃいいってもんでないよ。夜は全然だめだそうじゃないか、だからインポ男、
 あたいのようにね、両肩に日本がのってるお姐さんにはね、きれいばかりで力のない男なんかお呼びじゃないのさ。
 多少汚かろうが臭かろうがね、あたいは力のある男じゃなきゃ嫌なの。
なんかいつもと違ってのろけを聞かされているようだけど、でももし国民の大多数が原発の全面廃止を選択したら、それはデンコさんもゲンタ君も受け入れざるを得ないのではないでしょうか。お二人の愛憎だけで事は進まないでしょう。ゲンタ君はどう思いますか?

僕もあんな事故を起こしているから、もし、皆さんが僕に消えて欲しいと思うなら受け入れようと思っています。ただ、本当に冷静に先の見通しをもって判断してくれているか、ちょっと疑問なんです。先の見通しとは、安価な電気を放棄してよいのか、同時に原子力発電技術そのものも放棄するのか、ということです。
 自然エネを僕に代えることについては、デンコさんと違い僕はそれはありうるだろうと思っています。ただし、高価になるばかりではありません。それに伴いエネルギーの格差が出てくると思います。
 つまり、低所得者は電気を使いたくても使えない状況がやってくるかもしれないのです。電力使用が高額になるばかりではありません。たとえば太陽パネル、大容量などの蓄電池などが家に設置できる人はいいでしょうが、そうでない人は少量の電気をうんと高額で買うことになるのです。
 また、原子力技術については日本が撤退すれば米、仏、中、ロが中心になるでしょう。恐れるのは2つです。どこの国とはいいませんが、安価で安全性を無視した原子炉をどんどん発展途上国に輸出され、日本以外で事故を起こすかもしれません。それは日本のすぐ隣かもしれませんよ。そうなれば偏西風で日本にも放射能が飛んできますよ。頑張って安全性の高い日本の技術で途上国にに原子力技術をサポートしてほしいのです。そのためにも日本の安全な原子炉づくりをもう一度発展させてほしいと思うのは無理なお願いでしょうか。
 二つ目はこの技術の発展展開の上に次世代の原子力発電「核融合炉」があるということです。ちなみに核融合は小さな太陽と言うべきもので放射能は基本、発生しません。この技術にしたって何もないところにポコッと出てきたりはしません。いままでの原子力技術の積み重ねがあってこそ次の展開もあるのです。人を月に送ったアポロ計画の基礎は第二次大戦中のナチのV-2号戦略ロケットにあったのはごぞんじですよね。
 これらのことを冷静に見極めたうえで国民が判断するなら、僕は喜んで消えます。
なるほどね。もっともな考えと思います。ビンボ人のやまさんは、電気料金の高騰なんて大反対。最近、マスコミでもてはやされてる原発反対派のひとってビンボ人のことを考えてくれてるのかな。
家で太陽パネルだの、蓄電器だの、断熱材入りの省エネモダン住宅だの言っても、
 「そんな、金、どこから出るんじゃ」
ですわ。
 実のとこね、本音をいえば今のままの電気料金を据え置いてくれて、今まで通りたっぷり使わせてくれるなら、原発はなくさない方がいいと思ってたんですよ。
 よく、ほら、原発反対派の人が言うでしょ
 「そんなら、おまいとこの横につくれるかって」
 やまさんなら、同意します。もちろん保証金をたっぷり金もらえば。そのうえ割増くれるなら、なんなら原子炉建屋の上でカンカン踊りをしてもいいですよ。
どうやらみなさん原発賛成でまとまりそうですけど、世間はそうはいかないみたいですね。そこでね、わたし、ある計画をしてるの、名付けて
「教育的大停電」
それで世の人々を啓発してやろうと思うの。もちろん人の手も人の意志も働かない偶然の産物だからテロじゃないわよ。あたいにはね、そういう力は備わってるの。

 原発をすべて止めたある年の真夏の猛暑の日。甲子園の決勝とみんなが家にいてクーラーガンガンかけまくりが重なり、TVやクーラーの使用で電力消費はうなぎのぼり、
 折から、関東南部で発生した巨大雷雲が猛威を振るい、今までにない落雷で10を超える変電所が損害を受けた。
 電力会社の巨大コンピュータは送電ネットの変更・確保、稼働可能な発電出力(自然エネルギー、水力発電、天然ガス発電など)をMAXまであげて必死で調整したが、ついに、安定調整に失敗、瞬時に電圧低下と周波数の発作的な変動が起こった。
 送電の致命的な変調に対し大口需要設備(工場、大施設)は自分を守るため、受電の遮断を始めた。この需要の急激な変化に対し、送電も対処しなければならないが、限界を超えた調整能力のため、あっという間に負のフィードバックが起こり、
 「南関東大停電
 落雷は鉄道の変電所も狙ったため、電車も含め、電気はすべてストップ。一切電気は使えなくなった。
 熱帯夜どころか真夜中でも30度を下がらない恐怖の夜が訪れた。

 電気のない原始生活、東京が焦熱地獄から解放されたのは3日後、それも中心地のみで制限付き、
 人々が原発を止めたのは早とちりだったのではないかと思い始めたとき
 映ったTVから、新たにロシアのバルト諸国への侵略と、連動してイランが引き起こした第五次中東戦争が始まったとの臨時ニュースが流れ、即座に市場の石油、天然ガスは天井知らずの超高値になった。
 もはや原発再稼働以外にこの事態に対処できないことは明らかだった。
 某保守政党は「原発賛成」をかかげ倒閣運動を起こすことを決意した。
 とまあこういうシナリオだけどどう?
   デンコさん!お願いだから過激なことはやめてくださいよ。やっぱり、ゲンタとの中を無理に割こうとすると怖いことになりそうだなあ
                           

そうよ、あたいは「八百屋お七」、いざとなりゃ、恋しい男のため火付だってなんだってしますよ。 

2022年7月28日木曜日

夏この頃 その3

 寂しいジジイに話しかけてくれたのは

 独居老人で、家では犬も猫も飼ってはいず、害虫がはいまわるか、トマコ(鼬)が秋冷から寒冬期に天井裏をタッタカ走り回るくらいで、家にいるとまったく寂しいものである。

 晡時、駅のコンコースを暑いのでゆっくり歩いていると一角に写真展パネルがある、そこに30代くらいのワイシャツネクタイ姿でいいカメラをぶら下げた男の人がいてパネルそばにいる中年女性に声をかけている。何かの取材のようだ。声をかけられた女性は、「いえ、ちょっと人待ちしているので困ります」、そして次に声をかけた女性には「あ、列車の時間があるので急ぎます」とそそくさと去って行った。

