2025年3月6日木曜日

今頃の花々、じゃけんど花々しいことはない

  今日は3月6日、薄日も射しているし、気温もそう低くないので、春の花を求めて市内をうろついた。

 「冬の薔薇」と西洋では呼ばれているのは、師走頃から咲いている「山茶花」や「寒椿」、大輪で派手な色の花で八重もある。冬枯れで温室でもなければバラの花はみられないヨーロッパでは、冬に咲くこのような花は珍しく、バラに似ているところからこのように呼ばれたのだろう。私の好みでいえば、このような派手な花は好きではない。同じ仲間で三月頃になれば開き始める野生種の「ヤブツバキ」がいい。城山のねきを通っている遊歩道の横に椿のトンネルがある。そろそろヤブツバキの花が見られるはずだとそこへ行くと赤い花が咲いていた。寒椿や山茶花は五月蠅いくらい花をつけているが、ヤブツバキはひかえめに、常緑の葉に囲まれるようにひっそりと咲いている。


 椿のトンネルの横は汽車の操車場になっていて、その間に城の堀がある。ここは昭和の初めころまではその堀を通って「寺島川」が流れていた。今は寺島川は埋め立てられ、この堀にその跡を偲ぶのみである。堀の上に水辺の花である「水仙」が咲いていた。


 寺島川は埋め立てられ死んでしまったが、上に見える堀の、城山を挟んで反対側は、大河である「助任川」が流れている。その川沿いには早咲きの桜である「蜂須賀桜」の並木がある。満開の、もしかして桜吹雪の木の下を歩けばさぞや気色よかろうと向かうと・・・


 アカン、冬木立のままや、まだ咲くのはしばらく先みたいや、桜色の雪洞だけがむなしく揺れていた。今年は早春の寒さのせいか、ずいぶん遅いようである。というのも去年の3月5日には見事に咲いていて、それをブログにアップしていたのだ(これが去年3月5日のブログ、ここクリック

 残念!しかし桜の花が見られないとなると、どっかでどうしても見たくなる。そういや、両国橋のたもとに緋寒桜があったなぁ、あそこはもう咲いとるやろか、向かうと、咲いてました。しかし、どうしてだろう、ソメイヨシノどころか先の蜂須賀桜に比べても、色がくすんだようで地味な感じがする。桜の中には「薄墨桜」というのがあり、地味どころか、薄墨色(散り際にそんな色になるらしい)は、出家者の法衣の色であるからずいぶん抹香臭い桜となる。



 薄墨桜については、ちょっとうろ覚えで、ネットで調べても確たる証拠はないが、こんな話が私の頭に残っている。

 『今は昔、毎年春に色美しく咲く桜があった。ある男が植えた桜であった、彼はまるで我が子のように丹精込めてその木を育て、毎度のように桜に話しかけ愛(いつく)しんだ。ところがある年の秋、男はまるで木が葉を落とすように徐々に衰え萎み、とうとう冬に亡くなってしまった。次の年、春が来て、再び美しい色の桜が見えるだろうと、人々が出かけて見ると、なんとその桜は薄墨色の花をつけて咲いていたのである。人々は、桜の木は悲しみのあまり、出家して薄墨色の法衣をつけたのだと噂しあったそうである。』

 両国橋の緋寒桜、薄墨桜ほどではないが地味な色である。もしや、薄墨桜の伝説のように何か哀しいことでもあるのだろうか、そこで木にむかって聞いてみた。

 「さくらさん、さくらさん、なにか悲しいことがあって、こんな色にさいているのですか」

桜さんは答えてくれました

 「いえいえ、これという悲しいことはありませんが、なにせ、私の名前が悲観桜だもので」

2025年3月5日水曜日

高等学校入学試験あれやこれや 

 

 3月1日のブログではその日に行った卒業式を取り上げた。今日のブログでは昨日行われた高等学校一般入試試験について取り上げる。左の写真は某有名進学校、〇南高校での高校入学テストの風景、動画で見ると手前の男の子は緊張のあまり小刻みに体が揺れていた。かわいいなぁ

