2022年1月30日日曜日

ワイの桃山日記、やがて消えるんだろなぁ

  爺さんが書いた有名な日記としては永井荷風の「断腸亭日乗」がある。40歳前くらいから80歳で亡くなる前日までほぼ毎日の日記である。中高の国語教科書に乗るほど有名な文豪であるためこの「断腸亭日乗」も文学的価値のあるものとしてすべての日記は全集に収められている。膨大な日記であるため私はすべて読んだわけではないが、特に私の興味ある日中戦争から(1937年)からなくなる1959年まではすべて目を通して読んだ。特に日中戦争あたりから強まる巷の軍事色、そして太平洋戦争中の一層の軍国主義化、空襲による罹災、避難、混乱、そして敗戦後の日本史上まれにみる社会的混乱などに対する、客観的な記述と彼の冷静な分析、意見など興味深く読んだ。

 しかしそんな記述も60歳台までで70歳を過ぎると数行の淡々とした事実の記述が多くなる。彼の日記の「断腸亭日乗」と私の桃山日記とは月とすっぽん比較するのも恥ずかしいが、70歳をすぎて日記の内容・量ともめだって低下してきたのは、自分と比較してもやはり老化による書く意欲の減退があるのだなぁ、と思う。彼も高齢になって「独居老人」であるのは私と変わらないが、資産・預金などはたくさんあり、若い時から過ごしてきたいわゆる「高等遊民」(古い言葉だ!)を死ぬまで続けることができている。何より私がうらやましいのは彼の交際の範囲が広いことである。独居というとなにか孤独の感が強いが、それは荷風の場合、我が家に帰ると独居になるのであって、一歩家を出たら多くの人と会ったり、一緒に行動を共にしたり、食事をしたりしている。そして荷風の何よりの交際の特徴は歳がいっても花柳界、赤線青線の春を鬻ぐ女たち、そして浅草のような下町のエンターテーメントの従事者、美女(ダンサーなど)も多いし美男も多い、もちろん若い。そして先生、先生ともてはやされ、自らも大いに楽しんでいる。

 「まったく!うらやましい限りのジジイである」

 これなどをみると独居老人いってもワイとは全然違う。しかし老人の妙にかたくなな心理は荷風が年を重ねるにれて、これはワイとある部分似ているな、と感じることがある。荷風の場合、隣家のラヂヲの音が気になるのである。それも偏執的といっていいほど、少しでも聞こえ出すと、もういたたまれなくなって外へ出るのである。ラヂヲの音をきくと創作意欲も冷静に考えることも全くできなくなると言い切っている。そこで歳がいっての日記には「ラヂヲの音」云々で、家をでて、それが止む夜遅くに帰る、という記述が頻繁に出てくる。これはワイも老人の心理として理解できる、「ラヂヲの音」ではないにしても、独居の偏屈な老人は、隣家やあるいは身の回りの、普通は当たり前とみられ、気にしないことが偏執狂のようになって、イライラして家を飛び出、外で気を紛らかせるというのはある。ワイもそのような強い傾向がある。

 荷風さんの「断腸亭日乗」は日本語が続く限り半永久的に残るであろうが、ワイの桃山日記は、やがて消えていくだろう、別に全然それが嫌ではないし当たり前だ、でももしかするとワイのさほど長くない命を待たず桃山日記と称するブログは消えるかもしれない。というのも一度それを経験しているからである。

 以前、ブログ日記をヤフーブログに書いていたことがある。ところが3年前の5月くらいに突然、その年いっぱいでブログ事業をやめます、と通知が一方的にあった。驚いた!今まで書き溜めたブログは全部消滅か、ほかのブログに移す方法も同時に紹介されていた。ワイは前から書いていたグーグルのブログにコピーして移したが、その量は三分の一ほどである。このブログの右欄外に2022年から辿って2019年の5月を見てもらえればブログの数が尋常でないほど多いのに気遣えるだろう、それは消えたヤフーのブログを移したためである。下のタイトルの左下にある赤丸で囲ってあるように「20180713」と入っているブログはヤフーのブログだった2018年7月13日のものである。


 しかし一部移し替えたのはよかったが去年の秋くらいから文字は表示されるが、ヤフーから移し替えたブログの写真は下のように全く見えなくなっている。


 ネットではブログは人気ないといわれる、そのためヤフーをはじめブログ事業から撤退する会社が多くなると思われる、このグーグルのブログもやがて、ある日突然消え去る運命にある。まぁ、それでいいと思うが、ワイの生きてる間はあるだろうか?

2022年1月29日土曜日

医学史の一コマから

  今年で私は満71歳を迎える。若い時から不摂生、偏食、そして奔放な生活、よくぞこの歳までいきたと、ある意味感謝せねばと思ったりする(とはいえ今晩にでも死神が迎えに来たら、もうちょっと待ってつかい!、というだろうなと思うが)、人生を振り返ると、幸いなことに死んだかもしれないような事故には会わなかったが、二度、もし現代医学・医師の世話にならねばおそらく死んだかもしれないという病気にかかった。一度目は小学校5年の時、風邪と最初は思っていたが40度近い高熱が何日も続き、意識はほとんどなったが、時たま意識は回復する時があったが、ともかく苦しくて目を開けてみる視界、天井の隅には変なモノが浮かんでは消えたりしていた。それを救ったのは当時新薬とされた(田舎の医者がようやく処方できたという意味で)クロマイ(クロロマイセチン)・抗生物質であった。内服すると効果は劇的で日中に服用したとおもうが夜にはもう意識もはっきりし熱もほぼ平熱になった。子供心にも、この薬で助かった、もしこの薬がなければおそらく11歳で死んでいただろうと思った。

 そして二度目は、57歳の時、後で診断されて前立腺肥大(前立腺の良性腫瘍の一種9と分かったが、前夜の就寝前から尿が全くでなくなったのである。膀胱はパンパンになっているが、力んでも尿のしずくも出ないのである。まだ夜の開ける前であったが、はち切れんばかりの膀胱、七転八倒するような下腹部の苦しさで辛抱ができず、夜間救急外来へ駆けつけた。どうなるのだろうという不安、そしてじっとしておれないような苦痛であったが、医師は大したもんだ、このような尿閉処置には慣れているようで、導尿カテーテルを尿道口から差し入れ膀胱から尿を輩出した、膀胱から尿が出るにしたがって潮が引くように苦痛、苦しみはなくなっていった。もう地獄から天国であった。あとで考えた。この尿閉に対しもし導尿ができなければ、尿が排出できず、苦痛のうちに腎臓がやられ、最後には尿毒症になったのは疑いない。もし私が明治以前に生まれていたら、おそらくもがき苦しみながら死んだだろうと思う。