 通りかかった暇を持て余し、人恋しいジジイのワイである。すっと写真パネルに近づき見るふりをすると案のじょう声をかけてくれた。

 「あのぉ、私こういうものですけど(某地方新聞の記者の名刺をくれて)、この写真パネルをみた感想を聞かせてもらえませんか」

 写真パネルを(改めて)みると高校総体の写真展で賞をもらった高校生の写真展である。

 「え、いいですよ」

 で、取材に応じたが、その実、あちらの取材の話は2割くらいで、あとの8割はワイの話を一方的にしゃべった(やっぱ、人恋しいんだなぁ)。そのとき次の項目でお見せする「雲の写真」をワイの持っている写真機のモニターで見てもらって「きれいにとれてますね」とお世辞をもらった。そのほかジジイの世間話も長々と聞いてくれた。悲しい話、面白い話、起伏のある世間話をしたが、ふつうこんな本題から離れた話を記者は聞かんぞ!みんなに断られかなり焦っているのか、このジジイの機嫌を損ねんように冗長な話を我慢して聞いてくれたのだろう。敬老精神に富むええ記者じゃ。

 明日の地方紙にワイのパネルを見よる写真と記事が載るやもしれん。

夏の雲

 白く輝く雄渾な雲、黙々と湧き上がりさまざまな形となる積乱雲、薄く刷毛で掃いたように超高空にたなびく絹雲、夏の雲は見応えがある。

 積乱雲



 絹雲


 日がカンカン照りつけ、ジィジィ蝉がうるさいが、上を仰ぎ、天空の輝く雲と澄んだ青空を見ていると猛暑も忘れる。

夜空をみあげると

 昨夜、銭湯の帰りに上をみあげた。蒸し暑い夜であったが夜空は意外と澄んでいて夏の星の特徴である「夏の大三角形」が見える。夏の星座の一等星である「わし座」「はくちょう座」「こと座」の三つを結んだ大三角形だ。

 青空に浮かぶ雲もそうだが、夜空の星々をみると、俗界のコセコセしたことに悩むのなど馬鹿馬鹿しくなってくる。気持ちが大きくなってくるのか。でもいつも美しい雲や星ばかり見つめてもいられない、また曇りの日も雨の日もある、やはり俗界に引き戻っていく。

 風呂上がりで夜風に吹かれた気持ちよさもあり、歌を口ずさむ、うろ覚えで1~3番の歌詞がちゃんぽんだが・・

~上を向いて歩こう~にじんだ星を数え~・・思い出す夏の日~・・・

~幸せは雲の上に~幸せは空の上に~泣きながらあるく~ひとりぼっちの夜~

 九チャンの歌だったなぁ、もういなくなって37年にもなるよ


 遠回りをして歩いているので、歌は尽きた、次にふと、星座の「ケンタウルス座」を思い出す。なぜって?いまもっともホットな話題でっせ!

 いまだに憎っくきコロナか、はたまた飼い慣らしつつあるコロナか、どうなるかわからんが最新の変異株に「ケンタウルス株」というのが現れた(今のとこ外国だが)これがなんと今のコロナの3.24倍もの感染力をもっているらしい。情報はそれ以上はあまりないがともかく強力な伝染性を持っている。それがケンタウルス株コロナ!

 よりによってなんでこんなネェミング?ケンタウルスって言葉、すごくロマンがあるのになぜ。

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にケンタウルス祭りが出てくる。「ケンタウルス、露ふらせ」などという言葉も出てくる。ケンタウルスとは半人半馬の神話上の生き物である。またひとりぼっちの我が太陽から一番近い「恒星」がケンタウルス座のα(アルファ)という星である(一番近い別世界の太陽系だがそれでも4光年もある)。このようにケンタウルスはロマンのイメージじゃったのに、疫病の株につけるとは、どうせならカロン(ギリシャ神話の地獄の渡し守)とかケルベロス(地獄も門番)にすりゃぁええのにけしからん。

ちなみにケンタウルス座は春から初夏にかけて南地平ギリギリに、それも半分だけしか見られないから、日本人で見た人は少ない  

2022年7月26日火曜日

夏この頃 その2

  暑い!

 暑さになどは負けたくない、歳ぃいったといいわけもしたくない。お釈迦さんの生まれたインドをおもやぁ、ウチらの夏の暑さなどたいしたことない、とはいっても先日、暑さの中歩いて木陰で涼んでいたとき、目がクルッと回りだした。幸い一回まわっただけですんだが無理をしたらあかんと思い知った。

 土用は暑さのピークであるという。ちなみにどれびゃぁの長さがあるのか、大暑(24節季)から立秋(24節季)の前日までということで今年は7月23日から8月6日までとなる。土用というと盛夏と思いがちだが、これはちゃう、土用は春夏秋冬にくっついて4回ある。土用は春夏秋冬の四季とは別格の季節と見るみかたもできる。

 夏に限らずそれぞれの四季の季節が極まる頃用と名付けているのではないかと思っている。そのため夏の土用しか有名じゃないが用は春、秋、冬にもある、春の土用は立夏の前、秋の土用は立冬の前、冬の土用は立春の前となる。

 その季節が極まる頃を土用と名付けたというのは実は理屈の後付けっぽい。古代中国の自然哲学っぽい思想に「陰陽五行説」っちゅうのがある。ギリシア哲学の四大元素と対比されるが、要するに自然の要素は。木火土金水の五大素であるという。それを四季に当てはめたようだ、は芽吹くから「春」にしちゃろ、はあちいから当然「夏」や。は黄葉や穀物の実りの色やから「秋」にしてこまそ。はちべたいから「冬」やな、そうすると五つのうちがあまる。こまった!えぇぇい!しゃぁない、は四つに分けて春夏秋冬の極まる時節に(だいたい17日間)に振り分けちゃろ、これで五行(木火土金水)全部一年に押し込めたわ、めでたしめでたし、でないかいなぁ、とワイはおもっている。


 今日、暑い中お寺はんにお参りしたあと、あんまし暑いので、近くのスーパでシャァベットの氷菓をかって食べた、脳天がジィィィンとするほど冷たかった、涼感をたっぷり感じたがあとで腹が痛ぅなった。ウンコしたらなおった!





