2024年11月20日水曜日

また私に近い歳の有名人がなくなった

  火野正平さんが亡くなったというニュースを今日の午後聞いた。今年、それもわりと最近、BS・NHKの「にっぽん縦断 こころ旅」で元気に自転車を転がし全国各地を回り、視聴者から寄せられた思い出に基づく心の旅を続けられていたのに。だから逝去のニュースに、え、何で急に、と驚くとともに同世代としてとても残念でさびしい。

 今日は、正平さんを追悼の意味で、二年前わが故郷に「心の旅」で来てくださったときの私のブログを再掲いたします。火野正平さんのご冥福をお祈りいたします。

2022年、10月20日のブログより

 昨夜、何気にテレビを見ていると目に飛びこんだのが私が毎日使っている「鴨島駅」である。そこに「火野正平」さんがいる。驚いた!番組名を見ると「こころ旅」とある、これは読者の手紙を元にその手紙にある場所を訪ねる番組である。

 正平さんが手紙を読んでいるのを聞くと、主は70歳ちょい手前の女性、そして訪ねてほし場所は「県立川島高校」、半世紀以上前、ある親しい友人と楽しく会話しながら川島駅から坂を上って通学したこと、そしてその友は30代半ばで病で亡くなったことが記されていて、その半世紀以上前の女子高生の時友と共にあるいたその「坂」をぜひ正平さんに訪ねていってほしいとのことであった。これを聞いて二度びっくり、なぜなら、私がやはり半世紀以上前、同じ坂を毎日通ったのがこの川島高校だったからである。(このブログの右上のプロフィール欄にワイの高校時代の写真を貼ってあるが、この写真はその高校のクラスの集合写真の一部である

 出発地はだから、わたしのおなじみの鴨島駅。下は鴨島駅ベンチに腰掛ける正平さん。正平さんも歳ぃいったな、なんかこの写真を見ると、まるでワイが鏡に向かっているようやわ。


 今朝、汽車に乗るとき鴨島駅の同じ場所を確認した。そう、この下図の場所が、今でも高校生が汽車の時間待ちをしているベンチで、正平さんはすわっていた。


 駅前から南の向かっての通りの一つにボロボロになったアーケード街がある、正平さんはそこを自転車でゆく。大昔、手紙の主やワイが半世紀以上前の高校生の時は、この通りも「銀座通り」と呼ばれ、いろいろな店がひしめき、買い物客でにぎわっていた、しかし今はずっと南の国道ぶちに賑わいの中心は移ってしまい、現在ではほとんどの店が閉まっていてシャッタ―街と化している。


 「いやぁ~、こんな撮影があったとは地元じゃが、知らなんだ、知っていたら何があってもそれを放っておいて見に行ったのに、残念。それにしても何時撮影に来たのだろう。この後、なぜか吉野川土手沿いを(上の写真から向かっているのとは方向が違う)走った時、その撮影時の手がかりがあった。曼殊沙華が真っ盛りなのである。今年は盛りが少し遅かったので9月下旬ころと思われる。下は曼殊沙華の咲く吉野川堤防上の道をゆく正平さん。(今日、鴨島駅の駅員さんに聞くとやはり9月下旬に撮影に来たそうだ


 そして例の「坂」を、正平さんも川島高校生のように徒歩で上った。「あぁ、ワイもこの坂を上ったはるか昔の高校の時が思い出されるわ」


そして川島高校校門前につく、実はワイが高校の時(手紙の主もだが)は正門はこの場所とは違っていた。校舎ももちろん(現校舎もかなり古くなっているが)ワイの時とは違う、まだ木造だった。そして最後に、校舎(後方の鉄筋コンクリト)が見える坂の途中で立ち止まり、改めて読者の手紙を読む正平さん。


2024年11月19日火曜日

ガイド付き寺町散歩 

 一昨日(日曜日)、図書館主催の寺町歴史散歩に参加した(申込者は20人ほど)。寺町にある寺をガイドはんと一緒に歩いて、歴史的な遺跡、遺物(お寺が多いので歴史上の人物のお墓が多い)を見学し解説を聞くものである。下は散歩途上その解説の様子、赤のベストを着ているのが一緒に歩いてくれたガイドはん。