 高校の卒業生は満18歳だから、法的には成人となる。もう大人だ。それに比べ今日入学試験を受けた子ぉらは中学三年生だから満15歳である。まだまだおぼこげぇな子どもじゃないかとおもうが、よくよく見ると体の大きさ、背の高さなどは大人とほとんど変わらぬ成長をとげている。ワイらが中学三年の時は、中卒で就職する子ぉらがかなりいた(中学三年の8クラス中、3クラスは就職のクラスだった)。中卒15歳で就職すれば立派な社会人である。それでもまだまだ体つきは少年らしさが残っている子がほとんどだったが、今はその点、肉体的にはグッと大人に近づいている。

 昨日ネットのニュースをみていると、未成年の恋人同士が、もめたという話が載っていた。なんぞいな?とみると、なんと(セックス中?)避妊具がはずれ、女の子ぉが大騒ぎし、親も巻き込んで騒動に発展したという話である。男の子ぉが女の子やその親に責められつつも、男の子ぉの親らは、でも誘ったのは女の子ぉのほうだ、と言い返して口論に発展したようだ。当事者も親も深刻な話だろうが、聞くワイは思わずにんまりしてしまった。この話、男や女の子ぉらは未成年とある。てっきり高校生同士かと思って読み進めていたが、途中でそれが中学生どうしとわかって、ちょっとおぶけた。いやぁ~、体も大人に近づいた中学生だが、やることも立派な大人だなぁとおもった。で、その話のまとめは何かというと、性の専門家はんがしゃしゃり出てきて、だから中学生でもちゃんとしたセックスの知識、正しい避妊の教育をせにゃあかんちゅう結論だった。知りたい具体的話は無し、知りたいのは、避妊具がはずれ大騒ぎしたのだから、精液が膣の中に入るいわゆる「中だし」状態となったのだろう、その結果、不幸にも妊娠したかどうか、であるが書いてなかった。

 ワイなんぞは、チ〇ポをもてあそんでいるとき、チ〇ポの先からなにやら透明な液がでて驚くと同時に気色わるい思いをした初めは、中学三年の時だった。透明な液だから精子も含まれてはいまい。たっぷりと白いミルクのような汁が出たのは高校の時になってからだった。第一、チ〇ポの皮を無理に引っ張ってズルりとむけたのが高校生の遅くになってからだったから、中学の時にセックスしようとしても包皮が痛くてできなかっただろう。ワイらの時の多くの中学三年生はそんなものだった。

 いかんいかん!下ネタの話となると、嬉っせげぇに大きく脱線してしまう。元の高校入学試験に話を戻そう。

 まぁそのような中学生(上の話のつづきからどんな中学生じゃと思うが、もう大人に近い頭脳、体をもつ中学生としておこう)が受けた高校入試のための学力テストである。その昨日のテスト問題が今日のローカル新聞に載っていた。国、数、英、社、理の五科目である。ちなみにワイの高校入試の時は九科目もあり、五科目のほかに美術、保健体育、音楽、技術家庭の筆記試験があった。

 その新聞に載った五科目、時間があればこのジジイがチャレンジするのも面白かろうと、ザッとみてみた。精いっぱい問題を解き、平均点くらいはゲットできるかなぁ~と思わせるのが、国語と社会くらい。英語も時間をかければ、なんとかと思うがおそらく平均点もとれまい。数学も問題の意味やその意図はわかるが、解くのが煩わしく、チャレンジする気になれない。一番難しいのが理科だった。

 まぁワイは75歳の耄碌ジジイやからしゃぁないわ、と言い訳できるが、これ中学生の父母は40~50歳くらいだろう、はてどれくらいできるのやろうと思う。こんなことで息子や娘と張り合わんでもいいが、同等以上にできたら息子や娘にもちょっと大きな顔ができそうな気がする、ま、子も孫も持ったことのないジジイにはわからんが。