 荒廃進む鉄道

 四国JRはJRグループのなかで最も貧ちょこまい会社だ、ものすごい赤字で路線に寄りゃぁ100円儲けるのに2000円もいると言うから仰天だ、いけるんかいなと心配するがその心配が年々歳々形になってきている。ここ数年で人員がすごく減った。人件費から減らして行こうとしているようだ。また駅にかける維持費もかなりへずっているようだ。地方駅のプラットホームは草ぼうぼう、除草もままならないようになっている。沿線は葛(くず)が大繁茂、ところどころ昼顔が暑い中元気に咲いている。

 昔は引き込み線があって列車が何本か待機できていたが、今はこのように廃線になった。これが遠からず本線も廃線ということになりゃぁすまいか、ワイの生きとるあいだはなんとか廃線にならずにいてほしい。車のないワイなので死に神に捕まらんように行きつ戻りつ逃げ回るのは定期こうて汽車で走る以外ないからなぁ。


 猿神さまの祟りじゃ

 とうとう日本国内にサル痘の患者がでた。なんか令和2年のあのいやぁなコロナ蔓延開始のデジャブ感に襲われる。これからどないなるんじゃろ、コロナのうえに新種の疫病とわ、もう「おこらぇなして」といいたくなる。

 このあいだから、首筋にアセモのようなポチポチができている(粟粒のような)これも「痘」で、まさかワイも感染?でも外国と接触も関係もないから、ま、ただのアセモじゃわな。

 このサル痘、正確な情報が乏しい。国内発生が0で、我が国に入ってはけえへんわ、と思っていたのか、しかし一人でも出たとなるといろんな情報、予防などについてしらせてくれなあかんと思う。不確かな情報に寄れば、種痘が効くと言うことで、日本人は45歳以上はしている、しかし若い衆はしてない、外国でも若い人の発症率が高いそうである。外国では年齢に偏りがあるし、また圧倒的に男性の発症が多いようだ。不思議だが、男性同性愛の接触感染という噂が出ている。ホンマかいな?これもエイズ発症時のデジャブ感がある。

 それにしても次から次へと新種の(といっても風土病やある特定動物の病気だったが)病気がはやるものである。サル痘っちゅうのも奇妙なネェミングだ。

 (老人俳優の)加藤嘉が村の古老を、あるいは北林谷栄演ずるババア巫女が

 「お山の猿神さまの祟りじゃ!」

 とでもいいそう。

 で、きょう、サル痘の疫病退散をねがい、佐古にあるサル神様にお参りしてきた。


2022年7月23日土曜日

ある記念館に行ってきた

  第二次世界大戦を知っている人は非常に少なくなった。そのため戦争とはどんなものであったかを知る人に聞くこともできなくなっている。残されるのは当時の文献、日記、限定的ではあるが映像フィルムなどであり、それを通じて我々は理解する以外にない。第二次世界大戦が「歴史」になるというのはそういうことだろう。

 「歴史」を知るには本や写真、文献資料も大切であるが、当時に生きた人が直接手にした歴史遺物に触れることはそれ以上に重要である。だから博物館にはそのような歴史遺物が展示されている。徳島にも博物館があり歴史の勉強におおいに参考になっているが「戦争の遺物」は少ない。日本以外の国ではたいてい「戦争博物館」のようなものがある。しかし日本は永久に戦争を放棄すると誓ったためか「戦争博物館」などはない。それに近いのは靖国神社の「遊就館」といわれている。


 この徳島でそれに似たものが護国神社にある。「徳島戦没者記念館」である。そこには太平洋戦争の戦争遺物が展示されている。護国神社という立地上なにか右翼的なイデオロギーに基づくものかと誤解されるかもしれないが、決してそのようなものではない。戦争についてのパネル表示の図や説明は客観的であり、当時の遺物も展示され丁寧に解説が加えられている。


 下はパネル表示と戦争当時の遺物



 しかしもっとも大きな部分を占めるのは、可能な限り集めた県内の戦没者の一人一人の写真である。市町村別に並べられていて、個々の写真には名前・享年と戦没年・戦没地のキャプションがついている。

 広大な護国神社には人っ子一人なく、真夏の太陽が照りつけ、蝉時雨も聞こえているが寂寞とした雰囲気が漂っている。境内の記念館の前の芝生には「戦没者を見送る家族像」がある。残された老親、そして幼子を抱えた妻、みんなじっと悲しみに耐えているように見える。なんか悲しくなってくる。戦後五年以上もたって生まれた私は当然戦争遺児ではない。しかし、私の子供の頃は「恩給」をもらっている戦争未亡人もたくさんいた。私の知っていた未亡人は3人の子供を育て上げた。恩給だけでは足りなかったのだろう、日銭がかせぎる「失対」(しったい)に出ていた。「失対」が失業対策事業の略と知ったのは後のことで、内容は土木のおんな人足のような仕事だった。

 

2022年7月19日火曜日

初めて行った喫茶店

  歳ぃいくと慣習が強くなるというか、もう似た行動パターンが身についてしまう。時々気晴らしに喫茶店へ行くがその選択は以前からいっている喫茶店に絞られる。新しい喫茶店でたまにはコーヒーでも、と思うときもあるが、これも、歳ぃいくとなれたところが落ち着けるなんどといいわけしつつやはり同じところに行ってしまう。

 しかし今日は、知り合いから薦められたこじゃれた喫茶店に初めて行った。喫茶店という前世紀の名前を使ったが、今はそんな言い方はしないようだ。ランチ&手作りケーキ&ドリンク類の店で名称はフランス語だ、カフェレストランとでもいうのだろうか。知人から店の名称は聞いていたがすぐに忘っせてしまい、覚えていた店のだいたいの場所となんとかブリュ~といううろ覚えの名前でネット検索してようよう見つけてそこへ行った。沖浜の服屋の裏にあった。

 店の入り口


 コーヒーと手作りケーキを注文する


 こじゃれた店すぎてジジイには落ち着けなかった。ちなみに男はワイ一人だった。

2022年7月18日月曜日

大正四年そして令和四年徳島のまつり

  コロナでろいろな祭りもここ数年自粛だったが今年になって再開されつつある。昨日も図書館にいると藍場浜公園のほうがずいぶんにぎやかだ。「なにごつ?」と藍場浜のほうへ行ってみると「水都祭」とのことで大勢の人が群れている。大音量の音はブレークダンス風の音楽、メロディーはほとんどわからずボンバカ、ボンバカとの8ビートの強力なリズムにあわせ5~6人の青年が仮設ステージで人間の動作とは思えない身のひねり加えたり、ほとんど転倒かと思うような踊りを踊っている。その観客も多かったが、売店ブースのほうも進むのに苦労するほどの人波みだった。

  水都祭の趣旨は知らないが、特設ステジのパッフォマンス、ブースでの出店、そして夜は眉山頂上に上がる花火などに多くの人が引き寄せられてきたのであろう。若い人の中には浴衣姿もいた。いままで渋々したがってきたコロナ自粛ムードを吹き飛ばさんばかりのタダことない熱気だった。今年は阿波踊りも再開されるようで、おおいに結構、これからコロナで萎縮した活動が正常になれば良いと思っている。