 ここらあたりはワイ一人で足るびゃぁ歩いているので、ほとんど新しく知ることはなかった。ブログにも何度も取り上げている。そのなかで知らなかったのを下に写真と共にアップしておく。

 上の寺の山門を入ったところにある踏み板は三畳ほどあるが一枚の大きな阿波の青石で作られている。


 前(一人で)寺町をフラフラ歩いた時は、こんな六地蔵はなかったが、今回新しく作られている。伝統的な六地蔵と違い、ずいぶん斬新である。一番端の空を飛ぶオッゾウはんなんどはまるで鉄腕アトムである。寺の境内には入れないので、裏と横から撮影した二枚の写真

 

 歴史好きのワイでもこれはしらなんだ!滝薬師境内にある供養の奉納石塔に刻まれているのが江戸期の徳島城下の「鳥屋新助」はんの名前、この人は城下で商売を営んでいたそうだが、なんと天保の改革ででてくる町奉行の「鳥居耀蔵・甲斐守」のおじいちゃんだとか(母方だろう)、へぇぇぇ~、である。下がその石塔


2024年11月18日月曜日

トラのはなし

五黄のトラ

 ワイの同級生の(十二支)の生まれは、おおかたは寅年となる。だいたい同級生の四分の三は寅年で、残りの四分の一はウサギ年となる(日本では4月生まれから一年間同学年となるので)、ワイは三月生まれなのでウサギ年だ。それがどうした?という話だが、どっちゃ生まれでも変わらんだろうと思うのだが、ワイが小ンまい時、祖父母から残念なように言われたのは、「おまぃが、もちっと早よぉ生まれとったら(前年12月までにおじみそ怖じミソ?か・ウチらの地方の方言で、怖がり)や、いじめられっ子にならなんだのになぁ、数か月早よぉ生まれてたら、ウサギで無ぅて、寅年も寅年!五黄の虎じゃったのになぁ、そしたらよかったのに」

 これは何度も聞いたので、その「五黄の虎」っちゅうんはえっぽどイイ生まれやったんやな。と思ったものである。まぁ、寅(虎)は百獣の王だからわかるが五黄とは?なんじゃろ、明治生まれの祖父母が育った時代は「九星気学」による天運が人に大きく作用すると考えられていた。九星とは「一白水星. 二黒土星. 三碧木星. 四緑木星. 五黄土星. 六白金星. 七赤金星. 八白土星. 九紫火星」である(各星が人の運命に作用するというのは西洋占星術にもある)。この五番目が「五黄」となる。それと「十二支」を組み合わせると9と12の最小公倍数の36の組み合わせができる。つまり寅年と五黄の組は「36の1つ」となる。1950年の次は1986年、その次は2022年であった。

 その五黄の寅生まれの、九星気学による天運によればその歳生まれは、非常に強い運勢を持つと言われているとのことである。それだから、九星気学による「運勢暦」を毎年買って、その吉兆をみて、家庭の行事や、今年の運勢はどうか、と参考にしている明治生まれの祖父母は、ワイが五黄の寅生まれでなく、四緑木星の卯(ウサギ)だったのが残念でならなかったのだろう。でもワイとしたら、五黄土星はともかく寅(虎)なんぞ動物として好きではない。ウサギのほうが良かった。もっともベトナムやベラルーシ(ウクライナの隣国)での「十二支」にはウサギはなく(虎はある)、ウサギの代わりに猫となっている。猫大好きのワイとしたら、猫年生まれがよかったが。

茶トラ

 そのワイの大好きな猫であるが、ねこでトラといえばとら猫だろう。一昨日、小松島のある寺の山門をくぐった時、子犬ほどの大きさの茶色のトラねこが土ベタに半分横になり体を大きく曲げて自分の股をなめていた。ワイが近づくと、動きがパタと止まったが、じっとそこを動かず、胡散臭げに顔をこちらに向けた。しかし逃げるでもない。早よぉ行けや、と言ってるみたいに睨んでいる。太々しい感じのする猫であった。

