2019年10月31日木曜日

ウチノ海のコスモスと秋の蝶

 鳴門のウチノ海総合公園へ行ってきました。コスモスとアサギマダラという蝶を見に行ったのですが、行くまではコスモスなんどは種を播いて放っておいても丈夫に育つ花だから美しい姿が見られるにしても、アッチャコッチャ蜜を求めてふらついている蝶のアサギマダラなんかは、群れて飛んでいるのが見られる確率は低かろうと思っていました。

 ところがいくと、コスモス畑の中にあるフジバカマの畑でたくさんのアサギマダラがヒラついて飛んでいました。下のようにガラケーのカメラでも撮れるくらいフジバカマの花の間を飛んだり、花にとまったりしていました。


 あとから調べるとこのアサギマダラという蝶、大きめの紙吹雪のような頼りない身ながら、なんと南西諸島や台湾まで2000Km近い旅をするそうだから驚きだ。

 こちらはコスモス畑、遠景にはウチノ海も見える



2019年10月26日土曜日

令和元年鴨島菊人形

 令和元年の鴨島菊人形が開かれています。

 鴨島駅前の菊人形展示、空海と藤井寺(八畳岩)がテーマ


 市役所前広場の菊人形会場

 毎年、こちらはその年のNHKの大河ドラマがテーマだったが、今年はなんと、それから離れて「日本の昔話」がテーマとなった。私としてはこちらのテーマのほうが良い。大河ドラマの低視聴率がこの変化をもたらしたのだろうか。

2019年10月19日土曜日

お経に出てくる聖地

 法華経の第一章序品、観無量寿経を読み、それから今、無量寿経を読んでいるが、三つのどのお経にもお釈迦様がその経を説かれた場所の耆闍崛山がでてくる。古代インドのマガダ国の首府、王舎城の郊外にある高くない山(というより小高い丘といって方がいいだろう)が「耆闍崛山」(ぎしゃくっせん)または「霊鷲山」(以下、霊鷲山と呼ぶ)である。どこにあるのか調べてみた。まずインドにおける王舎城の位置は赤丸で示してある。

 そしてその王舎城の郊外の霊鷲山の位置は

 古代のマガダの首府王舎城は2000年も前に廃墟となっていたがその位置は今に至るまでずっと知られていた。19世紀になって英国がインドを統治してからは考古学的な発掘やその研究も進められた。しかし、この地における仏教は1000年ほど前に廃れ、800年前にはインドそのものから仏教が消滅してしまった。そのため仏教の聖地である霊鷲山はもちろん崇められる対象ではなくなり、すっかり忘れられてしまっていた。

 その位置を同定したのは20世紀初頭、仏跡を求めて旅をした大谷エクスペディション御一行様と言われている。それまではおそらく廃れた仏教遺跡などを求めてはるばると異国から、1500年も前の玄奘三蔵はんのように旅する人もなかったのだろう。御一行は急ぎ足の仏跡めぐりであったが、以前からわかっていた旧王舎城に入り、わりと容易に霊鷲山を同定している。特に考古学的専門知識も必要なく、玄奘の表した大唐西域記などを手掛かりに「あそこだ!」とみつけている。トロヤを発掘したシュリマンと違いこちらは別に埋もれてもいないし、山肌にあるため幾星霜のうちに崩れ風化は進んだが、発掘しなくてよく、むき出しのままあるので見つけるのは容易である。それにどこやらわからぬトロヤと違い、大唐西域記には玄奘が詳しく方角から距離まで書いてある。文献を片手に旧王舎城に入れば同定は誰でもできそうである。ただその霊鷲山を見つけたいという強い思いの仏教徒が20世紀初頭までこの旧王舎城に現れなかっただけである。ただそれを大谷エクスペディション御一行様がなしたのである。

 ちなみに大唐西域記のその地理的描写、方位、距離を読んでみる。

 「・・・宮城より東北へ行くこと十四、五里で耆闍崛山(霊鷲山)に至る、北山の南に接してただ一つ特に高い、鷲も住みついているし、また高台にもなっている・・・ビンビサーラ王は(自らあるいは人々が)仏の説法を聞くために山麓から山頂まで石を畳んで階段をつくった・・・この山の頂は東西が長く南北が狭い・・・」