 その入試問題を見ていて思ったのは、五教科満遍なくできるのがいいが、全部やるのはどうしてもたいへんという場合、ずっと絞っていって二教科を集中してやるとしたらどれがいいか考えてみた。ワイが考えるのは「国語」「数学」となる。これからの世に必要となる能力を養うのに重要な教科であると思うからだ。もうAI(人工知能)の脳力が人を凌駕する時代が来ている。知力・能力で人は対抗できない。人に求められるのは、AI(人工知能)と対話できる人の側の能力である。論理的で意味のはっきりした文を作れる能力が重要となる。なぜならある回答、あるいは意見をAI(人工知能)に求める場合、人は最低限このような文、言葉を作れなければいけないからである(そのような文、言葉はプロンプトと呼ばれる)。

 また確率・統計的思考が重要となり、AI(人工知能)がかなりのことをやってくれるといっても、ある目的のための解法の手順であるアルゴリズムは、人が創造する分野として残されていくと思う、そうするとそれは数学の分野となる。

 国際化の時代、国語よりむしろ英語じゃないかと思うかもしれないが、AI(人工知能)はたやすく翻訳・通訳を瞬時に、かつ正確にやってくれる。むしろ、先に言ったように、どのような言語であっても、論理的で意味のはっきりした文を作れる能力が必要とされ、それは英語ではなく、母語の日本語がもっともふさわしいものとなる。

 もっとも実際問題として、中学生に五教科を二つに絞らすことは出来ない。高校入試は五教科総合得点を合否の判断とするが、最低点のルールがあって一教科でも最低点以下だと総合点で合格に達していても不合格となるからだ。まぁ、一般教養を身に着けるという意味でも高校卒業までは満遍なく全教科を、多少苦手でもこなす方がいいだろう。あ、性教育も含めまひょ。

タリフマン

 

 タリフマン、タリフ(tariff)とは関税のことで直訳すると関税男、一般名詞としてではなく、それが指し示す特定の人がいる。いま各国を関税攻勢で困惑させている人、言わずと知れたアメリカ大統領トランプはんのことである。アメリカを偉大にする、裏を返せばアメリカを強くする、といって様々な施策を矢継ぎ早に打ち出しているが、その一環として各国に大きな関税をかけようとしているのは、自らを「タリフマン」と呼んでいるトランプはんの施策の重要部分である。

 私は経済には強くないので、各国に大きな関税を課すことが、どのようにしてアメリカを強くするのか、の詳しいメカニズムはわからない。新聞などの論説で知るくらいだ。関税は適切に用いれば、税なので国の税収も増えるし、また過度な安売りの輸入品に対し、自国産業を保護する意味もある。また戦争に訴えないで特定の国を罰するのに、懲罰関税が有意義なときもある。それらはたしかにアメリカを強くするのに寄与するだろう。

 しかしトランプはんの打ち出している各国に関税をかけまくるのは、大方の新聞の論調によれば、とても適切とはいえないらしい。結果として貿易摩擦、すなわち米国から関税をかけられた国がそれ以上の関税を対向してかけるとか、関税として上納される分だけ、輸入品は値上がりし、結果として米国の物価が上がることにつながる。そして海外貿易は縮小傾向となり米国のみならず世界経済を不況に陥れるとのこと。どれも読んでいて納得できることばかりである。物価高、不況は庶民にもっとも経済的ダメージを与える。

 新聞の解説はさらに歴史的に関税障壁で先進各国がブロック経済に移行した1930年代を引き合いに出している。先進国の中でもブロック経済圏を作ろうにも規模が小さく、経済圏を作っても、その内部に原材料やエネルギー資源が乏しい国であったドイツ、イタリア、日本は、経済圏の拡大を求め、それが第二次世界大戦の大きな動機となったことを指摘している。なるほとどうなずける。