 祖母も猫好きだったせいかワイの子ども時代はずっと家に猫がいた。物心ついたころから高校生までに間に飼った猫は5匹くらいだろうか。いずれも種類は、三毛(三色のブチ)やタマ(白黒二色のブチ)であった。トラは飼っていなかった。というのも、トラは気が荒く、家にいつかないから(祖母が飼うのはおとなしいメス猫ばかりだ)と祖母は行っていた。トラ猫の性格にこのようなものがあるのか、と調べるとトラ猫が特に気が荒い性質はないようだが、茶トラは大方がオス猫で、そういったこともあって祖母は飼わなかったのかなぁと思っている。(全く茶トラのメスはいないわけではなく二割程度はいるそうだ

ふうてんのトラ

 ふうてんのトラとは映画「男はつらいよ」の主人公である。シリーズ映画であった。ロードムービーであるが、「ふうてんの」といわれているように、アウトローな身で(一応、テキヤという根無し草のような商売をしているが)気ままに全国をフラフラ経めぐる。そして絶対成就しない恋も毎回のお約束事である。これはとんでもなく長く続いた。たしかシリーズ映画の長さではギネスに認定されたようだ。始まったのは1969(昭和44)年8月封切り、が第1作でその後次々作られ最後の48作目は1995(平成7)年12月封切り、であった。始まりは私が高校三年の夏、私が45歳になった年のお正月映画が最後であった(主演の渥美清さんの死で

 私はこの映画の大ファンであった。20代の時、市内の封切館ではじめて見た時、「ああ、こんな生き方もあるんだ。出世や金持ちになるだけが人生じゃないんだ」と青臭い考えだが思ったものである。トラさんの生き方に全面的に賛成したわけではないが、もともと旅行好きで放浪癖のある私は、トラさんのように全国を放浪し経めぐる生活にはあこがれた。いつか自分も全国を巡ってフーテン暮らしができたらいいなぁと、できないながらも夢見た。

 そして39歳の年が終わる時、仕事が嫌になってやめ、車でだが全国放浪の旅に出た。最初の二年間はまったく故郷に帰らなかった。そのあと四年間は、半年は家にいてあと半年は全国放浪という生活が続いた。まさにトラさんのようなフーテン暮らしである。

 足の向くまま気の向くまま全国をフラフラするフーテン暮らしは、今思い出しても、うっとりするくらいすばらしかった。まだ40代前半で体力も気力も充実していて、知らぬどの土地へ行っても楽しく過ごせた。山や海岸、湖でぼんやり過ごしたり、知らぬ街の雑踏を歩くと、なぜかわくわくして気持ちがはしゃいだ。九州や東北、北海道には無料またはわずかな入湯料で入れる、露天や地域の温泉もある。出たり入ったりでその地でゆったり過ごした。また名所古跡を尋ね、歴史上の出来事を夢見て半日過ごしたこともある。

 ただ「トラさん」と違ったのは、彼はフーテン暮らしをしていても、テキヤで稼いでいた。その仕事の性格上、有名観光地神社仏閣で商売をするから全国を経めぐることもできたわけだ。それで金が稼げるから、フーテンのトラさんの仕事としてはこの上のものはない。だが、私はそんな稼ぎはできなかった。ただ銭をできるだけ使わないような放浪のフーテン暮らしである。だから蓄えた金も少しずつだが確実になくなっていく。5年もたてば金もほとんどなくなった。

 平成8年の8月、北海道を旅していた。テントで寝たり、車で寝たり、また北海道にはほとんど無料のライダーハウスもあり、放浪のフウテン暮らしにはそう金もかからなかったが食料、ガソリン代、フェリー代、などはいる。そろそろ持ち金もそこをついてきた。野宿が寒くなる9月ごろには家に帰って、生活費のためにいよいよなにか生業につかにゃあかんな、と考え始めていた。

 その8月の初めころ、網走駅でのことである。夕方、駅前のスーパで食料を仕入れ、車は駅の無料駐車場にとめ、駅の待合室のイスに座り、豆をかじりながらコーヒを飲んでいた。駅待合室には備え付けのテレビがあった。そのニュースから流れてきたのが、渥美清さんの死亡である。結局その年のお正月映画(前年12月23日公開)48作目が遺作となったのである。「もうワイのフーテン暮らしも終えなけりゃとおもったころ、フーテンのトラさんも死んでしまった。なんか、これは因縁というか、フーテンのトラさんとの同調とでもいうか、そんなものを感じるなぁ」とニュースを見終わったあとそのような感慨にふけった。