 とある。そこで上記の旧王舎城の地図を見てみる(19世紀には英国・インドの考古学的研究により王舎城の詳しい内部の配置もわかってきていた)。大唐西域記には宮城より東北へ十四、五里とある、玄奘が旧王舎城のどの地点で立ち止まって、霊鷲山の方位と距離を確かめたのだろうか、地図で見てわかるように旧王舎城の範囲は内壁内と考えてもかなりの広がりを持っているが、仏典で特に有名な王舎城内の牢獄、そして王舎城を出てから霊鷲山までの道程にジーバカ(ギバ)大臣(医師でもある)の園林の描写があるのを見ると、玄奘はんが起点とした王舎城は旧王舎城内壁内の南の部分(牢獄跡や東門のあたり)であろう。このあたりだと確かに霊鷲山は東北方向に見えている。しかし問題は距離である、十四、五里とある、はたしてどれだけの距離であろうか、日本の『里』は約3.9Kmであるが西域記の里の長さはもちろん違う。これには西域記の文献の研究があって、実は中国内地、インドの各地によって里の長さはそれぞれ違っているのである。その違いがどれほどの長さになるかについては遅くても19世紀末までにはその研究成果は公にされていた。それによると王舎城あたりの里の長さは、一里=約320m、である。そうすると14~15里は4.5Km~5Km未満くらいである。もちろん直線距離でなく霊鷲山山頂までの道程である。そして、北山の南に接してただ一つ特に高い、鷲も住みついているし、また高台にもなっている・・・の地勢描写を見ると、自ずから霊鷲山は同定できる。上記の地図の位置が玄奘の西域記の描写と同じであることがわかる。大唐西域記とその研究文献をもっていれば容易に霊鷲山は特定できる。

 大谷エクスペディション御一行様の隊長は日本屈指の大教団の教祖直系の御曹司である。この教団ではお釈迦さんが浄土信仰に基づいて説かれた場所の霊鷲山を特に神聖視し重要視している。御曹司さんも千年近く知られていないその霊鷲山の位置を特定して感動されたであろうと思われる。

 霊鷲山で説かれたお経で重要なものはいくつもある。上記の「浄土三部経」もそうだし、「法華経」もそうである。他にも幾多の経がある。千数百年にわたってこれらの経を受持してきた信仰厚い人々は幾千万いや幾億人いただろうか。信仰深ければ深いほどこの霊地・霊鷲山に対し、あこがれ以上の強い渇仰をもっていただろう。できることなら行きたい、でもその場所は天竺といわれる西方にはるかに隔たたったところである。いくら渇仰したところで行けるはずもない。せめてイメージだけでも(イメージだけでも救われるという信仰もあった)とその霊鷲山を観想しただろう。

 下は鎌倉時代に作られた絵巻物に現れる霊鷲山。まずは大唐西域記絵巻、
 王舎城は周りを五の峰を擁する城壁のような低い山脈に四周を囲まれた天然の要害地にある(むしろクレーターのような地形といったほうが理解しやすいだろう)、宮城はそのクレーターの盆地にある。下の絵巻ではその王舎城の盆地は霞がたなびき雉のような鳥が飛んでいる。そして霊鷲山はと見ると上方に、ワシの頭の形をした山が見える。
 西域記には鷲が住むとは書かれているが鷲の頭の形をした峰とも高台だとも書かれていないが文字から受ける「霊なるやまの鷲のみね」とでもイメージしたのだろうか、中世以来このワシ頭のかたちの霊鷲山が定型化する。