 関税は適切に用いれば有用だが、トランプさんの関税のかけ方を見ていると、米国以外は眼中にないどころか、米国国内の経済にも良い影響をもたらさないだろうと思わざるを得ない。なにか、常識的な新聞や私が思いつかないような深謀遠慮があるのだろうか。トランプはんのキャラをみているとどうもそんなのもないのではないか。もしや知将(有能な側近)がアドバイスかとも思うが、いやいやトランプはんはそんな知将を置かないし、第一、聞かないのではないかと思いなおす。いったいどうなることかと思うが、関税かけまくりは世界そして日本に経済的悪影響をもたらす恐れが強いのではないか。


 蚤の金玉びゃぁのわずかの年金(そして上がる率もちょびっと)しかないジジイにとって、もっとも痛いのは諸物価高である。コロナ以前の5年前からみると物価は、年々どころか最近は季節(三ヶ月)ごとに値上がりしている。エンゲル係数100となってもこれさえあればなんとか露命をつなげるという米でさえ2~3倍の値上げである。このままでいけばワイは一年後にはやりくりがつかなくなる。ほれまでに死ねばええんだが、そううまくもいくまい。大正7年にあまりの米の高騰におかみさん連中が、米寄こせ、といって米穀商や倉に押しかけ強訴・強奪した米騒動があったが、これ以上物価があがるとそんな騒動も是認したくなる。各国の関税のかけあいがはじまれば、だれが考えたって物価高に跳ね返ってくる。これ以上の物価高はホント、ワイの死活問題だわ。


 トランプはんはこうのたまったそうである「あぁ~、関税、なんという美しい言葉だろう」(もちろん英語で、これと同じ意味の言葉だが)、彼は関税は富をもたらしアメリカを強くすると思い込んでいるようだ。彼はまた19世紀末から20世紀初頭に大統領だったマッキンリー氏を尊敬している。彼も関税政策を多用した人として知られタリフマンと呼ばれていた。関税ばかりでなくマッキンリー大統領はアメリカの帝国主義を代表する大統領でもある。海外に領土を求め、あるいは保護国化した(ヒィリッピン、ハワイ、スエズ運河とパナマなど)。そんなところからトランプさんはマッキンリー大統領と自分を重ねているのではないか、その結果が関税かけまくりと、帝国主義を彷彿とさせる言説なのだとすると、ずいぶんと時代錯誤じゃないかと思うが、ちっとも改める気はなく、これからもそのような方向で進んでいくようである。

 トランプはんは歴史的に帝国主義の高まったマッキンリー大統領の時代の関税のイメージが擦りこまれているのではないか、だから「関税、なんと美しい言葉だろう」といい、関税の良い面だけしか見ていないのではないか。日本史が好きでいろいろ勉強してきた私は関税にそんな美しいイメージを持たないどころか、はっきり言って嫌なイメージを持っている。

 近代史では幕末に結んだ不平等条約の一つに関税自主権がなかったことがあげられる。日本は、欧米から押し付けられた不平等条約のため、関税のプラス面の一つである国内産業保護のための関税障壁を自主的に設けられず、その撤廃に何十年も苦労するのである。関税をかけたくてもかけられなかったのである。関税に関し、この横暴な欧米は、近代史を勉強する日本人にはちょっとしたトラウマになる。関税にわるいイメージがくっつく。


 中世までさかのぼると関税はもっと嫌なものとなる。え?中世に関税があったの?と思われるかもしれませんが、関税とは呼んで字のごとし、各地に蟠踞する中世の領主がその領土に出入りする要所に関(セキ)を設け、その(所)を通過するとき領主によって人には通行税、物品には物品税を徴収された。これが関(所)の税、すなわち関税、これがそもそもの始まりである。中世は封建領主がたくさんいて、そのめいめいが関所を設け、通行のたびに何やかやと徴収されるのであるから、旅人、商人が受けるそのわずらわしさ、その負担は並大抵ではない。自給自足経済のままなら他領へ行くことなどめったになくてもよいが、これでは全国一円の経済圏の構築は難しくなる。自給自足のままなら、経済規模の拡大も、ひいては庶民の経済的向上も無理となる。