 この私の死ぬような苦痛である尿閉を救ったのは導尿カテーテルであるが、医学歴史的遺物としてみたのは長崎へ行った時であった、長崎に江戸の文政期にできたシーボルトの医学塾・鳴滝があるが、その中に当時の西洋医学の外科的器具が展示してあった。メス、ハサミのようなもの医学的のこぎり、浣腸器のようなものもあった、その中に導尿カテーテルがあったのである。これを見たとき、

 「ああ、あの尿閉の死ぬような苦しみ、江戸・文政期であっても蘭方医ならば、尿閉でも助かったのだなぁ」

 と思った。江戸期蘭方医が医学の救世主のように(名前倒れもあるが)噂されたのもわかる気がする、古来の漢方医では尿閉はお手上げだっただろう、そのままの放置では七転八倒で苦しみ抜いて死ぬだろう。私が体験したような尿道カテーテル処置によって、あぁ助かった、地獄から極楽とはこのことじゃ、とおもったが、江戸時代の患者も同じように思ったに違いない、手を合わせ拝みたくなるような、オランダ医学の成果であろう。

 抗生物質が一般化するのは20世紀も半分過ぎてからだが、西洋において科学(解剖学、化学と結びつきながら)として医学の知見や臨床処置の経験を体系化された、その進歩は遅々としたものではあるが、確実に、患者の苦痛を軽減し、目に見えて治癒できる症例も増えていった。

 この医学的遺物である尿道カテーテルを見たのはシーボルトが開いた鳴滝塾であったが、この塾の学頭というかシーボルトの第一の弟子はわが阿波藩の人である。藩医の家系であった「高良斎」である。先日、眉山会館から細道を通り寺町を歩いているとその人の墓があった。

 正善寺の墓地であり入り口にはこのような案内の石柱がある。


 そしてしたが高良斎の墓である。彼ならば江戸時代ではあっても尿閉の患者の苦しみは治癒できたのである。


 江戸時代の医師であっても、患者を救えず、死なせてしまうことは大変残念であったろうと思う。人はいつかは死ぬものである、でも苦しむ患者を診て、劇的な全快は無理としても少しでも苦痛を軽減させてあげたいと思う。若く探求心のある医者ほど医師の無力を思い知り、どうにかしたいと強く思ったはずである。でも何とかするという手立てはむつかしく、たいてい患者は今までのような苦痛をたどり、死んでいった。

 しかし、かすかな光は西方、日本のはずれ長崎からもたらされる、阿蘭陀医学ならばなんとかなるのではないか、医学の素晴らしい成果も聞こえてくる、挫折感を味わった若い探求心のある医者は、何としてもその医学をものにしたいと思ったと思う。高良斎はそのような阿波の医者だった。一カ月近くかかる長崎のまで旅をし、シーボルトに弟子入りし、阿蘭陀医学を学んだのである。文献が少ないため阿蘭陀医学によってどのような成果がもたらされたのか、詳細にはわからないが、眼科の外科的手術、各種の手術、梅毒の当時としてはかなり斬新で有効な効き目のある水銀療法、そしてこの導尿カテーテルの処置もそうであろう。

 18~19世紀にかけ西洋医学は学問として目に見えて進歩したが、西洋医学にしても江戸期、普通の町医者が苦悩したような悩みを経験している。もっとも西洋の場合はその苦悩、そして探求のためヨーロッパから最新の医学を持っているイスラム世界への学問の旅は高良斎より800年ほど早かったが。

 ここでちょっとおすすめビデオ(DVD)、市立図書館にある「千年医師物語」、うえで述べたような医師の苦悩、そして医学先進地区への長期の旅、そこでの学問、治療の無力感、それでも未来に見えるかすかな光・・・など、医学史としても、ドラマとしても楽しめます。よかったら借りてみてください。



2022年1月28日金曜日

癒し

  前々回のブログで、ウチら田舎の優秀な高校生は医学部を目指す子が多いと書いた、しかし医者は、研究者となる医者を除いて患者と向き合わねばならない。職業としてはよほどの覚悟や倫理観、そしてできれば話術が巧みであることが望ましい。というのも最近の患者は扱うのはむつかしいと思う。

 時代が進むとともに医学は進歩し、多くの病気が治るようになり、人々の健康に過ごせる寿命もたいへん延びた。 医学も科学であるから過去からの医学の知見、技術の蓄積でなっている、だから人体の生理を極め病気そのものを治すのは時代とともにたやすくなっていく、医師個人の能力の向上というより、今までの治療の成果蓄積の成果が集められ、その膨大な経験が例として、この病気治療にはこのようなマニュアル適応されるという経験がたどれるのである、だから医師は診断がついたら、その多くの治療マニュアルからどれを選択するかということになるが、これも先人の多くの症例カルテが残っているので時代とともに、この意味では医師は楽である。

 また漫画上の伝説の医師のブラックジャックのように神業的な手術の腕前はやはり高度な技術として今も医師(特に外科)に望まれるのではないかとも思うが、最近は細かい手術、それこそ顕微鏡で見なければならないような患部の手術をはじめとして、機械に頼る手術、ロボット手術ともいうようだが、そのような手術が多くなり、これからもAIを組み込んだロボット手術は多くなるであろう。そうなると容易とまでは言わないにしても昔と違い医師の知力・能力の向け方が違ってくるだろうと思う。パソコンを前に電子カルテ、そして検査技師群から上がってくる各種検査のデータ、そして過去の症例集のデジタル資料、そして治療のマニュアルの選択チャートをパソコン画面で見ながら、患者の治療を決断する、極論を言えば、患者の顔をほとんど見ないでパソコンのみで診断から治療までできそうである。手術にしてもAIを組み込んだロボット手術が主流になると医師の人力・知力は、よく言えば軽減、悪く言えば楽ができるようになる。