 フーテンのトラさんとの因縁そして同調していると思うためか、今もこの映画1~48作は何度でもみる。なにせ私が高校3年から45歳になるまで作られた映画である。その各々を見るたび、その年の自分のしていたことを、思い出し、懐かしさに浸る。この映画が喚起するその年の思い出は楽しさもあるがほろ苦さもある。しかし心地よいものである。

あめトラ

 マスコミのセンセーションな見出し時の推移順に挙げてみる
 
もしトラ⇒ひょっトラ⇒ほぼトラ⇒確トラ⇒またトラ


 断定はできないがこれを見ると、日本のマスコミは、アメリカ大統領に再びトランプさんが返り咲く可能性を軽視していたんじゃないかと思えてくる。この見出しの流れを見ると、マスコミは嫌な奴だからなって欲しくないと内心思っていたんじゃないか、でも、もしなったらどないしょうに、そして選挙が進んでくると、ひょっとすると、から、ほぼになり、ついに定をへて、ついにまたトラに。


 前もブログに書いたが、私はアメリカ共和党贔屓ではあるが、必ずしもトランプはん贔屓ではない。ただ、彼は喜怒哀楽がわかりやすい、大統領として見るのでなく、ただのアメリカのおっさんとしてみれば(横からみているだけなら)、かなり面白っしょいおっさんである。
 

 私が大笑いしたエピソードの1つを紹介しよう。上の写真はトランプはんと同じ共和党のマルコ・ルビオ上院議員である。かれとは8年前共和党の大統領指名選挙を争ったが、今回、トランプはんは彼、マルコ・ルビオ氏「国務長官」に指名した。かなり仲がよさそうであるが、8年前、共和党指名候補選挙を争ったときは厳しい論戦があった。その論戦がまた面白い。

 口が悪く、金持ちのわりに下品なトランプさん、マルコ・ルビオさんが背が小さいので「お前はちびマルコ」だと挑発した。もっとも英語ではLittle Marcoであるが、日本人の私はその日本語訳のちびまる子で笑いのツボにはまってしまった。
 上の写真でみると確かにトランプはんより低いが揶揄するほど低くはない。逆の高身長に関しては、テレビ映えする高身長の人物大統領選に勝つとの俗説もある。身長188センチと背が高いトランプ氏からの皮肉は、ルビオ氏のプライドを刺激したようだ。
 「政策の話をしよう」とかわしていたルビオ氏だったが、挑発に乗って「トランプ氏の手は小さい」と身体的特徴をあげつらった。同じ土俵に上がったルビオ氏を、トランプ氏は見逃さなかった。「マルコは『手が小さいやつはあそこも小さいに違いない』と言うが、私には何の問題もない(つまりチ〇ポは大きい)」とやり返した。手以外そんなことは言っていないマルコ・ルビオはんだったが、シモの話題に引きずり込まれてしまって、トランプはんの威勢に完全に押されたのである。で、ちびマルコはんは敗退した。

 このマルコ・ルビオさん、共和党員らしいいい政治家である(と私は思っている)。そんな揶揄して敗退させた相手ではあるが、ちゃんと実力を認め、トランプはんは国務長官に指名した。もしかして期待できる大統領になるかもしれん。ええトラになったらいいな。

2024年11月16日土曜日

野ぐそ

 

 昨日、雨もよいの天気だが、降っていなかったので、鮎喰河原を散策していた。ススキなんぞが生い茂り野草でほとんど隠れた土手横の道を歩いていた。するとどうしたわけか急に便意を催し、とても辛抱できる状態ではなくなった。近くに公衆トイレはない、ええ、どないしょぅに!