 しかし、気になることがある。この日は7月17日、この日から「祇園祭」が始まる。京都では3年ぶりの山鉾巡行がある。しかしこの徳島では?残念ながら例年のような「祇園祭」はない。市内で賑やかな祇園祭は「蔵本のぎよんさん」がある。夜は参道の両側に出店がならび、また境内ではカラオケ大会も開かれ、多くの人が祭りを楽しんだ。私も数年前(コロナ前)夜店を見ながらそぞろ歩き、提灯や灯明で明るい拝殿を参拝し、大げさな振り付けで歌う独特のカラオケ大会を見たりしたものである。下が今日の蔵本祇園社(八坂神社)境内にも参道にも人っ子一人いやしない。


 水都祭の賑わい盛況を見るにつけ、信心深く、参道の夜店やテキ屋の売り声を懐かしくおもうジジイは寂しい思いがする。本来「まつり」とは神事である。しかしいつのころか神事とは関わりない「○○まつり」と称する催しが多く開催されるようになった。宗教色を切り離した今風の祭りなのかもしれないが、祭りは神事であるばかりでなく数百年、中には千年近くの伝統をもったものである。それがフェスティバルと訳した方が良いような「○○祭り」に押され、衰退するどころか断絶に瀕する祭りがあるのは残念でならない。

 「いやぁ、そりゃ、アンタ、杞憂とちゃうで、コロナも納まったことやしぃ、復活するでわだ、その証拠に京都では今年はぎおんさん、やっててえらい賑わいじゃわ、」と言われるかもしれないが現に蔵本のぎおんさんは今年もない。ワイら子ンまいとき、ウチらの神社は神輿を繰り出し盛大に練り歩いたが、いつのまにやら途切れ、神輿のない神事だけやっている。このように何かの都合で(神輿の場合は担ぎ手が不足する)いったん途絶えると復活は難しくそのまま切れてしまうことが多い。

 その例を107年前、徳島市伊賀町の長屋に暮らしたモラエスさんの日記からうかがえる。この時代、そして戦争前までは徳島で一番出店も多く賑やで参拝客や多かった「祇園社」は眉山(大滝山)の中腹(春日神社の上)にある八坂神社である。その現在の姿が下の写真である。蔵本の祇園社と同じで人っ子一人いない(祇園祭の日にである!)


 当時の祇園祭の出店は西大工町(眉山ロープウェイ)あたりから、寺町を通って滝の焼き餅本店あたりまで数百メートル続いていた。参拝客は引きも切らず特に夜混雑していた。私が語るより、モラエスさんが書いた「徳島の盆踊り」から以下の文章を引用した方がその実態が良くしれると思う。

モラエス著・徳島の盆踊り、大正4年7月

 暑い、暑い、ひたすら暑い、そして今は(この暑さの季節)また、祭り、祭り、ひたすら祭り!とモラエスは書いて次につづく

「・・・祇園社あたりの街路を埋めつくす人並みは実に感動的で・・寺町が中でもとりわけ興味深い。人でいっぱいだ。風呂に入って一日中をすごした人々が、夕方、かおりのよい、洗いあげた着物を着て、私と同じように外に出る。道の両側には果てしなく小屋が並び、花、菓子、つめたい飲みもの、果物、女の子やこどもが欲しがるさまざまなちょっとしたつまらないものを売っている。

 奥のほうの道の行きづまりに、祇園社のある大滝山の黒々とした影が威圧するようにそそり立つ。山を見上げると、今やその上の蒼穹には、八日目の上弦の月が美しい輪郭をくっきりと描き出し、あたりに、人々の上に、柔らかな光を放っている。・・・

 人波とともに進み、寺町を通りすぎ、影に沈む山を登ると、中腹の祇園社に着く。」

 大正四年と令和四年、祭りも大きく変わった。

 子ンまいときの夜店が目に浮かんでくる、視覚だけではない、匂いもする。おいしそうな匂いに混じって、アセチリン灯の独特の臭気、ファブリーズなんど使わなくても、洗い立ての着物のよいかおり、この感覚わかる、これも帰らぬ時へのジジイの繰り言。

2022年7月15日金曜日

夏このごろ

  向日葵

 善入寺島のひまわり畑は車に乗せてもらって見たのを数えると今月に入って三回は通った。広々とした善入寺島の畑に広がるヒマワリは見ごたえがある。このような広々としたひまわり畑がでてくる作品の一つに大昔封切られたイタリア映画「ひまわり」がある。ウクライナで撮影されたこともあり、今、再びこの映画がちょっとしたブームになっている。この間からビデオやに行くたび、もう一度借りて鑑賞したいと思っているが、行く度見るが、貸し出し中の空のケースしかなくていまだに見ていない。

 ひまわりはでかい花なので切り花にふさわしい花とは思えないが、矮性のひまわりもあるので生け花や切り花として花瓶に飾られることもある。花瓶に入ったヒマワリというと私がまず第一にイメージするのはゴッホの作品のヒマワリである。合計7点ものひまわりの主題の絵が知られていて、その中には日本国内所蔵のもある。

 一昨日、ゴッホを描いたDVD映画を市立図書館で見つけたので借りた。まだ見ていない。美術史にはさほど興味がなかったので知らなかったがゴッホってなんと37歳の若さで亡くなっている。自画像なんか見ると50か60のおっさんのような顔をしていたからそんな若さで生涯を閉じたと知ったのは驚きであった。晩年(といっても30代後半だが)かなり奇矯な行動が目立ち、ゴーギャンに自分の耳を切って送ったといわれているが、この映画ではどのように描かれているのだろうか。またゴーギャンと同棲したといわれているが、個性の強い画家同士の関係は何だったのだろうとおもうと映画を見る興味もわいてくる。

 蓮

 ひまわりもでかい花だが、ハスはそれに劣らず花も葉っぱも大きい。今月に入ってハスの花も二度ほど見に行った。池谷駅近くのレンコン畑の蓮の花、そして鳴門島田島の古代ハスの花である。

 ハスの花のイメージはやはり仏教であろう。仏像の台座もハスなら、手に持つのもハスの花、仏具にもハスの花がある。仏像とハスの花の関係は古代インドからずっと続いている。グプタ朝時代(4~6世紀)の仏像(観音菩薩であるといわれている)やアジャンタ石窟寺院の壁画の人物(これも観音と言われていたが今は否定されていて仏教の守護神と言われている)もハスの花を持っている。