 次は法華経絵巻
 こちらは法華経にある二仏が空中に出現して光を放つところ、だから霊鷲山は下に見えている。やはり上記のようなワシ頭のかたちをしている。

 これを見ると異国である天竺の風景や霊鷲山をいくらイメージしようとしてもやはり日本的(やまと絵風)なイメージからは脱却できないのだなぁとわかる。

 イメージだけではなく、天竺の仏跡に対する思慕やみがたく実際に行こうと思った人もいた。大唐西域記は飛鳥時代には早くも本邦に伝わっていて読んだ人も多くいる。お隣の中国の人がはるばる天竺まで旅をした、日本人とて、中国へ渡航する人は古くより多数いたのだから、中国まで行けば天竺行きも何とかなるだろうと思ったとしても不思議ではない。古くは1,200年前平安初期、高岳親王が出家して中国経由で天竺に旅立ったが途中行方不明になっている(中国までは行けたらしいが、一説にはインドに入る前に虎に喰われたともいう)。

 800年ほど前の鎌倉初期には天竺の仏跡思慕の念止みがたく万難を排して旅立とうと思った高僧もいた。京都高山寺にゆかりの深い「明恵上人」である。高岳親王の方は知らない人が多いが(平城上皇の皇子)、明恵上人は高校の日本史の教科書には必ず取り上げられている高僧なので知っている人が多い。教科書でこの樹上の明恵上人図を見た人もいるだろう。

 彼は天竺までの旅立ちの準備を実際にしている。西域記をもとに西域各地方までの距離からいつまでに天竺まで行けるか、という計算までしている。下はその旅程、計算表、三年十か月で天竺まで行けると計算している、また行間の書き込みには、(万難を排してでも天竺へ)マイラバヤ(カナ文字で)、とも書いている。
 大唐天竺里程書

 明恵さんは本気だったのである。では出発したか?体調が整わずグズグズしているうちに、断念を勧める数度の神託があり、結局断念しているが、もしかするとこの神託、明恵さんほどの高僧をみすみす日本から送り出すのを心配し、あるいは残念に思う人たちが、天竺行きを断念させるため仕組んだものかもしれない。でも明恵さんは心底、天竺へ行きたかったのである。普段からお釈迦様や仏跡に対する思い入れは非常に強いものがあった。

 日本の古代中世(近世の江戸時代でもそう変わらないが)においてはたして人々はどれくらい天竺(インド)についての知識を持っていたのか、ほとんどなかったんじゃないかと思うかもしれないが、そうでもないのである。7世紀に書かれた「大唐西域記」は奈良時代以降、仏典に準ずるものとして広く読まれていた。インドの地理、各地域間の距離、風土、インドの国々のありさま、各地の人気、などかなり正確に描写されている。それを読むと7世紀ころのインドを彷彿とさせるものがある。明恵はんなんかは何度も読んだに違いない。結構、正確な(当時のインドの)知識を得ていたのである。

 僧侶でもない貴族、武士、庶民はどうか、彼らもまた天竺についてはかなりイメージできるものを持っていた。それは仏典もそうだがそれ以上に天竺をイメージするのに役立ったのは中世を中心に流行った「説話」である。今昔物語、宇治拾遺物語などには天竺に関する説話がたくさん載せられている。文字の読めない武士、庶民などは「語り部」や「説教師」、あるいは僧侶の法話を通じて天竺に関する仏教説話には接していたのである。説話を通じてだが天竺は結構身近に感じていたのである。だから明恵さんのようにお釈迦様に強い思い入れをいだき、天竺へぜひ行きたいと願った人は(なにせ仏教伝来から数えると江戸中期まででも1200年もあるから)大勢いるだろう。実際に行く準備をしたかどうかは別として。

 しかし思うのだが、天竺行きという夢や、その天竺の国を想像したイメージを膨らませるだけで結局は行けなかった方がよかった。夢は夢で終わったほうが幸せということもあるのである。もし万が一にも明恵はんが日本を出発して艱難辛苦の末、インドに到達したとしよう、言葉の障害も克服したとしよう、しかしその当時のインドはかなり以前から仏教は衰退の一路を辿り、明恵はんが天竺行きの覚悟を決めた数年前に、わずかに燈っていたインドにおける法灯は、イスラム勢が東インドまで進出し最後の仏教の拠点である僧院の僧侶をぶち殺し伽藍もぶち壊したことでインドにおける仏教は完全に消滅してしまったのである。仏教遺跡は破壊され、また積極的に破壊されなくても見捨てられ忘れさられていたのである。そこへ明恵はんがいっても絶望するだけであり、せめて仏跡巡りと思っても場所さえわからない状態であったろう。