 パンツ、ズボンがウンコもぶれになることを思うと、もうここは「野ぐそ」しかない。であたりキョロキョロ、人に見られるのがこの上なく恥ずかしいので、絶対見られたくない。幸い人気はない。そのうえ荻、ススキ、泡立ち草なんどの人の背丈もある野草が生い茂っている。ただ、土手は野ぐそをしようとしている場所より高く、上から見下ろす位置だから、もしかしたら見える可能性もある。

 しかしもう出かかっている、ええぃ、みるならみれ、と急いで草むらに入り、ズボンパンツを下ろすと、即座に粘性のゆるぅ~ぃ便がビ音とブ音を響かせながらケツからひりだされた。

 ホッとしたが、次にハッと気づいた。「あああぁ~~っ!」、先にカバンからチリ紙出してケツ拭く用意するん忘っせとった!ばらまけたビチ糞をよろけて踏まないように、パンツズボンはそのままの状態で中腰でケツを突き出し、なんとかバッグからチリ紙を取り出し、ケツ拭きをようようすませた。

 チリ紙は持って帰るのが筋だろうが、糞用のビニル袋なんどないので、申し訳ないが糞もぶれのチリ紙は、そこに捨てた。糞は肥えになるが、紙はエコリサイクルにはならない。エコでゆうなら糞のあとケツを拭くのも、わら芋の葉っぱなら、自然にエコリサイクルになるが、紙はなかなか自然土に帰らない。野ぐそといい、糞もぶれの落とし紙の放置といい、ワイは指弾されるイケナイことをしました。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。これからはバックの隅に落とし紙や汚物入れのビニル袋を用意します。

 しかし、もしや荻ススキの野原でも間違って入る人のためには、汚れた紙類の散らばりは、ここで野ぐそしてますよ、の標になり、糞んづけるのに注意を喚起するやもしれん。昔、知らずに野ぐそを踏みつけて、靴底について、そのまま自家用車に乗って車を出発させた、ところが(冬だったかな)ヒーターで温もった車のなかで徐々に人糞のにおいが充満し、それでやっと気づき、超不快な思いをしたのを思い出した。糞は踏まないのに越したことはない。あ!でも考えたら、ワイの踏んだ野ぐそも紙など散らばってなかった。風で飛ぶこと忘れてた。やっぱ、これは言い訳や、野ぐその紙は持って帰るのがエエ。

 野ぐそなんど、下卑た行為のようだが、背に腹は代えられぬ、ズボンのなかが糞尿地獄になるよりゃましだろう。でも野ぐそにもエエとこがあるらしい。野ぐその徳についてある人が「糞」いやちごうた「文」を書いている。ワイの言い訳に張り付けておく。

「糞土師(ふんどし)」を名乗る伊沢正名氏は、1974年から現在まで野ぐそを続け、自然との共生を提唱しています。伊沢氏は、人間が生きていくうえで欠かせない「ウンコ」を、自然界に生きる他の生物に対して貢献できるほとんど唯一の行為として捉えています。

伊沢氏は、著書『くう・ねる・のぐそ 自然に愛のお返しを』『ウンコロジー入門』などを通じて、野ぐそが自然環境を守り、災害時のトイレ問題を解決する手段であることを説いています。また、生物がするうんこが他の生物に食べられ、植物・動物・菌類からなる生態系の命の循環に必要であることも解説しています。

伊沢氏は、野ぐそを続けることで、地球全体で考えたら「うんこより大事なモノはない」と語っています。

 でも、紙で拭いたらエコリサイクルにならないから、その趣旨でいうと、紙は持って帰って別に処理するか、その場で捨てるなら、紙ではなくわらや柔らかい広めの葉っぱ(芋の葉)などで拭くのがよろしおますな。じゃけんど、ワイの野ぐその場所、周りは荻ススキや細長い葉の野草で、触れば切れる鋭い刃のような葉だから、無理にあれでケツ拭いたら、肛門の周りが傷つくなぁ。

2024年11月13日水曜日

阿南で秋の花と真夏の花が同時に鑑賞できる

  阿南市では秋の花「コスモス」真夏の花「ひまわり」が同時にみられるというので今日、行ってきました。

阿南市那賀川町古津にあるコスモス畑


阿南市那賀川町岩脇にあるコスモス畑


阿南市柳島にあるひまわり畑



動画

2024年11月10日日曜日

真っ暗やったらどないなっとんたんやろ

  昨晩、八時過ぎ頃やったかなぁ、蔵本にある銭湯で温もってた。清涼飲料水でも飲もうと、脱衣場に出てきたら、番台の大将が、川内あたりで大規模に停電しとるみたいや、といってた。そのあと、湯船に入った後も銭湯内やそのあたりは停電はまったくなく、無事に出て、石鹸箱をカタカタ言わせ、半月を見つつフラフラと家に帰った。