 古代インドのハスの花を持つ観音菩薩像


 アジャンタ石窟寺院壁画、手には青いハスの花を持っている。


 なんで仏教とハスの花が結びついたのか、泥中にありながら清浄にさく純白の大輪のハスの花は、穢れた下界から出でてもやがては天上界に転生する、という仏教の例えをイメージする花であるからと言われている。

 岬めぐり

 まだ車も持っていなかった20代の頃、足摺岬へ旅をした。動機は何だったのか、その頃は宗教にはほとんど関心なく、またお四国のブームなどもなかったころなので札所の寺(岬に金剛福寺がある)が目的ではなかった。田宮虎彦の「足摺岬」を読んでなんとなく行ってみたくなったのかもしれない、とはいっても自殺願望などはない(足摺岬は自殺の名所?であり、この小説も自殺を扱った内容である)。今となってははっきりした旅の目的などは思い出せない。

 列車で中村駅まで行くと、そこから先は足摺岬行きのバスの旅となる。計画性も何もない、四国内とはいえ四国の南西の外れの岬なので日帰りなどはできないことはわかっていた。岬について断崖の足摺岬をみたあと、さて今夜の宿を探さねばならない。そのとき観光案内所であったか、それとも土産物屋で聞いたのか、ともかく安い宿を訪ねたと思う。紹介してくれたのが金剛福寺、ここはユースホステルも兼ねていたので宿坊の方ではなく宿坊に隣接したユースホステルの方だった。

 当然若者が多く、夜はミーティングと称する懇親会のような集まりがあり全員参加した。ペアレントは住職さんなので姿は見せずヘルパーの若者がミーティングを取り仕切った。そしてみんなで(今の若者だと考えられないかもしれないが)いくつかのフォークっぽい歌をヘルパーさんのギター伴奏で斉唱した。その中で今でも印象深く覚えている曲が「岬めぐり」だった。

 ~アナタがいつか話してくれた~~岬めぐりのバスは走る~~窓に広がる青い海よ~~悲しみ深く、胸に沈めたらこの旅終えて、街に帰ろぉ~

 別にそのとき私は失恋して悲しみ深く沈んでいたわけではないが、そこはかとなく一人旅の旅愁を感じながら、ああ、いい曲だなぁ、と思い、以後も時々ウォークマンで聞いたり歌ったりした。ギターは弾けないが、ピアノやキーボードを私が演奏して何人かで歌ったこともあった。

 今日、その曲を作った山本コータローさんの訃報を聞く。私とそう変わらない年齢だ、まだまだ活躍してほしかった。合掌 

2022年7月11日月曜日

ここ数日のしんどさはどうだ、やがては良くなるのかな

  昨日は友人とエッとぶりの鳴門スカイラインを通って島田島の古代ハスを見に行けたし、話も弾んだのでずいぶん気晴らしになった。しかし金曜からの気持ちの落ち込みと虚脱感は紛れることなく芯の部分で消えず続いている。やはり安倍さんの暗殺がそうとう影響しているようだ。ネットで現場の瞬間の動画など見たこともそれに拍車をかけていると思う。テレビなどでは銃弾が直撃し崩れ落ちる動画などは寸前で編集されぼかされ直接は見えないようにされている。だがネットではいろいろな角度からその瞬間の動画がアップされ見ることができる。寸前まで元気に演説していたのに二度目の発砲で前のめりに崩れ落ちるように倒れている。

 「生が断ち切られるのはこんなにも瞬時でかつ容易なのか、死はまるで瞬きのように訪れるのか」

 貧富賢愚に関わらず「死」ほど平等性のあるものはない、と言うことを聞いたことがある。多分宗教書じゃないかと思うが、多病で70歳をこえ、いつ死が訪れるか、そろそろ近いと思う私である。それがそのような「死の平等性」を聞いて、暗いぞっとするほどの恐怖をもたらしこそすれ、ああ、そうでっか、死はみんな平等やから、ちょっと気ぃが癒やされまんな。とは絶対ならない。

 70歳をすぎて、私と同じ歳か少し若いくらいで死んだ有名人の訃報に対し極めてナーバスになっている。どうゆうわけか去年から今年にかけて、私と同年齢、それより若干若い有名人の死が相次いだ。その都度、ちょうどガソリンが切れかけ、エンジンがプスプスいいながら回転をとめる寸前のような終末感、これは絶対後のない、まさに一巻の終わり的なもの、終末&「無」を私は感じてきた。

 まだ気力、体力があれば、そのような暗い情感も紛れ、あるいは晴れるかもしれないが、ここ数年で、気力体力の衰えの決定的で不可逆的なこと、すなわち悪い方には向かっていくが絶対望ましい方には向かわない一本道である、ということを思い知らされた。

 常に漠然とした不安、そして抑圧され表には出ない死への恐怖は心の奥に存在しながら、それでも心が紛れたり、ひととき忘れたりして楽しめる時間もあるにはあったが、それも年齢とともに確実に短くなり、心の中に真っ黒な雲が広がる時間が長くなっている。

 そういったときに起こった安倍さんの暗殺テロである。「暗殺テロ」という言葉をマスコミなどは使っていないが(なにか定義や放送倫理があるのか知らないが)少なくとも私の心にもたらしたものはテロ(恐怖、混乱、不安、絶望感をもたらしたもの)であった。

 光を見よ、闇を見つめるな!という言葉もあるが、人生の黄昏は次第に闇が支配的になる。ロウソク(人工灯)を求め、光を作り出せば良いのだろうか、しかし闇の中、衰えた一人暮らしのジジイにはロウソクを探すのも容易でなく、付け火のマッチも見当たらず、なんとか一本見つけてもマッチを擦る手がふるえる。

2022年7月10日日曜日

島田島に古代ハスをみる

  友人の車で島田島に古代ハスを見に行った。大賀ハスと呼ばれている。



動画


 帰り、島田島スカイラインの絶景の場所に喫茶店がオープンしていたので(といっても聞くと2年にもなるらしいが、前来たときは廃屋のレストランだった)、入って眼下の内海を見ながらお茶を飲む。


2022年7月9日土曜日

池谷のレンコン畑

  去年の今頃もブログでレンコン畑をアップしたがそちらは立道駅(鳴門線)近くのレンコン畑だった。今日行ったのは池谷駅南に広がるレンコン畑である。

 池谷駅、無人駅である。


 駅跨線橋から南を見る、レンコン畑が広がる。



 紅白の蓮の花が開いている

 動画、列車の中から撮る
 

2022年7月8日金曜日

あぁ、われら西側諸国の脆弱性よ、暗澹たる気分になる

  今朝は寝苦しかったせいもあり眠り浅く気分が良くなかった。70過ぎると朝の気分の悪さは一日中続くときが多い。しんどいなぁ、と思いつつ携帯のワンセグで正午のNHKニュースをつけると間髪を入れずに飛び込んできたのが「安倍元首相、奈良市内で銃撃を受ける」との速報。驚いてそのままニュースを見ているとやがて「心肺停止状態」で病院に運ばれるとの報、そして先ほど「死亡」のニュース、なんと言うことか、気分が悪い上に、この衝撃的なニュースで地の底に引きずりこまれるような絶望感でいっぱいになった。