 その中世の弱小経済を打破し、近世の経済へと移り変わる大きな動きが、中世末にあった。「楽市楽座」である。戦国末に数ヵ国にわたる比較的大きな領地を一円支配した戦国領主は自ら楽市楽座令をだし、領地一円、スムーズな経済流通が行えるように意図した。その楽市楽座令のなかでも肝であったのが関所の撤廃である、当然、頻繁で煩わしい関(セキ)銭の徴収も廃止となる。これが近世経済への脱皮のきっかけとなるのである。

 ちょっと想像してほしい。35kmほど向こうの目的地(これは人が徒歩で日のあるうちに無理なく歩ける距離)に行くのに、三ヶ所の他領主のところを通るとしたら、三度関所を通らねばならない。その都度、関(セキ)銭を取られるとしたら、どうかを。まったく関所が廃止になってよかったと思いませんか。現在でも中東のある地域では、反政府組織が、それこそ中世の領主のように支配地をモザイクのように持っているところがある。他国者は通行のたびに関(セキ)銭を取られる。そこではまだ中世が残っている。

 このように日本の中世の関所、そしてそこでふんだくられる関(セキ)銭のイメージが私にあるから、関税はどうもよい面より悪い面の方が先行してしまう。そして今あらわれたトランプはん、関税をかけまくる、といっているが、なにやら中世の恣意的でわがままな領主があっちゃこっちゃに関所をもうけ、金をまきあげようとたくらんでいるようにみえる。タリフ(関税)が美しく素晴らしく見えるのは、トランプはんだけじゃないのかと思ってしまう。

2025年3月2日日曜日

とってもわかりやすい人やなぁ

 

 外交とはもっと、優雅なものであると思い込んでいたが、しかし考えると、一歩間違えば、つまり、口から発する言葉の一つでも間違えば、戦争にも発展しかねない危うさを含んでいるので、真剣そのものである。優雅さだけで済むはずがない。では、なぜ優雅なものと思い込んでいるのだろう。それは世界史でならったウィーン会議(1814年)の様子やその挿絵などにも影響されている。その上にこの会議を評した「会議は踊る、されど進まず」という言葉に、ワルツにのって踊りながら優雅に外交を進めるイメージを膨らませたのであろう。大昔、白黒の洋画でこの会議を舞台にした映画「会議は踊る」をみていたことも影響している。

 それでも、裏で、あるいは水面下で丁々発止のやり取りを繰り返しても、表面上は穏やかな言葉を使いつつ、そのなかに皮肉や、揶揄、あるいは暗喩など用いながら、婉曲に、しかし確たる外交の意思を伝えるものであろう。一対一のやり取りもあるが、数多くの国の外交官を相手にするときもある、そのような多数の中で粗野で直接的な言い方は、嫌われ、馬鹿にされるのではないか。まるでゲームのような駆け引きを用いる外交には、少なくとも表面上は優雅さが似合う気がする。

 しかしこれも前々世紀(19世紀)のウィーン会議のような、ヨーロッパのみの多国間外交の時代で終わったのだろう。20世紀の(1945年)ヤルタ会議では大国の(米、ソ、英)の直接的で赤裸々な取り決めで第二次世界大戦後の体制の枠組みが決められた。剥き出しの力の外交である。

 それでも新聞、ラヂヲ、テレビなどの発達によって、国民が外交当事者(外交官、大統領、首相)どうしのやり取りが見られるようになった時、少なくとも表面上は穏やな言葉をもちい、礼儀正しい挨拶をし、その意味では優雅さを見せたのである。

 ところが二日前のホワイトハウスでのトランプはんとゼレンスキはん二人の大統領のやり取りをみると、残っていたそんな表面上の優雅さもどこかへ飛んで行ってしまったようだ。でも外交ってすぐには意味が分からない言葉を用いながらやるものと思っていたが、トランプはんの言葉はとってもわかりやすかった。エエか悪いかは別として。