 結局、日本人が仏跡巡りをしてその土地でお釈迦様に思いをはせることができるようになったのは明治になってからである。その流れのなかで大谷エクスペディション御一行様が王舎城の霊鷲山を特定したのである。明治期はインド仏跡巡りは汽船で行くことができるようになり、また当時インドを植民地支配していた英国が鉄道網を完備したおかげで上陸しても鉄道が利用できた。玄奘三蔵のような苦難に満ちた砂漠の旅をしなくてよくなり、ずっと楽にそして早く着けるようになったのである。そして今現在は航空機で一っ飛びでインドに行ける。ますます早く安全確実に行けるのである。

 そして今現在に生きるオイラ、最近、死期が迫ったせいか、インドのお釈迦様に対する思いが強くなっている。明恵はんほどではないが、インドに行ってみたい思いは募っている。先にも言ったように今、インドの仏跡巡りするのは容易い。○○宗の信徒会・印度仏跡巡りツァーなんかの参加メンバーを見てみると超高齢で足元もおぼつかないようなジイチャン、バアチャンが普段着で数珠を右手に左手にはゴロゴロトランクの取っ手を持ち、仏跡巡りの旗を持ったツァコンダクタについてぞろぞろと、まるで国内の温泉観光地に行くような感覚で参加しているのを見るとだれでも手ンごろ易くいけることは確かである。でもワイはそんな決まったコース、わずかな時間で制限されている仏跡のツアー巡りに参加するのは嫌だ。一人で自由に時間を取り、気の向くまま、仏跡をめぐりたい。どこでお経をあげようが、瞑想に耽ろうが、気ままに行動したい。

 しかし、なぜか現実のインドにいくのを躊躇する気持ちがある。一人旅に付きまとう、言葉の壁・風習の違い、衛生・治安の悪さ、ほかにもインド特有のトラブル、ということもその躊躇の一つだが、それが主ではない。インドで生まれた仏教に思い入れ、お釈迦様を慕って仏跡に行きたいわけだが、インドで生まれた仏教は滅びて久しい、またお釈迦様は2500年も過去の人である。今、日本にいて仏教やお釈迦様に思い入れが強いほど、インドに行って現実にさまざまな体験すればそれが壊れそうな気がするのである。誰だったかある詩人が『ふるさとは遠くにありて思ふもの』といったが、ワイもそんな気持である。現実には行けない、でも行きたい、しかし行かれず、その思いは募ってくる。そんな思慕するだけの「心の中のイメージの世界」のまま私の中にあるのがもっともいいのかもしれないと思っている。

 明恵さんは仏跡をどのような方法でイメージしたのだろうか、上記の絵巻物なんどの絵画あるいは彫刻などビジュアルなものは最もイメージするのを助けやすい反面、画一的になって自由な連想が妨げられそうである。仏典の記述に基づいてイメージするのがもっともよく、明恵さんもそのように観想したのだろう。明恵さんの時代と違って今はいい時代である。仏典も原書のサンスクリットの和訳、ついでにチベット語版の同種の仏典も、そして注釈現代語訳の漢籍仏典も図書館で容易に見ることができる。王舎城の遺跡や霊鷲山がどんなところか見たければパソコンを開いてググルビューをクリックすればその場所の360°大パノラマの風景が展開する。どれもこれも明恵はんの時代にはなかったツールである。これらは『観想』(仏典に述べられた世界をイメージする)する助けになるのである。

 ちょっとそれを使って王舎城や霊鷲山を見てみよう。最初にググルビュの鳥観図でこの王舎城の地形をみてみよう。
 王舎城鳥観図1 左が北になる、印のある少し右が北門付近になる、そして右方、山脈に囲まれたあたりが旧王舎城