 なぜ、なぜ、戦前の昭和じゃあるまいし、首相を務めた人が暗殺されるって、まさかこの時代にあるとは思われなかった。好き嫌いはあるにしても日本国という大きな船の船長さんとしてのべ8年以上にわたって舵取りをしてくれた。ワイのような取るに足らない国民でも、国の船長さんとおもえばそこは頼りにしたものである。引退してからもテレビや言論誌などでよく安倍さんの主張にお目にかかっていたし、拉致問題や靖国参拝でも違う意見はあるにしても、がんばっているなぁ、となんか親しみがわいていた。それが、今日、選挙の応援演説に立っていて、まさかの銃弾で命を奪われた。はやい、早すぎる、ワイでも71歳まで生きたのに、かれまだ67歳にしかならない。ひどすぎる無念の死である。

 この暗澹たる気分、地に引きずり込まれるような絶望感、ワイだけでなく多くの人々も似たような気持ちになっているのではないか。英語に「terror」という言葉がある。一義的には「恐怖」と訳される。多くの人にたいし「恐怖」をもたらし、人々を混乱に陥れ、国民を暗い絶望に突き落とす行為は「テロ」terrorと呼ばれている。まさにワイの心を暗澹と絶望的気分にさせたのはその目的を達したことになる。

 それにしても西側の民主主義国の脆弱性はどうだ?昨日は英国のジョンソン首相がコロナ中に官邸でパーティーなどの不適切な行為があったことに対し国民から嫌われ、辞任することに追い込まれた。民主主義国では選挙によって政権が交代するのは当たり前だが、このように国民に極端に不人気となれば辞任せざるを得なくなる。日本でも選挙に関わりなくそのような状況でやめる首相が多い。日本や英国などの民主主義国では支持率を気にするゆえんである。

 そして今日、民主主義のもっとも重要な根幹の行為の選挙期間中、暗殺された。国民の前で演説し親しく接するその機会にである。だからどうしても警備に隙が出てくる。ケネディは多くの国民の歓呼に応えるためオープンカーの車上で狙撃暗殺された。民主主義国ではこのように国民と政治家とのふれあいは市井の中で大切にされる、そこを暗殺者は狙うのである。

 強権政治のロシア、一度も自由選挙など行ったことのない中華人民共和国、くじけない恐ろしい意思を持って突き進んでくるこれらの政府を我々ははたして押しとどめることができるのだろうか。ヨーロッパ大陸で戦争が起こっているときに英国は不人気で首相を交代させる、そして日本では影響力のある元首相が選挙期間中にやすやすと暗殺される。この民主主義国の脆弱性はどうしようもないのだろうか。

 「ほ~れ見てみぃ、西側の自由民主主義なんどという制度はこんなにもろいんじゃわだ、やっぱ、ワイらの国の制度の方が優れとるわ、どんどんやったるでぇ」とロシア・中国の首脳はほくそ笑んでいるんじゃないだろうか。

2022年7月4日月曜日

もどりつゆ、台風もきよる

  先月、28日に梅雨あけ宣言が出た。そのあと3~4日はお日ぃさんカンカンの真夏の暑さ、35℃越の猛暑となった。いまからこれだと、最近は秋のお彼岸あたりまで暑いのでそうすると3ヶ月近く暑い夏が続く、こりゃぁまぁ、どないなろうに。と思っていたら今週はもどりつゆのような天気がつづくそうだ。そしていつの間にやら台風4号がきよる。こっちくんのかなぁ、とおもって台風予想進路をみりゃぁ、あさってくらいにウチの真上をとうるやないかい。幸いに勢力は強ぉない、水不足が心配されていたので被害がない程度に大雨がふればちょうどいい。


 雨の中だが、先日の猛暑続きで、すっかり枯れしぼみつつあるアジサイ


 こちらは真夏の花カンナだが戻り梅雨のような天気の中しおれたようになって元気がない。

2022年7月3日日曜日

ウチに眠るセピア色の写真より

  徳島空襲のブログを書いていて、ふとある写真を思いだした。それで古いアルバムを押し入れから引っ張り出し(頁がちぎれてバラバラになったいた)その写真を探した。あった!それが下の写真である。正確な年月はわからないが、終戦近くの我が家(私が子供の時に住んでいた家)であることは確かである。「じいちゃん、ばぁちゃん、ふるばぁちゃん、お久しぶりでございます、わたしもジジイになりました、もうじき、ほっちへ行くけんな」

 写るのは祖父母と祖父の母親、つまり私の曾祖母である。小さい子供がいるが私の親父ではない、近所のこどもだと聞いているが詳しいことは知らない。わたしの親父は当時、長崎県の大村か諫早の航空隊の訓練生だったのでここにはいない。

 多分私が小学校時代の時、この古いアルバムを見て、自分が生まれる前の古い写真にたいする好奇心からいろいろ聞いたと思われる。そのとき徳島大空襲のことを聞いたことをおぼろげながら思い出した。

 我が家は鴨島町にあったので徳島からは20km離れているからもちろん被害はなかった。しかし東の空が異様に赤かったと言うようなことを話してくれたような気がする。なぜこの写真から祖父母が徳島大空襲についての話をしたかというと、この写真を見ながら私は祖父の右後ろに立てかけてある箒を逆さまにしたようなものについて聞いたのである。「これって箒ぇ?」、その説明はおおむね以下のようなものであったと思う。

 これは空襲で火災が起きたとき(焼夷弾攻撃で)、その先についているビラビラの縄か布に水をたっぷりしみこませ火炎をそれで叩いて消すのだそうである。『火はたき』と呼ばれる手作りの防火用具だそうである。それらは各家庭でめいめい作って備えるだけでなく、それを持って近隣住民全員参加の防火訓練が度々おこなわれ、隣組(町内会)のみんなと協力して火はたきをつかったり、集団のバケツリレーの訓練をしたということも話してくれた。

 人の記憶とは不思議なもので、昨日徳島大空襲のブログを書き上げそれを読み返していると、そういや、子供の時一枚の古い写真をみて空襲や防空防火のはなしを祖父母から聞いたことを思い出したのである。今まで完全にその記憶は眠っていたのに。