災厄は・・三月か

  私は昭和20年代生まれだから、私の生きて体験してきた社会経済政治の大きな事件を記述すると、そのまま日本史の現代史戦後以降)になる。その中で人々に大災厄をもたらしたものを、(私の独断だが)あえて三つあげるとするとどのようなものになるか。災厄を ①大天災 ②大流行病 ③国家転覆(大反逆)、の三ジャンルとすると、①は東日本大震災 ②はコロナ流行病 ③は地下鉄サリン事件となるのではないか。

 ①の天災については阪神淡路震災も含め多くあるが、ジャンルから一つとるとすると、死者行方不明者数1万8500人、そしてすんでのことに東日本全体を退去地域にしかねなかった原子炉爆発事故などを考えるとやはり「東日本大震災」をあげた。②については大正時代にもっとすごいスペイン風邪があったが、これは現代史(戦後以降)から外れ、近代史になる。③については戦後おおむね平和で、大規模騒擾も、226事件のような反乱も起こらなかった。しかし唯一地下鉄サリン事件は、明確な計画をもって国家組織を麻痺させ操ろうとした、国家転覆(反逆)の企てとされる。


 東日本大震災は3月11日に発生した。コロナ勃発は中国で11月頃と言われているが、日本で大流行し始めるのが令和二年の初春ころからで、三月になると人々が行動制限をはじめ、マスク、紙類が品切れとなり、パンデミックの不安が社会に暗い影響をもたらしてくる。そして地下鉄サリン事件は平成7年3月20日である。

 なんと三大災厄は3月に起こり、あるいは3月にその猛威をふるい始めるのである。だからといって、何も三月に起きる理由があるにちがいないとか、三月は縁起の悪い月だとかいうつもりはないが、私の見聞きした現代史のその三災厄はこの月なのである。

2025年3月1日土曜日

高等学校卒業式

  今日から三月、晴れて暖かくなるとの予報どうり気温も15度まで上昇し、風もなく穏やかな・・まではいいのだが、今日は花粉の飛散に加えて大陸から黄砂も飛んできて、鼻アレルギーの私にはいい日とは言えない。

 今日は土曜日なのに制服をこジャンと身に着けた高校生が昼頃、駅前で目立った。そういえば、今日は公立高校の卒業式だ。聞くと三年生ばかりでなく一二年生も登校日らしい。式に出たそうだ。

 近年高校生の、各種学校も含めた大学進学率はかなり高くなっているので、高校卒業式が即、社会への入り口の記念日となる子ぉらは少なくなっているが、それでも多感な18歳である。友と別れ、高校をでていくことにいろいろ感じることはあるだろう。希望、喜び、あるいはちょっぴりの悲しみ、寂しさなど、また法律的にも満18歳からは成人とみなされ、大人への入り口となる。したがってこの高校卒業式は一入思い出に残るものになるのではないだろうか。


 もう60年ちかく前の自分の高校卒業式のことを思い出してみる。式そのもの、つまり式次第はどんなものだったか記憶にない。国歌と校歌を歌っただろうが、それもはっきりしない。ただ式はあっけなく終わり、すぐ校門を出て行ったという印象は残っている。いくら考えてもそれ以上は思い出せない。しかし、当日、校門前で撮った一枚の写真だけが確たる卒業式当日の一コマの真実を示している。

 春休みで帰省していた一年先輩が、知り合いの後輩の写真を撮るためカメラをもって、校門前で待っていた。その後輩の一人として私の写真も撮ってくれたのだ。左の写真である。学生服の上から濃紺のコートを着ていて、右手に卒業証書のはいった筒を持っている。

 今だとほとんどの高校生がスマホを持っているから、写真どころか動画もパシャパシャと撮り放題で、いろいろな角度から多数の記念写真・動画を残せるが、この時代、私の家にはカメラすらなかった。唯一、先輩がとってくれたこれが卒業式当日の私の写真である。色あせているがカラー写真である。紅顔白皙の・・とは恥ずかしくて言えないが、初々しい18歳の自分が確かにいる。