 王舎城鳥観図2 北門付近は外輪山が開いている。上が南方、奥に密林の盆地が広がる、そこが旧王舎城

 上記の地図を見ながら遺跡を見てみる。
王舎城ジーバカ園

王舎城ビンビサーラー宝庫

王舎城城壁

王舎城七葉窟

王舎城轍跡

そして霊鷲山である
霊鷲山1

霊鷲山2

霊鷲山よりの眺め

霊鷲山ビンビサーラの道

 次に動画で王舎城を囲む外輪山から王舎城の跡地を見下ろしてみる。今、盆地の宮城あとはほとんどが密林になっている。

2019年10月12日土曜日

華厳経の世界をかいまみる

 前に法華経をボチボチ読み始めているといったが、やはり予想の通り読み進むのは容易ではない、句読点も返り点も送りカナもない5世紀ころの漢文を読むのは愚鈍な私が学術的な英語の論文を読むようなもので(むしろ経の漢文がより難しいかもしれない)なかなか進まない。結局28品ある法華経であるが序品はようやく読み終わり、第二の方便品の途中で中断している。

 中断はしているが法華経をある意味生かしている。最近は法華経の28品の中の第25番目の観世音菩薩普門品の偈頌を毎日のように読誦(音読)している。いわゆる観音経である。これ、全部読誦するとなると二十数分はかかるがよく経の読誦で読まれているのはその一部偈頌が多い、偈頌は読む速度にもよるが少し早めに読めば4分少々で読める。まあおっさんやおばはんが趣味でカラオケで一曲うなる程度の長さである。手ンごろ易いコンパクトな経なのでアッチャコッチャの観音さんの前でこの経を読みあげている。

 よくお参りして経を読むのは勢見山の観音寺の千手観音さん、それから大滝山の聖観音さんである。○○観音さんって区別してますが、観音さんってお一つではなくたくさんいらっしゃるのですよ。馬頭観音、不空羂索観音、ほかにもちょっと思い出せませんが十体以上はいらっしゃるのではないでしょうか。観音さんは三十三にお姿を変えて我々の危難をお救いくださるといわれているから、いろいろなお姿の観音さんがいらっしゃるのですね。

 法華経は経の題名の中に「華」という文字が入ってますね。仏教経典ですから「華」といえば蓮華(ハスの花)をイメージしますが、そのイメージで間違いないようです。題字に同じ「華」を持つ有名なお経に「華厳経」があります。法華経を読み始めたついでにちょっとこの華厳経についても調べましたところ、このお経も法華経と同じく大変重要なお経であることがわかりました。こちらもお経は34品で構成されていてかなり長く、ちょこっと解説書を読みかじっただけですが、非常に難解です。法華経も読むのは容易ではないといいましたがこちらの難しさは白文を読み下し、それを現代的な意味にとるのが難しいのであって、書かれてある内容はよく理解できます。

 しかし華厳経の方は、その解説書に重要な原文(漢文白文)の一部載っていますが、読み下して現代的な文になおしたところでその内容が非常に哲学的難解さに満ちています。解説書ではその内容の解説もされているのですが、それをよんでもわかったようなわからないようなスッと頭に入る理解にはなりません。しかし素人向けのウンとわかりやすい解説書には比喩などを用いていて何とか理解させるようにしてあります。そこでは理解を助けるために画像などで直感的に把握できるようにしていますが、これを見るとまるで最新の宇宙論や、未来のコンピューターがやがてとってかわるかもしれない人間の精神世界の話のように感じ、この華厳経の持つ不思議な魅力に取りつかれてしまいます。

 華厳経の原文に当たったわけでもなく解説書をいくつか読んだだけですがそれでもこの「華厳経」は「法華経」に匹敵する、いやそれ以上の偉大なお経であることがわかります。歴史上もこの二経をこのように考えていた人が多かったようです。特に東アジアにおいてはそうです。仏教は日本では法華経が(平安時代には天台宗、そして鎌倉以降は法華宗が栄えたこともあって)、お経の中では重要視されもてはやされます。しかし朝鮮半島の新羅時代や高麗時代は「華厳経」方が重要視されもてはやされます。この時代。「本邦は法華一乗の国、朝鮮国は華厳の国である」と言われていました。もっとも天台宗が起こる前の奈良時代は華厳宗の研究も盛んで日本においても南都六宗の中でも重要視され、現に東大寺や大仏はそのお経に基づいて創建されたものでした。今も東大寺は華厳宗の総本山です。