 このような準備や訓練も、前のブログで紹介した「徳島大空襲の手記」によると、極めて発火性が高い液体が吹き出し、爆発的に発火し、花火のように火炎が周りに飛び出す焼夷弾に対しては、日頃の防火訓練や防火用具は、ほとんど無力だったことを大勢の人が証言している。

2022年7月2日土曜日

明日は何の日 その2(徳島大空襲)

  明日は7月3日、77年前のその日、戦時下でもあり統制下の耐乏生活ではあったが徳島市では日常の生活が営まれていた。市民が就寝につく時、明日も同じような日常が繰り返されるであろうことを疑った人はいない。この日は平日の火曜日、多くの大人は明日も仕事に従事し、子供たちは学校、または学徒の勤労奉仕に精を出すことになろうと思ったに違いない。

 しかし翌朝の(4日)の朝日を迎えるころ町は一変していた。深夜から未明にかけての焼夷弾攻撃により町の中心部はほぼ壊滅、まだ炎が残っているところもあったが、木造の建物は焼失、鉄筋の建物も外壁は残していたが内部は焼けていた。一面と言っていい焼け野原になっていた。無念にも翌朝の朝を迎えることのできなかった死者が千人近く、火傷、怪我などを受けた人は数知れなかった。このころになると他の大都市の空襲による大被害も聞こえてきてはいた、徳島もやがては、と覚悟する人も多かったが、実際の空襲の受けて、まさかここまでひどいとは思わなかったのではなかろうか。3日夜から明け方近くまで絶え間なく焼夷弾攻撃を受け、人々は必死で逃げまどい、明るくなって目にする前日と比べあまりにも変わった地獄のような町の姿、黒焦げであちらこちらにころがる死体、火傷で苦しむけが人のうめき、地獄絵図がここ徳島で現実となったのである。

 市内焼失地図


 焼け野原となった市街

 今、ウクライナではロシアによる都市への爆撃が行われている、ロシアは誤爆と主張したいようだがかなり怪しい。学校、病院、劇場、ショッピングモールが攻撃され大勢の市民が犠牲となっている。悲惨なことこの上ないが、多くの日本人にとってはそれは1万kmも離れた外国の出来事、絵空事とは言わないが、テレビでよくみる紛争地域の一つを放映してるなという感覚であろう。これが死体や断末魔に苦しむ人々のリアルな映像・動画にでも接していれば現代日本人も市民生活への爆撃がいかに悲惨なものかより知ることができると思うが、ご存知のようにテレビの編集ではそのよう映像は事前にカットされ(心的な病気にでもなると思っているのだろうか)流されないので、より切迫した悲惨な映像はあらかじめ除かれている。

 徳島の(特に若い人に)市民への爆撃がいかに悲惨なものになるかを知るには、何も1万kmも離れたウクライナの都市を例に出すより、我々が住しているこの土地で77年前に起きた徳島大空襲のことを知ってほしいとおもう。しかしほとんどの人はそれを知らないし、また「徳島大空襲」というのを言葉として聞いても、それについて詳しく知ろうとはしない。現代の人々は戦争で亡くなった鎮魂の日そして悔悟の日として8月15日を記念し、悲惨だった戦争についてあれこれ考える。しかしこの徳島においては戦争の最大の荒廃・犠牲のピークは7月3~4日であったのである。徳島の人としてはもっと知られかつ偲ばれて良い日である。

 私は昭和25年度生まれであるから空襲の体験はない。しかし、直接体験している人があれば話を是非聞いて徳島大空襲がいかなるものであったかその口から聞きたいと思っていた。しかし空襲時、物心がついた小学生であっても、今生きていれば85歳以上となる。先日知り合いの母親で、長寿で元気でいる人に徳島大空襲のことを聞いた。しかし当時は徳島近郊とはいえ郊外の村だったところに居住していたし、小学校低学年であったため「市内の空が真っ赤になり、滝のように落ちる火花(焼夷弾が)が多量の花火みたいななぁ~」との感想しか聞けなかった。本当に火炎地獄のような市内中心地にいておそろしい体験を刻んだ人はほぼ死に絶えた。

 しかし徳島大空襲とはいかなるものかもっと知りたいという私の欲求に答える手段は今でもある。図書館の古い蔵書から探した一冊が左記の本である。今から51年前、昭和46年に出版された。約60人の実際に被災された方が書いた、あるいは口述筆記の「体験談」である。登場する人はごくごく普通の市井の人、商業の人もいれば勤め人もいる、主婦、隠居さん、公務員・教師、通信運輸関係の人、などなど、要するにほぼすべての分野を網羅して話を集めてある。戦災当時50歳、60歳を超える人でも昭和46年当時はまだまだ活躍していて生々しい体験談を述べている。大方の人は自分の体験など文章にしたことのない人である(そのため口述が多い)。それだけに素朴な文、方言を交え、体験したことを述べ、感じたことを直截に自分の言葉で述べた訥々とした文章に真に迫る臨場感を感じた。

 体験談のどれにも当時すんでいた現在もほぼ同じ地名が残る住所、そして本名が記載されている。77年前に市内で生活していた私の大叔父、大叔母、あるいは親戚の名前がその中にみられても不思議ではない、そう思わせるくらい同じ方言をしゃべり、共通の地方色をもった人々である。しかし本名を見たところ私の親戚はいない、しかし郷土の体験談だけあって私との意外なつながりも発見できる。以下はその一つ

 焼夷弾攻撃は火災を起こすだけではない、なんと徳島中心市街地に354,664本も焼夷弾が上空から落ちてくるのである。その数と市街面積をおもうと密集して落ちているのである、そのため焼夷弾が人に直接当たる確率は高かった。直撃すれば多くは即死した。頭にあたり、まるで噴水のように脳漿が流れ落ちる人もいた。体験談中、直撃を受けたが肩に当たり即死を免れた人がいた、しかし腕は大きく損傷を受けちぎれそうなぶらぶら状態、それでもなんとか応急手当を受け、避難した先がなんと私が子供の時祖父母と住んでいたウチのすぐ近く、そして急いでみてもらった医師が私が小児のときお世話になった同じ先生だった。その方、壊疽を起こしかけ腕切断も一時は決断したが家族の必死の介抱(貴重な氷を手に入れずっと冷やし続けたそうだ)で半年間の療養のあとようやく肢体無事のまま危機を脱したそうである。もしウチの祖父母が生きているときならばこの人のことをよく知っていたと思う。これはわたしと意外なつながりを感じさせるエピソードであった。

 本の出版の昭和46年当時なら、あ、これ私の親戚、あるいは知ってる人じゃ、と思いながら我がことのように思い読んだ人も多かったと思う、しかし半世紀以上たって直接知る人がほとんど絶えた今、本から想像力を駆使してこの悲惨さを(本の上だけだが)知らなければならない。