2025年2月27日木曜日

梅の香  

  ばぁやん二人の会話が(だいたいこの歳になると耳が遠くなる、ワイもそうだ、だからその影響でか会話は大音量になる場合が多い)聞くともなしに聞こえてきた。

おバァ甲「もう、こうえんのうめがさいとんじょぉ」

おバァ乙「ほ~でか、エエ匂いがしたでか?」

おバァ甲「うめってどんなによいがしよんえぇ~?」

おバァ乙「なんちゅうたらええんかいなぁ~、うぅぅ・・、まぁかすかなによいじゃわなぁ」

 ばぁやんの会話の中で「梅はどんな香りか?」と聞いた。返しはあいまいに、かすかな香りじゃ、といったが、香りの説明はけっこう難しい。香りはストレートに嗅覚に作用して快、不快をもたらす。花の匂いはおおむね「快」をもたらすことが多い。しかし具体的な花をあげてそれがどんな匂いか説明せよ、となると頭を抱えてしまう。誰もが知っている匂いに近いなら、それにたとえてそれとよく似た匂いだといえることがある。例えば「クチナシ」の花、強烈な香りで、よく似た香りが、「バナナの熟したかおり」に近い。バナナの熟した香りは誰でも思い浮かぶので、それとよく似た匂いである、と説明に用いることができる。

 しかし梅の香にそれは使えるだろうか。私が初めて梅の香を嗅いだ時もよく似た匂いの香りを思い出した。それは手の荒れを防ぐクリームの香りで「梅の香ワセリン」、自身ではよく似た香りだと認識できるが、そんな例は特殊な人のみにわかって大勢に人には一般化できない。したがって香りの説明にはならない。第一、梅の香を説明するのに、梅の香ワセリンとはトートロジイ(同意語)で説明にはなっていない。

 お利巧さんなAIに答えてもらうと次のよ~うな説明を受けた。

『梅の花の香りをひと言で表すとジャスミンに似た甘い香りです。 フローラル系の華やかで甘い香りがほんのりと感じられます。 梅の花の香りを表現する言葉の1つに「馥郁(ふくいく)たる梅の香り」があります。 馥郁(ふくいく)とはより良い香りが漂っている様子を表します』

 う~ん、ジャスミンなぁ、たしかに大勢の人が嗅いだことがあり、一般化できるかもしれないが、一般化しすぎて、香水からクリームなどの化粧品ばかりでなく、洗剤、はては脱臭消臭剤、便所の芳香剤までありすぎて、わからない、オリジナルの「ジャスミンの花」の匂いが一番近いのだろうけど、これを体験し、すぐに思い浮かべる人など少数であろう。

 お利巧さんなAIの説明だが、このように分析した結果、これこれの花に似た匂いだ、といわれてもどうも納得しがたい。無理に似たものにたとえるのではなく、他の説明のしかたが適当なように思われる。上のおバァの説明にも「かすかな(よい)香り」といいうのがあったが。ふつうはこれで納得して話は進む。もっと加えるなら「上品でかすかな香り」といえばもっといいかもしれない。上品でかすかな香りという系統の説明でいけば、高級な香木(お香)の移り香のような・・というのもいいかもしれない。しかしこれだと、先ほどのよく知らない香りのたとえで、ダメなのではないかといわれそうだが、上品でかすかな香り、というのも、香木の移り香のような、というのも具体的なモノのたとえでなく、万人が持つ感性的な印象によっているものである。

 かすかに漂う梅の香は、古人にも愛され、歌や俳句にも読まれた。

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ 昔 の 香 に にほ ひける 紀貫之

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 蕪村

 梅の花と言えば天神さん

東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真

 下の写真は今日の眉山ふもとの天神さんの梅、白梅は満開で馥郁とした香りが漂っていた。しかし紅梅はまだ固い蕾だった。梅の香りの形容は「馥郁(ふくいく)」がいいとAIさんはおっしゃいますのでそう書きました。