 五年ほど前にこの東大寺大仏殿に参拝してブログを書いたことがあります。その時は華厳宗についての知識などは全然なく、その拝観時にいただいたパンフレットの説明以上の知識はありませんでした。それでもパンフレットを読み、巨大な大仏とその蓮華座に描かれた線刻絵をみてその壮大な仏教宇宙観にちょろっと触れて少し感動しいろいろ考えさせられました。これが五年前のその時のブログです(ヤフーブログが廃止になるのでググルブロガーに移したので日付は違っています)、

 五年前のブログ、ここクリック

 最近、東南アジアの古代史の本を読んでいて意外なことに気づきました。まさにこの華厳経についてです。恥ずかしながら東南アジアの仏教については世間一般の漠然とした知識しかありませんでした。それは、東南アジア仏教は南伝仏教と言われるいわゆる上座部仏教(ワイらが若いころは小乗仏教と言われていたが現代はその言い方はしない)と思い込んでいました。だから東南アジア諸国には大乗仏教はないのだろうと。確かに中国の影響力の強かったベトナムは別として現在の東南アジアの仏教は南伝の上座部仏教です(ミャンマ、タイ、カンポチャ、スリランカなど)、しかし、古代中世と遡っていくと大乗仏教も伝来していたのです。

 東南アジア古代史(10世紀以前)関係の本の仏教遺跡を見ると必ず絵入りでボロブドゥール遺跡が取り上げられています。何気なくその遺跡写真のキャプションを見ると「大乗仏教遺跡」と書かれてあります。私の先入観と違っているのでさらに詳しく読むと、なんとこの遺跡、「華厳経典」に基づく仏説話が多く取り上げられているのです。このボロブドゥール遺跡は巨大な遺跡で、いくつものテラスのある段階的になったピラミッドのようなものです、古代日本の仏教施設(寺、石造建造物)などとは全く形の違うものです。日本にはこのような形の仏教遺跡はまずありません。鳥観図でみるととこのような形となっています。

 航空写真で真上から見るとこのように見えます。

 確かに日本にはないような仏教遺跡ですが、これを見て仏教遺跡ではありませんが私はあるものを思い浮かべました。特に真上から見た遺跡などです。それは真言宗で用いられる「曼荼羅」です。曼荼羅は根本仏の毘盧遮那仏(大日如来)を中心に十方に多くの仏のいる仏教的宇宙を表しているといわれています。
 このボロブドゥール遺跡の説明を読むと曼荼羅とよく似て仏教的宇宙観を表現したものであるといわれているのです。曼荼羅は平面ですがこの遺跡は立体的です。そして巨大で各テラスは回廊になっていて何層にもなって上に続いています。仏教の世界、宇宙を立体的に見れるだけではなくその中に入って歩き、上のテラスに向かって登りながらそれを身をもって体験できるのです。曼荼羅よりずっと仏教的な世界が身近に体験できそうです。

 この何層にもなったテラスにはお釈迦様や仏教のそのほかの説話が各場面、おそらく数百が、浮き彫りにされているのです。その中に日本に伝わっている華厳経の第三十四最終章の「入法界品」の物語があるのです。その日本の華厳経の入法界品では善財童子の求法の旅が55出てきます。善財童子がいろいろなところに赴きそこでたくさんの善知識(求法の先生になる人)に会い、教えを請い、仏道修行の旅をするのです。先に華厳経の内容は極めて難解で理解しにくいといいましたが、すべての章がそうではありません。最後の章の入法界品は今言った善財童子の話で、下世話にいうロードムービー的な筋立ての面白さがあります。私は映画のジャンルの中ではロードムービーは大好きです。それだけに難解といわれる華厳経の締めくくりの章によく似た善財童子求法の旅が入っているで華厳経がグッと身近に感じられます。