 このようにこれからの医師の仕事を考えていると、今朝、ニュースが飛び込んできた、どんなトラブルがあったかしれないが、もしかすると何か医師の治療上のトラブルか、たぶん患者だったのだろうある家の弔問に病院の医師が複数のスタッフとともに訪れ、この家の男から被害にあい心肺停止という、詳細は分からないが、このような医師、患者のトラブルは事件にならないまでも近年多く発生していると推察できる。なぜ、そうなるか、医師と患者の関係の希薄さがその大きな原因であるような気がする。

 確かに患者は病気に対する最も適切な処置を求めている、治療最優先ということも当たり前の話である。しかし患者の立場から言うと、肉体的治療のみを求めている人ばかりではない、「癒し」を求めて医師にすがる人もいるのである。これこれの検査の結果、このように診断がつきました、だからこれこれの治療を行います、と機械的に医師に受け答えされて、それが「癒し」となるであろうか?などというと多くの患者を診て、患者の心までいちいち知る時間もない、だからそれはむつかしい、だから日本でもアメリカのようにそのような場合は病院に心理学の専門家や医療心理療法士が常駐して分業し、そのような役目を分担するのがこれからの医療の在り方だからそうすべきだ、という意見がかえってくる。確かに複雑化、専業化した近未来の医療界はそうなるかもしれないが、やはり私としては診察室で向かい合う医師に「癒し」求めたいと思う。

 そのため私は、積極的に医師に対し、いろいろお話をする、もちろん全く関係のない話はできないが、関連した話はいろいろ思いつくし転がっている、診察室へ入る前に、いろいろ話題を考えたりもする、そして多様な話題を持ち出すことにより、それが案外私の「癒し」となっている場合がある。ただ、あからさまにそ医療関連のこととはいえ焦点の定まらないぼんやりした話を出しても乗ってこないというか無関心な医師もいる、すべて診断かつそれに基づく治療と合理的に割り切ってカルテから引き出される話題一本やりに戻る医師もいる、ちょっとそれでは「癒し」にはならない。

 「癒し」というのは多義でなかなか定義がむつかしい、「癒し」医師の専売特許ではないし、偉大な宗教家の行為にも使われたりする、しかし「癒し」は英語ではホスピタリティという、これはまさにホスピタル、病院の語源である。

2022年1月27日木曜日

津田の洲と葦原

  車を持っていない私のために友人が午後から数時間のドライブに誘ってくれた。たいがい私のリクエストを聞いてくれるので、今日も海が見たいと、そちらの方面のドライブになった。ワイは昔から山のほうが断然好きであったが、60歳を過ぎるころから、雄大で広々した、しかしあまり山のような変化は乏しい、海のほうが好きになった。ぼんやりして海を眺め、時を過ごすのに至福を感じるようになった。

 今日は新浜のマルナカの前をとおり、南バイパスを突き抜け、津田橋北詰にでて橋を渡り土手を海のほうへ向かった。適当な土手の空き地で車を止め、そこからは歩いて津田河口(勝浦川)付近にある大きな洲とそこに生い茂る「芦原」(葦やヨシが生い茂る原野)を洲が切れて波が洗うところまで行った。

 友人とは前後になりつつ、いろいろおしゃべりもしたが、お互い耳が遠くなっているのと、芦原に吹く風の音のため会話はほとんど聞こえず、後で考えると、相手の受け答えにかかわらずお互いが自分勝手にしゃべっていたような状態で、途中でそれに気づき、苦笑いした。

 小松海岸のような見渡す限りの砂浜海岸もいいが、洲が所々に島のように広がり潟湖も存在し大きな葦、ヨシの原野が存在する海岸もなかなか風情があってよい、寒中のこの場所、わびしさ、枯れた風景、まったく人気のいないところ、強風ではないが常に風が吹いている感じは決して嫌な感じではない。歳ぃいった爺さんが、船頭小唄の「♪~おれは~~河原の枯れすすきぃぃ~~~・・・」という歌を好むように、自虐でも惨めさでもなく、結構、このさびしい葦原の状況に酔って嬉々として歌うような感じとでも例えようか。

 詩心は少しはあるが、形にして和歌、俳句にする能力は備わっていないが、先人の有名な詩はどのような状況でもわいてくる。

 「葦原・・云々」ですぐ思い出したのが

 葦原やしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思はず

 である。古典の和歌ではあるがはて、誰だったか?思い出せない。昔だと詠み人の名前なんどはすぐ思い出せたというか、和歌が浮かんだ時にすぐそれと一体になるものとして思い出したものだが、過去の私の記憶の蓄積は最近、人名をから始まりどんどん消えかかっている。今、ネットで調べると、御名は「後水尾天皇」、名前が思いつくとやっと消えかかった記憶がよみがえってきた。この歌は天皇が実際に葦原にいって詠んだのではなく、幕府(二代秀忠の時代)の皇室に対する圧迫に憤って、詠んだ歌と思い出した。

 和歌も俳句もワイの力で創作は無理だが、もし作るとしたら、枯れた葦やマコモの原をかき分けかきわけ、残り少なくなったわが身の残された「時」を象徴する寂しい葦原の道なき道をとぼとぼ歩いている心象風景を表現すると思う。





2022年1月25日火曜日

血圧のこと

  初診から二週間は医師が処方してくれたアムロビジンという血圧薬を一日一回服用し、血圧表をつけて医師に経過を見てもらっている。以前より下がっているようだが、目標は135以下(最高血圧)である。しかし二週間経過した後、血圧表を見ると朝、夕二回のうち夜のほうは135以下だが、朝は135以上の日がほとんどである。二週間後診察した結果、また別の薬で二週間経過を見るようにした。やはり一日一回で今まで朝飲んでいたのを夜に変えた。サンドという薬である。

 これに変えて5日たった。確かに朝の血圧は少し下がり、5日間の朝のうち135超えていたのは一回だけとなっている。ネットで薬の情報を検索すると、副作用や注意点をずらずら書いてある。読んでいると大変気になるが、あまり深く検索はしないでとりあえず、医師の経過観察で処方してくれた薬を当分飲み続けることにする。

2022年1月24日月曜日

少年よ大志をいだけ、でも道はいろいろあるぞ

  金曜夜、銭湯でたっぷり温もり、汽車に乗った。(もう昔と違い、ワイの街には銭湯さえない)かなり遅い時間にもかかわらず、汽車の中には制服姿の、いかにも真面目そうな、というのも英語の単語帳や、参考書などを広げて勉強している、彼ら彼女らの制服の形からいくつかの進学上位高校であると知れる。ふと思った、当然彼らの当面の目的、つまり一過程の手段である目的大学入学を目指しているのは間違いあるまい。よく世の大人たちはしたり顔で、大学入学が目的となってはいけない、あくまでそれは手段でそれを基礎に自分が本当にやりたいことを常に忘れるな、という。しかし考えると16や17歳の少年に人生の価値のある本当にやりたいことがはっきりと定まっているだろうか?