 今朝、ローカルニュースをみると四国電力管内で大規模停電が発生したといっていた。県内だけで11万戸以上だそうだ。(四国管内でも36万戸以上)

 よぉまぁ、銭湯に入っているとき停電せなんだもんや、とおもった。もし起こったら真っ暗で、どなんなるんや、非常灯はあるんかしらん、もし、なきゃぁ、足腰の弱いジジイばっかのあの時間帯やから、蹴躓いたり、なんとか脱衣場に這い出ても、服着るんも大変やったやろとおもう。

 まぁ、銭湯の中で、大地震に遭うよりゃましか、震度7なんどで揺れたら、素っ裸で飛び出さなあかんやらわからんからな。ジジイはええけど、女湯はたいへんやな、恥ずかしいから震度7で揺れても、また天井や梁なんども落ちかねん状況でも、上品な奥様連中は大揺れに揺れながらもなんとか服を着ようとするかもしれん、そのうちに、ドドドと天井が崩れたらえらいこっちゃ。



 昔、白木屋っちゅうデパァトで大火災が発生したとき、4,5階の売り子の娘はんらは、下で消防団がクッション広げても、よ~飛び降りなんだ。当時は、百貨店の売り子は着物で、腰巻やったから、飛び降りたら、裾が広がって、パンツなんぞ履いてないから、性器がモロ見えを心配して、恥ずかしがって飛び折れずに焼け死ぬ売り子がいたそうだ。それからや、女性が「ズロゥス」(女性パンツ)を着けだしたんは。ワイの小まい時、明治生まれのばぁちゃんがいいよった。

 まぁ銭湯での停電くらいでは、女湯はキャァ~、とかアレェ~とか悲鳴は聞こえるかもしれんが、大急ぎで飛び出すこともないやろ。

 それで、この四国管内大規模停電の原因だが、ニュースには次のように書かれていた。これ、読んでなんのこつがわかりまっか?ワイは全然わかれへん。潮流が急増ってなに?潮流で発電してんの?それとも電流の間違いか?だれぞかみ砕いて説明してくれんか知らん。

『発表などによると、同日午後2時21分、本州と四国で電力を融通する「本四連系線」に事故が起こった。連系線の2回線が停止となり、復旧操作を行っていたところ、何らかの原因で阿南紀北直流幹線の本州向き潮流が急増する事象が発生し、四国の供給力が不足したことで本州と四国の需給バランスを維持するための装置が動き、停電に至ったとしている。潮流が増加した原因については調査中としている。』

2024年11月6日水曜日

ススキの原は銀の色

  三日前、園瀬川沿いの堤防の道をフラフラ歩いていた。夕陽に照らされたススキの原がすぐ横に見えた。



 昔しゃぁ一面のススキの原が広がる原野が多かったが、最近はススキの原であることはそうであるのだが、そのあいだに同じ高さの黄色いセイタカアワダチソウド厚かましくも多く混じっている。ドあつかましくも、と言ったのは本来これは土着の日本の植物ではなく外来種である。明治末年にはもう侵入していたが、めだってはびこりだしたのは第二次世界大戦以後である。そして昭和~平成~令和と次第に勢力域を広げてきた。これでは、やがてススキの原もなくなるのではないか。一面のススキの「銀の原」は美しい、晩秋のもっとも情緒を感じる風景である。これもやがてなくなっていくのかなぁ

 

(仕事人シーリーズ「望郷の歌」)

 風に揺れるススキの銀の穂をみていると、なぜか頭の中で「♪~ススキの原は銀の色~風が身に染みる~♪」の歌が響いてきた。「これ、なんつうぅ歌やったんやろ、ウェスタン調だが、思い出せない」、ウチに帰ってネットで調べると一発でわかったテレビ「仕事人シリーズ」で今から51年前の昭和48年放映されたその主題歌だった。時代劇なのにウェスタン調とは変わっているが、この一年前「木枯し紋次郎」のテレビが放映され、その主題歌がゆったりしたやはりウェスタン調だった、時代劇の主題歌にしては斬新だったのを覚えている。この「ススキの原は~」の歌も一年前から始まった時代劇の主題歌の斬新さの系譜を継ぐものであろう。