 うれしいことにこの善財童子求法の旅は華厳経そのものを読まなくても平安時代末に作られた華厳五十五所絵巻(東大寺所蔵)を読むことによって、絵を頼りに容易にその内容を理解することができます。視覚的に見ることでボロブドゥール遺跡の善財童子と重なる場面がいくつもあります。もちろん来ているものや童子の風貌、その他は違いますが本質は一緒だと考えてよいでしょう。
 
 一つだけ例を挙げると求法の旅の最後で善財童子が観世音菩薩にあう場面があります。日本の絵巻ではこのようになっています。右下手を合わせているのが善財童子です。

 対するボロブドゥール遺跡のその善財童子が観音菩薩にあう場面です。こちらの観音様は座っています。頭に日本のものとよく似た宝冠をつけていますね。菩薩様の向かって右が善財童子ですがこちらは童子というより青年ですね。

 このボロブドゥール遺跡が作られたのは8世紀後半から9世紀にかけてといわれています。ご存知のように東大寺大仏は8世紀中期にできました。奇しくも同じ時期、南海の果てのジャバ島で同じ大乗の華厳の思想による大建造物が作られていたのです。直線的でも数千キロの隔たりがありますが、この二つのつながりはもっとはるかな隔たりがあります。インドから南方に弧を描くようにジャバまで伝わった華厳の教え、そしてもう一方はインドから北東に向かって地球を四半周する弧を描いて日本に伝わりました。二つの場所の華厳の教えの伝来の道を考えるとなんという遥かな隔たりでしょう。

 華厳の教えは法華経と並ぶ大教典で深遠な仏教思想を内包していますが、平易に誰でも理解できない難解さがあったためか奈良時代を過ぎると法華経のほうが広く普及したのに対し、華厳経はもてはやす人は少なくなっていったようです。鎌倉時代には明恵上人などが出て盛り返したりしますが、衰退は否定できません。それでも南都の東大寺が中心となり、華厳の教え、その研究は今まで途絶えることなく伝わっています。一方ボロブドゥールの方はいつの間にか廃墟となり、土砂に埋もれ、華厳の教えも消滅してしまい今に残っていません。今、ボロブドゥールのあるジャバ島は回教の教え(イスラム教)が全島を覆っています。大乗仏教は完全に滅び去っています。また、日本は法華の教えの国、朝鮮は華厳の教えの国、とまで言われた朝鮮半島の方はどうでしょうか、今、その流れをくむと自称している「浮石寺」が存続していますが、確かにこの寺の始祖が7世紀、中国から華厳の教えを伝えた時は東大寺の先輩格・先生格で華厳宗の中心として立派でした。しかし仏教嫌いで大弾圧をおこなった李氏朝鮮王朝のため断絶せられ、一時期廃寺となっています。日本の東大寺のように途切れることなく法脈を伝えることはできませんでした。そのため寺宝、仏像、仏典類などもとても東大寺の華厳宗と比較はできないほど貧弱です。(この寺については最近わが対馬の寺から盗まれた仏像をいつのまにかポッポナイナイして自分のものにして返さないのでいまだに日韓間の問題となっています)

 このように見てくると細々ではあるが現代まで途切れることなく華厳の教えを受け継ぎ、また視覚的にも大仏、その蓮座、華厳宗絵巻などでその宇宙観がイメージできる日本の東大寺はたいへん貴重な文化遺産であることがわかります。
 それにしても最近、ボロブドゥール遺跡にも華厳の教えが刻まれいるのを知ったのはちょっとした感動でした。

 ボロブドゥール遺跡はググルビューを利用することによって基壇から順次回廊をめぐり浮彫、仏像類をリアルに順次網羅的に見ることができます。下はそのググルビューのマップになります。クリックするとマップが出てきます、そのマップの右下の人形のマークをクリックするとボロブドゥール遺跡の回廊が蜘蛛の巣のような線で出てきます。そこにポイントを当てクリックするとビュー(回廊の景色)が展開します。
 