 また世の大人は、使い古された定型句ではあるが、「大人はな、あぁ若い時もっと勉強していい大学へ入ってればよかったと思う、そう思ってからでは遅いんぞぉ、いまはしっかり勉強していい大学に入ることかんがえにゃ」ともいう人が多い。実際に16・7歳の子供を持つ親なら、とにかくいい大学に入ることに今は一心不乱に努力し、そのあと、人生は長いんだからそれを踏み台に次のステップに行けばいいと思っている人が多いだろう。少年にこれからの人生の展望が見えているわけでもないし、やはり世の人や親の言う通り16・7歳の少年はともかくいわゆる入試科目といわれる勉強に頑張り学力がつけ、いい大学に入るのを目指すのが教育を施す立場から見たら一般的になるのだろう。

 遅い列車の中に真面目な進学校の高校生が乗っているのはなぜだろう、おそらくは市内でも実績のある名の知れた予備校へ学校が引けてから通った帰りだろう、徳島駅午後9時過ぎの汽車である。有名国立大学は共通テストに英国数社理と五科目あるから、それぞれの学習塾へ行っているのだろうか?いやそうではあるまい、ちょっと考えるとわかるが、国社は自習でもなんとかなりそうであるが、英語、数学、そして理科の中でも物理・化学なんどは、自習では超難関校の試験には歯が立たないのであろう。そのため多くは英語塾、数学塾に通っているのだろう。

 先日、共通一次テストが終わった後、どの新聞にも各教科の試験問題が載った、ちなみにワイがざっと見て解こうとした。しかしまぁ、平均点が取れそうなのは歴史、国語くらい、英語は制限時間が二倍くらいあればなんとか平均点は取れそうかな、とおもうが普通に解いては平均点も取れまい、数学、物理に至ってはもうお手上げ。

 県内の超進学校はどのような目安でその評価がされるか、というとワイの高校の時とそう変わらない、東大、京大の難関国立校、それと大学は問わないが医学部に入る人数である。なるほど、そう考えると、大概の人が苦手な数学、物理、英語などの塾がそれら入試のためにはやっているのもうなずける。

 たしかに16・7歳の少年が、人生の目的はとか、一生を通じて価値あることは何か、そもそも学問するとはどうゆうことか?なんどと哲学的なことを考えていては、超難関校の入試試験に割く時間が無くなるだろう。もっとも稀ではあるが天才的な少年なら同時並行で、入試科目も網羅し、学力をつけつつ、このような哲学的なことを考える子もいるだろうが、まぁ大多数の有望な少年はそれに向けて寸暇を惜しまず勉強するのだろう。

 ワイの住んでる田舎では、旧帝大の国立に入るより、むしろ医学部に入ったほうが、すごいなぁ、と尊敬、いやほとんど羨望でみられる、少年の同級生の間でも医学部合格となれば一目置かれるだろう。そんなこともあるのか、進学塾の学習や在学中に定期的にある学力テストで、英語は当然だが、理数に強く、伸びしろがあるとわかれば、医学部を目指す子が多いし、また親も協力にサポートする。これらはワイが高校生の時代、半世紀以上前から繰り返されてきた。これはうちの田舎だけかもしれないが変わらぬ傾向であるように思われる。


 ここで少し話題を転じる。お外はサブイ日が続いているが、暖温帯(照葉樹林気候ともいう)に属するここいらへんは、雪もなく、風がなく晴れれば日だまりはけっこう温かくなる。外景を彩る花も真冬でも絶えることがない。その中でも寒椿や山茶花の紅色の大輪、そして水仙の黄色の花芯を持つ小さな白い花の二つの花が目に付く、水仙は花も大きくもなく、草花の類であるが、まっすぐ線形に伸びた青々とした葉をもちまた独特の芳香を周りに漂わせている。山茶花・ツバキ系の花には華やかさ、水仙には清楚な美しさを感じる人が多い。この水仙は花壇だけでなく、野生化しているのか、線路沿い、土手などに群れて沢山咲いている。

 花には花言葉がある、ほとんどの花は花言葉を持っているが、一般的に知られている花言葉は少ない。その中で水仙の花言葉は多くの人が知っている。ギリシャ神話に出てくる有名な話をもとにしているのでそれと合わせて覚えている。水仙の花言葉は「自惚れ」別の言葉でいうと「自己愛」、あまりいい花言葉ではないが、私は「愛」、もっというと「エロス」愛だが、これにはいろいろな志向があって、異性愛もあるし、同性愛もあるし、また自己愛も含まれている。古代ギリシャは後のキリスト教が広まった中世以降と違い、このような多種のエロスが考えられ認められていた。そのなかで自己愛だけが低められ貶められるいわれはなかった。

 この水仙の花言葉は、ギリシャの美青年ナルキッソスの自己愛(水に映った自らの姿に惚れるのだから精神的な自己愛ではない)に基づいている。そして神話では自己愛に異性愛が絡みつくという展開をみせる。すなわち、ナルキッソスの美貌に美少女が恋をするのである。ギリシャ神話のエロスで面白いのは、異性愛、同性愛、自己愛が複雑に入り組み絡みついているのである。どの神話のエロスの話でも、美青年とか美少年とか出てきたら、異性愛が主題であっても同性愛、自己愛のエロスが加味されている。とまぁ、ワイとしては自己愛もエロス愛の一つとして異性愛、同性愛、と同等にみていて、自惚れも、ただし「美」をともなってだが悪くはないと思っている。

 なんで水仙の花言葉の「自己愛」を出してきたかというと、今週発売の某週刊誌の見開き目次にこのような言葉を見たからだ。最近ちょっと話題になった、学力が落ちたため東大医学部入学に支障をきたしたと感じた17歳の少年が共通一次のテスト会場の東大前で3人を傷つけた事件の週刊誌なりの詳報である。その見出しが