 それにしてもこのような都市の一般住宅密集地の焼夷弾による絨毯爆撃は人道上目に余るものがある。東京下町では周りからまるで取り囲むように最初に焼夷攻撃をしかけ、火炎が取り巻き、人々が逃げられないようにしてからくまなく絨毯を広げるように、焼夷弾で人も家も焼亡させていった。まったく信じられないような鬼畜の行為である。いったいどんな理屈、どんな意思でこのようなことを行い得るのだろうか。

 都市に住む無辜の住民に対する無差別爆撃の最初は1937年、スペイン内乱時においてフランコ政権を助けるためイタリアとドイツのファシスト党がスペイン北部にある小さな町「ゲルニカ」であると言われている。第一次世界大戦の時の初期の飛行機は布張りの双葉機で小さく馬力も弱く、積載量もうんと少なかった、飛行機から操縦士がレンガを落として地上の敵を攻撃したというような嘘のような本当の話がある。しかし戦闘が激しくなるにつれ航空機の攻撃力は格段に進歩し、すぐに機関銃を備え、また小型爆弾を航空機から落とせるようになる(初期は操縦士が手で小型爆弾をつかみ目測で落としていた)。そして第一次世界大戦が終わり、ナチスドイツが再軍備を行う1930年代になると、空襲で爆弾を目的地に落とし破壊することに特化した「爆撃機」が現れる。その目的地が都市に選ばれたとき(ゲリラ、パルチザン掃討という名目はあったにせよ)それが都市無差別攻撃になったのである。史上初といわれる「ゲルニカ爆撃」である(ピカソがこれに怒り、有名な作品ゲルニカを書いたのは有名な話である)

 日本軍も都市無差別攻撃については拭えない汚点を残している。1937年から始まった日中戦争で中国の首都南京を落とし、これで停戦かと思いきや蒋介石政府は奥地の重慶に逃げそこを拠点に戦争を継続する。そこで日本軍は爆撃機を用いて重慶爆撃を行ったのである。それが無差別都市爆撃となり、あちらの言い分では1万余の民間人が死んだことになっている。これについては日本人の私として弁護するつもりはない。戦争行為だから軍人やゲリラ、パルチザンなどが死ぬのは仕方ないとしても民間人への無差別行為は許されるべきではない。ただ初めから無差別都市攻撃を意図したかは疑問がある。

 ここで「無差別都市攻撃」という言葉が出てきたがちょとそれについて考えたい。無差別都市攻撃の反対概念は何だろう?それは「精密爆撃」である。ピンポイントで軍事目標を狙えればそれに越したことはない。しかし今の進んだ軍事技術の粋である誘導ミサイルでも誤差は出るしピンポイントとはいえある範囲の円形の誤差はある。まして当時の日本軍の重爆撃機とは行っても爆弾は自由落下させるのである。航空機の高度そして飛行速度、機体の向きのベクトル、そればかりか飛行機から地上までの風向、風力を知り、それらを瞬時に計算して落とすタイミングを計らねばならない。それでは精密爆撃は可能なのか?結論から言うと一応いろんな変数を考慮しつつ爆撃しても誤差は数百mにもなり、精密爆撃にはならず、事実上家屋の密集する都市攻撃においては民間家屋民間人を巻き込む無差別爆撃となってしまうのである。日本軍は重慶の蒋介石政府の拠点を狙いたかったが結果として無差別爆撃となったのである。

 これは日本本土にたいするB29爆撃機攻撃についても同じことがいえる。若干の人道的配慮もあったし、何より日本の航空機産業、軍事産業をたたくのが第一義であったためアメリカ軍も最初は「精密爆撃」を意図していた。当時としてB29は最新鋭の超一級の大型爆撃機で機内にある爆撃標準器も上記の変数を入れれば即座に標準器のスコープの十字状に目標位置が目視で出て、それにあった時点でスイッチを押せば精密爆撃の爆弾が(理論上は)目的地に落下していくはずであった。しかしやはり日本軍と同じようにそれを使っても精密爆撃はかなり難しく、また高射砲などの反撃を避けるため1万メートル上空を飛んだとき経験したことのない強風に遭遇し(ジェット気流である)、超高空からの精密爆撃は極めて難しいことがわかった。結局難しい精密爆撃よりより安易な都市無差別攻撃(それも民間家屋を焼失させる焼夷弾爆撃)を選ぶようになる。

 都市無差別攻撃について、いまだにアメリカ人のいう理屈は次の通りである、その1、日本人は女性子供の別なく町中で兵器を作る作業に従事していてどこどこが軍事工場でここは民間地区だという区別はない。その2,重慶爆撃のように無差別爆撃を行ったのは日本の方が先であり、また真珠湾攻撃のような卑怯な攻撃をおこなった日本人に対し軍人民間人の区別なく懲罰すべきだ。その3,あくまで戦争邁進に突き進む狂信的な日本人を止めるのは都市を焼き払い厭戦気分を起こさせる以外にない。その4,確かに民間人は無差別爆撃で多数死んだが、それによって終戦が早まったのは事実で、これは戦争が続けばさらに増えるアメリカの軍人だけでなく、一般の日本人の命も多数救ったことになる(これは原爆投下正当化の理屈と同じである)

 このアメリカの理屈、どうだろう?とても納得できるものでない。戦争とは敵も味方もこのような理屈を打ち立てるのである。

 B29戦略爆撃機の搭乗員も家に帰ればおそらく善良な人々であったであろう。どんな理屈であれ、かれが弾倉のハッチを開き、投下のスイッチを押せば、下にいる普通の女子供が死ぬことは想像できぬことではないはずである。しかし高空からの爆撃はそのようなリアル感を喪失させる。ドローンによる自走爆撃をパソコン上で見ながらまるでテレビの戦争ゲームのように人が死ぬが現代の戦争であるが、高空の飛行機上からの爆撃はまさにそれと同じようなものである。飛びながらボタンを押すだけ、B29戦略爆撃機の搭乗員は多数の人を殺したという重みは感じないですむ。もしチクリと良心が痛んだとしても先ほどの四つの理屈がアメリカの飛行兵士の大義となりそれ以上の苦悶からは解放される。

 無差別都市攻撃でなくなった無辜の人々に我々はなんといって鎮魂したら良いのだろうか私にはわからない。広島の鎮魂記念碑に「過ちは繰り返しませんから、安らかにお眠りください」とあるが、いまでも過ちはなくならずに繰り返しているではないか、そもそも人として存在する以上過ちは永久になくならないのではないかと疑念がわいてくる、碑の文字もむなしく響く口先だけの言葉のように私には思える。