 ここクリック





2019年10月6日日曜日

お釈迦様の一族

 お釈迦様はインド人である、と断定的にいうには躊躇がある。何となく我々はお釈迦様はインド人であると思っていて頭の中でそのお姿を想像すると、現代のインドのガンジス川中流域にいる行者(サドゥ)なんかをイメージする。浅黒く、顔のホリは深く、まつ毛長くお目めパッチリ、鼻筋はとおっていて高い、髪は巻き毛で黒い。すべて現代インド人の特徴となっている。しかしお釈迦様のいたインドは2500年前のインドである。そしてお釈迦様は釈迦族の生まれでその釈迦族の本拠は現代のインドではなく今のネパールである。

 現代のネパール人はみんなインド人に近い人種的特徴かというとそうは言えない。ご存知のようにネパールはチベットと境を接している。チベタン(チベット人)の顔の作りはまるで日本人と一緒である。私の個人的意見かもしれないが、朝鮮半島や中国本土の人々より日本人に似ていると思っている。ネパールにはそのチベタン系の人々もたくさんいるのである。比率的にはいくらになるかちょっとわからないがかなりの比率であることは確かである。地理的には当然チベットに近いネパールほど、つまりヒマラヤの高地に上がるほどチベタン系は多くなってくる。 そうすると釈迦族ははたして現代インド人・アーリア(白人の原種)に近いのかはたまたチベタン(モンゴロイド)に近いのか。どちらだろうか。

 ネパールのお釈迦様の生まれたところは平野部である。現代そこに住んでいる人はインド人と変わらない特徴を持った人である。しかし時代は古代インド、2500年も前である。はたしてインド・アーリア系の人々が当時もそこにいたのだろうか?世界史で習った記憶があるかもしれないが今から3500年前くらいからおそらく何波にもわたってインド西北の中央アジア方面からアーリア人(遊牧民)がインドに進出し、やがて定住し農耕生活を始めた。その波はインダス上流から下流へ、そして東へ向いてガンジス川沿いの平野を下って行った。当然そこには先住民がいた。征服し服属させたこともあるだろうし、追いやりもしただろう。何世代も服属関係が続くと先住民との混血も進むだろう。そのようにしてインド人が形成されてきたのだ。今でも追いやられた場所であろう南インドや、ヒマラヤの麓、インド最東部には北インドや中央インドとは違った人種的特徴を持った人々が暮らしている(南はドラビダ、ヒマラヤに近いあたりはチベタン系の特徴を持つ人が多い)。

 そうすると辺境に近いお釈迦様の故郷であるところにいた釈迦族ははたして押し寄せる大波(アーリア人)の方に属していたのだろうか、それとも波によって揉まれ追いやられる先住民の方に属していたのだろうか気になるところである。アーリアの侵入から1000年もたっているのでかなり人種の融合も進み単純には色分けされないだろうしまた支配、被支配階級によってもその融合の度合いも違うかもしれない。しかし今から2500年も前のことを考えるとお釈迦様の生まれたネパールはチベタン系の割合が高くはあっても決して低くはなかっただろうと推測される。学術的にはこの釈迦族は人種的にどういう人だったのだろうかという結論は出ていないようである。チベタン系の血が濃ゆいということも可能性としては大いにありうることだと私は思っている。

 お釈迦様にチベタン系の血が濃く入っているとすると我々はずっと親しみを感じる。なぜか?チベタンは日本から何千キロも離れ、その間には多くの民族がいる。チベタンと日本人とは血の濃ゆさではかなり疎遠なのではないかと思われようが、実はそうではないのである。Y染色体の遺伝子を調べるとなんと、チベタンと日本人とはかなり近い血の濃さがあるのである。

 世界は広いが地図のY染色体の遺伝子(ハプログループD)分布を見ると濃く表れているのがチベット、日本列島、インド洋のアンダマン諸島である。チベタンは朝鮮半島や中国本土の人より日本人に似ていると私は思っているがこれを見るとなるほどと納得する。お釈迦様がチベタン系だとすると日本人ともある意味親戚筋である。