「同級生女子に告白、僕の賢い遺伝子の子を作りたい!」

 である、週刊誌の内容までは見ていないが、告白とあるからラブレターかなとも思うが、そうでなくても、他人に。僕の賢い遺伝子の子を作りたい、とは恋文でなくても、まぁなんと自惚れの強い子だろうと、普通に思ってしまう。週刊誌もそのような印象を与える見出し作りをしているようだ。

 でも17歳のかなり頭の良い少年がこのように思ったとしても、異常ではない。人格形成そして自信の芽生えの過程の中で、少年がこのように考えることはあり得ることである。ここで自分の過去の青少年時代の記憶を思い出してほしい。世界は自分を中心に回っていると、考えたことはなかったろうか?私はある。というのも、高校時代、世界の森羅万象はすべて自分が作り出したもので、自分が消滅すれば、自分が作り出した外界も、自らが消え去る時一瞬でなくなる、と妄想(?)に取りつかれたことがある。誰しも一度は(青少年のとき)そうは考えなかっただろうか?え?考えなかった。

 「それは失礼しました、ワイも高校時代はかなりなうぬぼれやったんやな」

 17歳の少年、3人を傷つけ、罰は受けねばなるまい。殺人に至らなかったのはよかったと思う、未成年だから前科も秘密にされ、再出発、新規再生も許されようが、医師を目指すことはやはりあきらめたほうがいいと思う。

 自己愛そのものは悪くもなく醜くもないどころか、ある場合は美しくもなる。しかし、ギリシャの美青年・ナルキッソスは水に映る自分の美しさに惚けてとうとう水仙になってしまった。神の怒りともいわれるが、それにしては美しく薫り高い花である、むしろ「昇華」というような次元の違った美しさに結晶してしまったとみることができる。

 自己愛が過剰に過ぎたかもしれない17歳の少年、ギリシャ的愛である「自己愛」が昇華し美しい結晶になればいいのではないかと思う。エロスの愛や美に惹かれる17歳の少年は、私のような他人が、はたで見ていても美しく感じる。実際のこの少年の外見的美醜は関係ない。三島由紀夫は金閣寺を炎上させた大学生兼金閣寺の侍僧をみて、エロス愛や美を見たのであろう、文学史に残る大作「金閣寺」を書いた。

 この少年、将来を思うともう医者はまず現実的選択ではない。彼の知能や、愛の過剰さを思うとき、なにか「美」にかかわる仕事をして、形あるものを作り出せないかなと思う。三島由紀夫のような小説家の道もその一つである。小説家ならどんな大胆かつ不道徳、人倫に背くことでも考え、それを文章にすることが許される。

 私は1969年(私が高校三年だ)から50年間、映画フーテン寅さんの大ファンである。50年後、寅さんが亡くなった後、甥の満男を主人公として最終作が作られたが、なんと中年になった満男が売れっ子小説家となっているのである。しぶしぶ勉強をし、落第浪人し、やっと名もない私大を卒業し、就職しても腰の定まらないあの満男が小説家になってもてはやされているのである。満男でも小説家になったのだから、私の見ることろ三島由紀夫のヒーローに出てきそうな感受性が強く知能が高く、過剰な愛を秘めたこの17歳の少年が、自ら小説家となり、作品の中で素晴らしいヒーロー、ヒロインを作り出すのは大いに期待されるのではないか。

 小説家は将来の選択の一つである。まだ17歳、人生は長い、しかし若さの感受性の強さ、新鮮な審美感はすぐ移ろってしまう、人生の一番輝いている時を今生きているんだという自覚をもってなんとか立ち直り、素晴らしい人生を歩めればいいと思っている。

2022年1月21日金曜日

思い出の旅・桜島溶岩温泉からの記憶

  最近も友人に、死ぬまでに歩き遍路を実行したいなぁ、といったら、大昔からずっと言ってるが、まだ言ってるの、と笑われた。歳が行くほど実行はますます困難になり、まぁ、時々、願望を表出して、すこしでも心をいやしているのかな、と自分でも思う。

 あぁ、やだ、やだ、歳ぃいくとできもしない願望を繰り言にしたり、昔はこのようのことした、昔はよかった、というたぐいの話が多くなる。今日のワイのブログもその一つかもしらんが、毎日サブぅて屋外をウロチョロできないから、室内でいるとそのような昔の思い出、繰り言がつぎつぎ頭に浮かんでくる。

 前のブログで、全国を放浪していた時にいった桜島溶岩流原野の話をした。三十数年前といったが、残っている記憶をしっかり掘り起こすと出発したのはワイの満39歳が終わるギリギリの年だった。放浪といっても、歩きでも自転車でもなかった。車であるから、歩きや自転車で日本一周する人から言えば、「ヘタレが!」と馬鹿にされるかもしれないが、40に近いおっさんだから仕方ない。そのかわり、二年近く全国をふらふらしていたので日本全国、九州の南端から北海道の北の端まで一周どころか、三周くらいできた。

 費用?それまでに蓄えた金500万近く、札束にして車に乗せての旅である。ちょうど世はまだバブルの時代(そろそろ終わりかけてはいたが)、そんな時代の風潮もあってか仕事をやめて中年のプータローにしてはかなり豪儀な全国放浪の旅である。まぁ一年以上は野宿もせずに全国旅が続けられるだろうと、あまり考えもなく出発した。

 全国放浪の起点は南九州にした。その数日目が前回のブログで思い出した、桜島溶岩流原野である。桜島はそれまでに(まだ仕事を持っているときに)きたことがあった。鹿児島市内からフェリーにのり上陸するのであるが、この時は行きは鹿児島市からフェリー、帰りは大正時代の噴火で島が陸続きになった溶岩が海峡を埋めた道を走った。

 その時はデジカメもまだ一般的でなくカメラはフィルムだった。カメラも一台乗っけていたが、その時は全国どのようないい風景であってもカメラに写真を納めるつもりはなかった、常に移動するのに現像も大変ということもあったが、ワイの身一つで数々の名所に行きその経験だけでいいと思っていた。ただノートに、毎日数行、いった場所、簡単な印象の記録、そして泊まったところ、を簡単な日記風に書いていた。しかしそのノートも、数度目の全国一周の北海道の紋別でなくしてしまい。書いた記録はほとんどなくなった。

 だから今となってはおぼつかなくなった記憶のみが頼りである、しかしよほど印象に残ったところしかなかなか思い浮かばない。でもテレビや、あるいはある地方の写真を見ることがきっかけとなって思い出すことがある。また今でもある県のある名所を特定して思い浮かべる努力をすると、少しは記憶もよみがえる。自由解放を求め気ままな旅を求めて旅をしていたので、浮かび来る記憶はどれも甘美である。

