2019年7月29日月曜日

マンマイサン、アン

私が小さいころから親しみのある仏さん(仏像)といえば、おやくしさん(薬師如来)、お大師さん(弘法大師)、観音さん(観世音菩薩、これにはいろいろな種類がある))、おっぞうさん(地蔵菩薩)、おふどうさん(不動明王)などがあげられる。仏さんを認識したのは何歳くらいからだろうか、ワイの生まれたころはまだまだ地域の仏さん(路傍の石仏が多い)に対する畏敬尊敬もさかんであった。私が祖父母に育てられたこともあって道端にある石仏がめに入るたび祖父母に促されて手をあわせ頭をたれ、お祈りの形をさされたものだ。ウチラのへんの幼児方言というのだろうか、祖母が、幼児の私に向かって(最古層の記憶だから2歳か3歳ころ)

 「ありがたい、ほとけさんやからな、マンマイサン、アンしょ~~~ぅな」

 と合掌礼拝を促された。それでわたしも

 「マンマイサン、アン」

 といいながら小さな手を合わせ、祖母のするように拝んだことをかすかに覚えている。この幼児語の「マンマイサン、アン」だけは妙に記憶が鮮明でハッキリと覚えている。このマンマイサンアンも極めてローカルな幼児の言葉でそれも70年も大昔だから、今も残っているかどうか確かめたことはない。おそらく消え去っているのじゃないだろうか。

 マンマイサン、アン、と二つに区切ったのは礼拝合掌でもその区切りがあったからである。マンマイサンは対象となる仏さんに対する尊称呼びかけ(幼児語としての)。そしてアンは頭をコックリとたれ、祈りの短い言葉(私なりに解釈すればまだ言葉も満足に出ない子供のための短い「真言」をまねたもの)。実際その通り幼児の私は、仏さんの前で手をあわせマンマイサンと呼びかけ、アンと言いながら首をコックリしたのである。光明真言は「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」ととなえるが、この最初のフレーズが「オン」最後が「ウン」となるが舌足らずの幼児が発音しやすく「アン」となったのだろう。これでも何となく真言の最初あるいは最後の締めくくりっぽく聞こえる。この「マンマイサン、アン」が仏さんの称名も念仏も唱えられぬ幼児専用の祈りの言葉であった。もっとも幼児にとっては仏も神も礼拝対象としては一緒だった。ただ神社の前では祖父母のするようにパンパンと柏手を打ったことは覚えている。逆に仏さんの前で柏手を打つと、ここはパンパンしたらあかんのでよぉ、といわれたがその違いはよくわからなかった。

 やがてかなり言葉も話せるようになり理解が進むと、マンマイサン、アン、をしながら何か「祈願」をすればかなえてくれると教えられた。それでマンマイサンアンに「・・・がよぉ~なりますように」とか付け加えた、まだまだ黙祷はできず必ず声に出した。同時に、なにか仏さんや神さんに悪いことをすれば「罰があたるんじょぉ」とも教えられた。神や仏は畏敬すべきものであることも何となくわかってきた。私が2~3歳くらいのことだった。

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