 前回の桜島溶岩流原野もブログを書いてから、いろいろ思い浮かべる努力をすると、大したもんだ!その溶岩流温泉の薄暗い湯船、大きなガラスの外壁を通した夜の溶岩原野の風景が見えたことを思い出した。そうだ!その温泉はたしか国民宿舎かなんか公共の宿だった。できるだけ宿泊費用は安くあげたかったので、国民宿舎、公共の宿、あるいはユースホステルなんどに泊まったのだ。

 そこでまた、ハットと思い出したことがある。先にも言ったようにどこの場所でもワイはその時写真などは撮らなかったが、そのあと、いや前かもしれないが、鹿児島県、宮崎県、熊本県の三県が接する県境の山奥のユースホステルで止まった時、ペアレントさんが集合写真を撮って送ってくれていたことを思い出した(ずっと後になって家に帰って家人から渡された)、我が家には過去の写真がたくさん蓄積されているが、まさに蓄積で全然整理していない雑然と放り込んである。夕べ、時間をかけてその中から探した。時間がかかりうんざりしてもうよそうと思ったとき、出てきた。したがそれである。だから前回のブログで溶岩流原野で温泉に入り、火山博物館を見たのは、この数日前か、あるいは数日後か、であろうと思う。全国放浪の写真は残っていないなかで放浪の旅の起点初めのころの貴重な写真の一枚である。

(目隠しはしていないプライバシー云々もあるだろうが、31年も昔である、一緒に写っている20歳の学生でも今は50歳すぎたおっさんおばはんになっている、本人以外は同定はできまいと思い、あえて顔出しの写真を出した。ボードに宿泊者の名前を書いているがこちらは消してある。座っているのはユースのペアレントさん、立っているのが私も含めたその日の宿泊者である)

 あぁ、なつかしい、できたらあの日にかえりたいわ

2022年1月19日水曜日

 この頃のこと

  二週間ぶりの投稿である。書く気力が一段と衰えたこともあるが、ともかく寒い!地球温暖化で冬の気温がどんどん上がっているようだが、今年は暖冬とは言えないような寒さである。そのため、北風ピィプゥのなか自転車にのってフラフラもできない。あったかいところでチジコマル傾向があり、いかにも老衰で不活発という体である。70歳過ぎると(まぁこの年齢に突入するのは初めてなので、当たり前だ!経験がない)本当に衰えが自分でも目立つようになった。年寄りの中には、気力は十分でも体力の衰えがその前にきている人もいるが、私の場合は気力の衰えが先行して、そのすぐ後を体力の衰えが追っかけているようだ。

 世はまた変異コロナの蔓延、そしてはるかではあるが南太平洋の弩級噴火、でなんとなくざわついている。変異コロナは感染爆発のわりに症状が軽く遷移するといわれていて、各国ではその証拠もずいぶん挙げられているが、日本ではマスコミを中心に相も変わらず、われら庶民を脅しまくっている。まぁワイは内心大したことはあるまいとほぼ確信している。三度目もワクチン接種券が届いてもどうしようかとまよっているくらいである。

 それよか、南太平洋のトンガ王国の弩級噴火がちょっと気になる。新聞にも載っていたがレベルは最大級噴火のフェイズから2~3くらい低いといわれているが、それでも成層圏に吹き上げられた火山灰で冷夏になり、あの平成5年ころの米騒動を心配する声が新聞に載っていた。ちなみに噴火の最大のフェイズは十万年に一度くらいの大噴火で、被害は人類そのものの生存を脅かすものである。そして次の大噴火は一万年に一度くらいの噴火で被害は一つの文明圏、文化圏が滅びるくらいの被害があるそうである、7000年以上前の姶良カルデラ噴火は西日本の縄文文明・文化を滅ぼしたといわれている。そしてその次に大きいのがヒリピンのピナツボ火山級、そしてその次が富士山大噴火である。

 ワイらは南海大地震に目を向けているが、縄文文明をすんでのことに滅ぼしかけた大噴火にも留意すべきである、一万年に一度なら直近に怒っても不思議ではない。この縄文文明大破壊の大噴火を知ったのは、ずっと昔、35年も前、日本全国をフラフラ旅歩いていたころ、桜島溶岩流にある溶岩温泉に入った帰り、その溶岩流原野にある火山博物館に入ったときである。ジオラマ、そしてよくできたその火口から吹き上がる噴煙の動き、音、などが再現されていて、視覚的にも面白かったがその説明パネルをみて、驚いた!その時から歴史好きのワイであったが、それは人類が記憶を伝えるすべを覚えた歴史時代以降の歴史であり、まだその手段のなかった縄文初期にこんな壊滅的火山爆発があり、一つの文化圏が存立の危機に立たされたなどとは思いもよらなかったからである。隕石の衝突も人類生存の危機をもたらすがそれよか、火山大爆発のほうがずっと起こる可能性が高い。

 縄文人つながりから、南太平洋の人々(トンガも含め)、ワイは親和性を感じる。ワイの血の中にある遺伝子かしらん、実際のところ縄文人はアジア北方人種より、南太平洋の人のほうに遺伝子が近いんじゃないだろうか、ある説では、南太平洋に人類が拡散したのは、台湾あたりからで、当然、台湾の原住民そして花綱列島である南西、日本列島の原住民である縄文人とつながりが大いに考えられる。確かに縄文人も太平洋諸島の人々も、結構ホリが深く、目がパチクリしていて、また体毛や髭が結構多い。そして何より類似性をワイが感じるのは温和でおおらかな性格である。(縄文人の直接の子孫であるアイヌのこのような性格は明治期日本に来た欧米人により確認されている)、アジア北方人種である朝鮮半島や華北あたりの人が、百年近く前のことを執念く恨みを忘れないのに対し、南方諸国の人はそんな執念を抱いていないように見えるし、親日的であるといわれている。トンガもそうであると聞く、噴火の被害で困っているならぜひ助けてあげたいと思う。

 二週間の間、朝、夜、二回の血圧のプロット表を作り、今日、循環器科の先生に診てもらったら、降圧剤を飲んでいるにも関わらず高血圧であるといわれた。特に朝の血圧がかなり高い。で、今日から薬を変え、一日一度は変わらないが、今まで朝飲んでいた薬を夜に変えることになった。医師は、これで朝の血圧はかなり下がると思いますと言っていたがどうだろう。私の場合、自己診断ではあるが、血圧を測ると身構えた瞬間から、たとえ家であってもググッと血圧が上昇する傾向にあるのではないかと思っている。こういう精神的に血圧上昇の原因がある人が実際いるそうだから、ワイもそうじゃないかと思っているが、本物の高血圧の場合は、放っておくと、いろいろな病気を引き起こしますよと、医師から脅されているので、まぁ、薬は当分飲み続け経過を見ようと思う。

 昨日、県庁に行った帰り、勝鬨橋交差点の信号がなかなか変わらぬので歩道橋を渡った。すると、今まで下を歩いていては気づかなかったこんなものがあった。

 『これって、スパイダーマンか?』


 上を見ていて歩いていたら、歩道橋の階段をすんでのことで踏み外し滑り落ちそうになった。また骨折入院の恐れがあった。若い時なら、たとえ一段踏み外しても骨折などには至らないと思うが、70歳過ぎた今、平地でも転倒は危ないのにまして階段だと・・クワバラ、クワバラ。

2022年1月5日水曜日

血圧計を買った


 昨日、診察・検査の一環として血圧を測定したが異常に高くて、びっくり。昨日に引き続き今日も病院へ出向き循環器科の医師と相談。結局、二週間、一日一錠の処方薬の内服をつづけ、そして朝晩、家で血圧を測定し、それを貰った血圧手帳にプロットし、それを医師が見てから今後の処置を考えるとのことであった。

 家に血圧計などないので先ほど大型電気店に出向き血圧計を買った。今日の晩から血圧を表にプロットしていく。昨日のブログで、歳ぃいくと多病になり、新年早々病院通いになるのもやむを得ないと書いたが、昨日と今日では違う病気で違う科にかかった。

2022年1月4日火曜日

新春雑感

  正月三が日も終わり、今日から御用始となった。とはいっても70歳を越えたこのジジイに御用もヘッタクレもない。当然ワイには御用始はないが、4日から病院が開かれるのでワイにとっては「病院受診始め」となった。社会が動き出す今日の日に病院通いとは、まことにこれからのワイの一年を象徴するようで何とも嫌だが、歳ぃ行けば多病にもなるしそれも仕方ない。午前中は、ゲェゲェいいながら十二指腸まで内視鏡を押し込まれ、ずいぶん不快な思いをした。しかし、午後からは、孤独でさびしい!なんどと茶飲み友達に愚痴ったからか、元日からほぼ毎日、二時近くだが、友人がドライブにさそってくれる。

 車を持っていない私のために、どこへ行く?とだいたいリクエストを聞いてくれる。まぁ午後二時近くだから、日の短いこの頃、せいぜい二時間ちょっとのドライブだが、それでもうれしい。ぬくければ自転車でゆるゆると結構な距離を一人で行くのだが、寒い風の中自転車の遠出はしない。

 で、今日は吉野川の北堤防をどこまでも真っ直ぐ走り、小松海岸へ新春の海を見に行った。


 昨日、いや一昨日はアスタムランドの水仙の丘へ行った。かすかに薫る水仙畑を登った。


 去年の暮れから永井荷風の「断腸亭日乗」を読んでいる、ハードカバーのぶ厚い本で何巻もある。これは荷風の38歳から80歳で死ぬ前日までの日記である。事実の羅列だけでなく、彼の考えや人生観、哲学、そして、世相の批判、風俗文化に対する考えなどが記録されており、なかなか読みごたえのある日記である。私もブログで「桃山日記」と称して書いてはいるが、月とすっぽん、もう比較も出来ぬくらい素晴らしいものである。それでもワイの桃山日記も12年目に入ったがさてあと何年、何歳まで書き続けられるだろうか。

 こんなことを言うと「ええ歳さらしてなに寝ぼけたことゆうとんねん!」と突っ込まれそうだが、もうちょっとで満71になるなど、実のところ信じがたい思いがする。真っ暗な部屋で布団に包まり、眠りに落ちる前、また目覚めて布団の中でモジモジしているとき、自分の来し方、行く末、のことをちょっとでも思い浮かべるたび、え?ワイって71歳になるんや、ほんま、これ冗談ちゃうか、と思うのである。はるか昔高校生の時から、ワイはこのように眠りの前後、ボンヤリと自分の行く末のことを思い描いたりする癖があった。その時、どのように想像しても自分が40歳以上生きるイメージは湧いてこなかった。高校生にとって30歳などははるか彼方であり、その十年後の40歳などは自分が考えうる一番遠いところにあり、ワイの人生の地平線であった。もうそれから向こうは無としか思えなかった。つまり高校生の時は、自分の一生は30歳、長くても40歳までやろなと思っていたのである。

 「それが、ちょっと、アンタ!ワイ71歳でよ!そんなん信じられるか!」

 寿命を考えると、その寿命の尽きるとき、短くても十分生きた、と言った人もいるし、平均寿命よりずっと長く生きても、まだ足らん!死にとうない、といった人もいるから、人によって寿命がバラバラなのは、神様がその与えられた寿命の中で精いっぱい頑張れよ、といっているのかもしれない。しかし、短くても十分生きたなどと本心から死を前に言える人はごく少ないと思う。壇ノ浦で滅んだ平知盛は、見るべきものは見つくし、するべきことはやった、と言って錨を抱いて入水した。またフランス革命の時ギロチンにかけられるダントンは、うまいもんも食ったし、女も抱いた、快楽をつくした、もう十分だということを言ったとされるが、これは避けられない死を前に、強がりのような気がする。世に「引かれものの小唄」というのがあるがそれに類するものか。

 人の本性としては平均寿命以上、十分な人生を送っても最後は、やはり、「神様、まだ足らん、せめてもうちょびっと延ばしてつかい」というのが絶対多数じゃないだろうか。たしか江戸期の国学者と思う、名前は出てこんが、人生の教訓にいいとして、引用したのが伊勢物語の最後の段

 「ついに行く、道とはかねて聞きしかど、昨日今日とは思わざりきを」

 まだまだ寿命がある、最期はまだこない、と思っているうちに、命は旦夕に迫るのである。ワイも含め多くのものはこのような状況は充分理解し、あり得る話と考えている、なぜならたぶん自分もそうなるだろうと思うからであろう。それだから国学者はこれを引用し、つねにそのことを思い、より良い人生を締めくくれといっているのである。

 高校生の自分が、自分の寿命は30、長くても40歳と思ったのは、なぜだろう。知力、体力がピークに達し、元気いっぱいの日々を送る18歳のワイ、今と比べると充分濃密な時間を過ごしていたのかもしれない、だからそんな濃ゆぅぃ年を重ねれば、もう40歳までで十分とは思わないにしても、そこから先は無くてもどうでもいいと思っていた。

 若いうちに苦労すれば歳がいくと楽できる云々だの、蟻とキリギリスの話など、大人などが教訓として話すと、ワイは、「そんな中年、老年までワイは生きぃひんもん」などと憎まれ口をたたいたが、少しは本心も混じっていたと思う。

 それが長々生きて、なんと今年満71歳、信じられまっか、あの高校生の時の自分てホンマに今の自分と繋がっとるんか、なんかちゃぁう気がする。

 ワイの好きな昔話にこんなのがある。

日本昔話 寿命定め

 ずっと大昔の話、この世の生き物には「寿命」が無かったので、神様はすべての生き物に寿命を授けることにした。

 まずは、鳥と魚たちの寿命を決めて、それから陸地の生き物には三十年という寿命を決めた。すると、いつも人間に叩かれこき使われている馬が「30歳では多すぎる」と訴えた。仕方なく神様は馬の寿命を20歳としてあげた。今度は、いつも人間の食料の番をするために寝不足の犬が「30歳では多すぎる」と訴えた。可哀そうにと思った神様は、犬の寿命を10歳とした。

 しかし人間は「30歳では全然足りません!」と、元気いっぱいに訴えた。長生きして沢山の子供たちと楽ーしく暮らしたい!と訴える人間の欲深さに呆れつつも、神様は馬から引いた10歳と犬から引いた20歳を足してあげた。こうして人間の寿命は60歳となった。

 神様が年定めをしてからは、馬は苦労しても20年で、犬は疲れても10年でこの世を去ることができるようになった。しかし、人間は30歳を過ぎると馬のように重荷を負う事になり、40歳を過ぎると犬のように夜もおちおち眠れなくなった。人間は欲をかいたために、年をとってから苦労ばかりするようになった。

 私の見方ではこの話のミソは、だからヒトは歳が行ってから苦労する云々ではなく、動物たちはたとえ寿命10年でも満足しているのに、ヒトだけは長くのばされても足りないと思って、もっともっとと思っていることである。たとえもっと寿命を継ぎ足してもさらに貪婪に要求するだろう。なんと人間は貪欲なんだろう、しかし反面、寿命が延びたため、20歳近くまで人は成長期を経験することになり、その間に教育を施し、万物の霊長といわれる知恵をつけるようになった。ヒトをヒト足らしめているのはこの他の動物にはない寿命の長さ、成長期の長さである。それ故に逆説めくが、足りない寿命を嘆くのは、まさに長い寿命になってヒトの知能、知恵がついたためである。犬や特にワイが好きな猫などを観察しているが、彼らが命の儚さを嘆いているようには見えない。

 ヒトに知能がつき、文明を築きあげた、だが有限の人生そしていつ死が訪れるかもわからぬ寿命に対する嘆きは、それゆえ人の宿痾となった、なんとかそれを癒そうと各文明圏は哲学、宗教をうんだ。小難しいインド、中東、ギリシアの哲学、宗教は確かにその癒しとはなる、しかし今の世では、ある人が言ったようにそんなものはせいぜい、「電信柱にブチ当たった犬が、ぶつかったのは、ワイのせいではなく、電信柱のせいだ!」と言えるくらいの程度のものなのじゃないだろうか。

 その点、中華文明圏では昔からずいぶん即物的で、こちらの方が今の世に向いているかもしれない。死後だの魂だのを考えるより、自らの子孫の血統の持続性・永遠性に重きを置き、現世の幸福を何より重要視する。昔から中国では、人生の幸福は

 『福、禄、寿』

 で象徴される、寿は長寿である、の意味はこれは子どもを多く持つことすなわち子福である。は社会的地位とそれに伴う物質的享受である。

 そのような中国的人生の価値観を考えると、小難しい古代各文明圏の哲学宗教より、現代に向いている気がする。多くの孫に囲まれ、健康長寿のジジババが、それなりの尊敬を受け、豊かな生活資産を持っているって、これ現代の理想の福祉国家じゃないんだろうか、今、中国は民主主義の先進諸国から価値観が違うと異端者あつかいにされているが、「福、禄、寿」の漢字の三文字を想う時、どこの先進国でも目指したい福祉国家の目標に思えてくる。

2022年1月2日日曜日

初ドライブと初参拝

  元日、車を持っている友人が誘ってくれたので、どこへいこうということもなくとりあえず東へ、ドーンと突き当れば沖洲あたりの海へでるが、初日の出はもう半日も前に終わっているので、手前を右にバイパスをとおれば沖洲大橋を通って津田へ、そこから沖浜のほうへドライブが進んだところで、私が

 「そういえば、この近くに護国神社がある、そう有名な神社ではないようで、人出の混雑からいうと少なくていいかもしれないから、そこへ行けへんで?」

 ということで、護国神社へ行くと、臨時駐車場の手前から何台も車が並んでガードマンもでて整理している、ちらと境内を見ると参拝客があふれている。駐車も大変なので引き返し、南バイパスを文化の森へ、手前の駐車場付近から猫神さんの神社を見ると、参道の石段には行って戻る参拝客でいっぱい。そこでここもパス。

 近くの眉山山中にある喫茶店「あんこや」でコーヒーでも、とおもって文化の森のすぐ近くなのでそこへ行くと、お休み。そのまま眉山山系の峠を越えて地蔵院へ出ると、ここは参拝客も少なく駐車場がだいぶん空いている。結局、そこで初参拝をした。

 一夜明けて、先ほど列車のなかでどこかへ(たぶん大麻さん)へ参拝するおばぁさんグループの話が聞こえてきたが、昨日は大麻さんも、津乃峰も、県外の八栗さんも、初詣客でいっぱいで、拝殿前は行列で、時間待ちしなければ参拝もできないと話をしていた。その話からも、コロナもかなり収束し、みんなだいぶん安心し、今年はコロナ以前の例年にも増して初もうで客が多いと知れる。